特殊清掃「アンアンアン♪ とっても大好き~どざえもん~♪」を更新いたしました。
アンアンアン♪ とっても大好き~どざえもん~♪
「水から上がる遺体」
特殊清掃という仕事をしていると、「一番大変だった現場はどこですか?」と聞かれることがある。
そのたびに私は少し考える。
孤独死。
事故死。
自殺。
火災現場。
どれも簡単に順位を付けられるようなものではない。それぞれに違う苦労があり、それぞれに忘れられない光景がある。
今回紹介する話も、厳密には特殊清掃の現場ではない。
しかし、仕事内容としては非常によく似ており、腐敗したご遺体を扱うという意味では、多くの共通点がある。
それが、水難事故によって発見された水死体の搬送である。
毎年、川や海、池や湖では、残念ながら多くの水難事故が起きている。
夏場のレジャーだけではない。
釣りの最中に足を滑らせる人。
台風や豪雨で流される人。
飲酒後に川へ転落する人。
冬の港で誤って海へ落ちる人。
季節を問わず、水の事故は起きている。
そして、発見が早ければまだ救える命もあるが、数日から数週間、あるいはそれ以上経過してから見つかるケースも決して珍しくない。
そうなると、ご遺体は水中で腐敗が進み、生前の面影を大きく失ってしまう。
一般の人はドラマや映画の影響で、水死体というと「濡れている遺体」を想像するかもしれない。
しかし、現実はまったく違う。
水の中という特殊な環境で腐敗したご遺体は、体内に腐敗ガスが大量に発生し、全身が大きく膨れ上がる。
その姿は、まるで別人と言ってもいいほど変化してしまう。
体重も、生前とは比べものにならないほど重く感じる。
単純に体重が増えているというより、「持ち上げることができない重さ」になると言った方が正しい。
なぜなら、問題は重さだけではないからだ。
腐敗が進んだご遺体は、皮膚や皮下組織が極めてもろくなっている。
腕を持とうとすれば滑る。
肩を支えようとしても崩れる。
衣服をつかんでも破れてしまう。
どこを支点にして持ち上げればよいのか、経験のある人間でも頭を悩ませるほどだ。
もちろん、ご遺体に対して乱暴な扱いは決して許されない。
亡くなった方への敬意を保ちながら、できるだけ損傷を与えないよう慎重に搬送しなければならない。
だからこそ、この作業には技術だけではなく、経験と判断力が求められる。
そして、もう一つ避けて通れないのが臭気である。
腐敗臭というものは、文章ではなかなか伝えられない。
鼻を突くという表現だけでは足りない。
肺の奥まで入り込み、一度嗅ぐと食欲どころか、その日の気分までも奪ってしまうような独特の臭いだ。
現場ではマスクを何枚重ねても完全には防げない。
風向きが変わるたびに臭気が押し寄せ、慣れているはずの作業員ですら思わず顔をしかめることがある。
しかし、それでも仕事は止められない。
ご遺体をご家族のもとへ帰すためには、誰かが必ずその作業を行わなければならないからだ。
世間ではあまり知られていないが、水死体の搬送は、見た目の壮絶さだけではなく、ご遺体を安全かつ丁寧に扱うという点でも非常に難易度の高い作業なのである。
次章では、その搬送に欠かせない「納体袋」という道具と、腐敗したご遺体を傷つけることなく袋へ収める難しさについて紹介していきたい。
「最後の寝袋」と呼ばれるもの
前章で触れたように、水中で腐敗が進んだご遺体は、見た目だけではなく、搬送そのものが非常に難しい状態になっている。
では、そのようなご遺体をどのようにして搬送するのか。
そこで欠かせないのが、「納体袋(のうたいぶくろ)」と呼ばれる専用の袋である。
一般の人にはあまり馴染みのない名前だが、警察や消防、海上保安庁、葬祭業者、そしてご遺体の搬送に携わる人たちにとっては、ごく当たり前の装備の一つだ。
形は、人が一人すっぽり入るほどの大きさで、見た目は大型の寝袋にもよく似ている。
ただし、中綿が入っているわけではない。
厚手で丈夫な特殊素材で作られており、水分や体液が外へ漏れにくい構造になっている。ファスナーを閉じれば、ご遺体を丁寧に収容し、安全に搬送できるよう設計されている。
普段、この袋を見る機会はほとんどないだろう。
映画やドラマでは黒い袋が登場することもあるが、実際には白色やグレーなど、用途や地域によってさまざまな種類が使われている。
この袋そのものは非常に便利な道具だ。
しかし、本当に大変なのは、その袋へご遺体を収める瞬間なのである。
健康な人がベッドへ横になるようなわけにはいかない。
腐敗が進んだご遺体は、皮膚や皮下組織が極めて脆くなっているため、少し力をかけただけでも損傷につながるおそれがある。
腕を持ち上げようとすると、皮膚がずれてしまう。
肩を支えようとしても、思うように力を掛けられない。
搬送に携わる者は、「どこを持てば安全か」を瞬時に判断しながら作業を進めなければならない。
しかも、その作業は時間との勝負でもある。
炎天下であれば気温は三十度を超え、現場には強い日差しが照りつける。
川辺であれば足場はぬかるみ、海岸であれば砂に足を取られる。
護岸のコンクリートは滑りやすく、堤防には段差も多い。
そのような不安定な場所で、ご遺体を落とすことなく、傷つけることなく、慎重に袋へ収める。
文章にすれば数行だが、実際には一つひとつの動作に神経を使う。
作業に携わる全員が無言になることも珍しくない。
誰もが集中し、「せーの」という掛け声一つで息を合わせる。
少しでもタイミングがずれれば、ご遺体に余計な負荷がかかってしまうからだ。
そして、現場には独特の臭気が漂っている。
腐敗臭は風に乗って広がり、時には数十メートル離れた場所まで届くこともある。
防護マスクを着けていても完全には防ぎきれず、わずかな隙間から入り込んでくる臭いが鼻腔にまとわりつく。
それでも、手を止めるわけにはいかない。
目の前にいるのは、事故や事件、あるいは不慮の出来事で命を落とした一人の人である。
その人を、ご家族のもとへきちんと送り届ける。
そのための第一歩が、この納体袋への収容なのだ。
現場では、ご遺体を「物」として扱う人はいない。
どれほど損傷が激しくても、どれほど腐敗が進んでいても、「故人」として接する。
その姿勢だけは、どの現場でも変わることはない。
次章では、水死体を語る際によく耳にする「どざえもん」という俗称について、その由来や背景、そして現場でこの言葉がどのように受け止められているのかを紹介していきたい。
「どざえもん」と呼ばれる理由
水死体の話になると、昔からよく耳にする言葉がある。
「どざえもん」。
テレビや映画、あるいは年配の人の会話の中で聞いたことがある人もいるだろう。
しかし、この言葉の由来まで知っている人は意外と少ない。
私もこの仕事に関わるようになるまでは、「昔からそう呼ばれているらしい」程度の認識しかなかった。
一般的には、江戸時代に活躍した大相撲の力士、「成瀬川土左衛門(なるせがわ どざえもん)」の名前に由来するといわれている。
土左衛門は大柄な体格で知られ、その堂々とした体つきが、水に浮かんだ膨れた遺体を連想させたことから、いつしか水死体を「どざえもん」と呼ぶようになった、という説が広く知られている。
もちろん、現在では俗説の域を出ない部分もあり、語源については諸説ある。
いずれにしても、本人からすれば何百年も経ったあとに、自分の名前がこのような意味で使われ続けるとは夢にも思わなかっただろう。
まったくもって気の毒な話である。
現場でも、この言葉を耳にすることはある。
ただし、それは決して故人を揶揄したり、面白半分に使ったりするためではない。
あくまでも状況を簡潔に伝えるための俗称として使われることがほとんどだ。
もっとも、最近では警察や消防、葬祭業者などでも「水死体」「水難事案のご遺体」といった表現を用いることが一般的になり、「どざえもん」という言葉を口にする機会は以前より少なくなっているように感じる。
時代とともに、言葉遣いも変わってきたのだろう。
それでも、この仕事を長く続けていると、古くから現場にいる人が何気なく「どざえもんだね」と口にすることがある。
そこには感情はない。
軽蔑も、面白がる気持ちもない。
長年の現場で培われた、いわば業界の俗語の一つなのだ。
もちろん、その言葉だけを切り取って聞けば、不快に感じる人もいるだろう。
実際、ご遺族の前で使うような言葉では決してない。
現場では、状況に応じて使う言葉を選ぶことも大切な仕事の一つである。
しかし、言葉が変わっても、目の前にある現実は変わらない。
水中で発見されたご遺体は、多くの場合、想像以上に大きく姿を変えている。
テレビドラマのように、静かに水面へ浮かんでいるだけではない。
腐敗によって体内にはガスが溜まり、皮膚の色は大きく変化し、生前の面影を失ってしまうことも少なくない。
発見までの日数、水温、季節、海水か淡水か、魚介類や水生生物の影響など、さまざまな条件によって状態は異なるが、「水死体だから皆同じ」ということは一つとしてない。
まさに、一件一件が違う現場なのである。
現場に立つ人間が見るのは、刺激的な光景ではない。
そこにあるのは、一人の人生の終着点だ。
どんな事情があったとしても、家族や友人がいて、その人の帰りを待っている誰かがいる。
そう考えると、俗称や見た目だけで語れるものではないという思いが強くなる。
だからこそ、私たちの仕事は、故人に対する敬意を失わず、静かに、そして確実に次の場所へ送り出すことなのだ。
水が変えてしまうもの
「水死体」と一言でいっても、その状態は一様ではない。
発見までの時間、季節、水温、海水なのか淡水なのか――そうした条件によって、ご遺体の様子は大きく変わる。
夏場の川や池では腐敗の進行が早く、数日という短い期間でも大きな変化が見られることがある。一方で、水温の低い冬場や深い場所では変化が比較的緩やかなケースもある。
だから現場では、「何日経っているからこの状態」と単純に判断することはできない。
一つとして同じ現場はなく、一件ごとに状況を見極めながら対応する必要がある。
水中で時間が経過したご遺体は、腐敗によって体内にガスが発生し、全身が大きく膨張することがある。
そのため、生前の体格とはまったく異なる印象になることも珍しくない。
この変化が、搬送作業をさらに難しくする。
見た目以上に苦労するのは、「どう持ち上げるか」という点だ。
健康な人であれば、肩や腕を支えれば体勢を変えられる。
しかし、腐敗が進んだご遺体では、それと同じような方法は通用しない。
無理に力を加えれば、ご遺体を傷つけてしまうおそれがあるからだ。
現場では複数人で息を合わせ、一人が頭部付近を確認し、別の者が胴体を支え、さらに足元を担当する者が全体のバランスを見ながら、少しずつ体勢を整えていく。
急ぐことはできない。
だからといって、あまり時間をかけすぎることも望ましくない。
暑い季節であれば、現場環境そのものが作業員の体力を奪っていく。
防護服を着込み、手袋を二重、三重に重ね、マスクや保護具を装着しているだけでも汗が噴き出してくる。
そこへ夏の日差しが容赦なく照りつける。
わずか数十分の作業でも、全身がびっしょりになるほど汗をかくこともある。
それでも、誰一人として手を抜くことはない。
故人を安全に搬送するという目的は、現場にいる全員が共有しているからだ。
この仕事では、「慣れる」という言葉を使うことがある。
しかし、それは悲惨な光景に鈍感になるという意味ではない。
作業の手順や安全管理を身につけ、冷静に対応できるようになるという意味だ。
どれだけ経験を積んでも、ご遺体を前にすれば自然と背筋が伸びる。
現場には独特の緊張感が流れ、必要最低限の会話だけで作業が進んでいく。
その空気は、何年仕事を続けても変わらない。
そして、水死体の現場には、もう一つ特徴がある。
それは、水中という環境ならではの自然の影響だ。
川には魚がいる。
池には亀がいることもある。
海であれば、さまざまな海洋生物が存在する。
人が立ち入らない水中では、生き物たちはただ自然の営みを続けているだけだ。
しかし、そのことが発見時の状況に影響を及ぼす場合もある。
現場を初めて目にした人が強い衝撃を受けるのは、こうした自然の現実を目の当たりにするからでもある。
私たちにできることは、その状況を冷静に受け止め、一つひとつの作業を丁寧に積み重ねることだけだ。
感情に流されても作業は進まない。
だからこそ、経験と知識、そして故人への敬意が、現場では何より重要になるのである。
海が教えてくれる現実
川と海。
どちらも水難事故が起こる場所だが、現場に立つ者からすると、その性質はまったく違う。
川は流れが複雑で、増水すれば一気に下流まで流されることがある。一方、海では潮の流れや風向き、干満の影響を大きく受けるため、捜索範囲が広くなることも少なくない。
そのため、発見までに要する時間もケースによって大きく異なる。
海上保安庁や警察、消防、漁業関係者など、多くの人たちが連携して捜索にあたることもある。
一人の行方不明者を探すために、これほど多くの人が動いていることは、一般にはあまり知られていないかもしれない。
そして、ご遺体が発見されたとき、現場ではまず状況を慎重に確認する。
海という環境は、人の手が及ばない自然の世界でもある。
潮流や波だけでなく、海中のさまざまな生物の影響を受けることもある。
現場では、そのような状況を踏まえながら、ご遺体の状態を確認し、できる限り丁寧に搬送する方法を考える。
以前、ベテランの葬祭関係者からこんな話を聞いたことがある。
「海から上がったご遺体には、小さな海の生き物が付着していることもある。だから海という場所の厳しさを忘れちゃいけない。」
昔は、その話を聞いて冗談のように受け止めていた。
しかし実際に現場を経験すると、それは決して珍しい話ではないと分かった。
もちろん、それは故人に何か特別なことが起きたという意味ではない。
自然の中では、人もまた自然の一部になる。
海の生き物は善悪で行動しているわけではなく、生きるために行動しているだけだ。
その当たり前の事実を、現場は静かに教えてくれる。
だからこそ、この仕事を始めてからというもの、海を見る目が少し変わった。
夏になると、多くの人が海水浴や釣り、マリンスポーツを楽しむ。
青い海、白い砂浜、水平線に沈む夕日。
誰もが美しい景色に心を奪われる。
しかし、その穏やかな海も、天候や潮の変化ひとつで表情を一変させる。
昨日まで静かだった場所が、今日は命を奪うほど危険な場所になることもある。
現場を知る人間ほど、「海を甘く見てはいけない」と口をそろえるのは、その現実を何度も見てきたからだろう。
私自身、この仕事を通じて学んだことの一つは、自然に対する敬意である。
どれほど経験を積んでも、自然を相手に「大丈夫だろう」と思った瞬間が一番危ない。
救命胴衣を着けること。
天候や波の情報を確認すること。
飲酒をした状態で水辺に近づかないこと。
そうした基本的な備えが、命を守る結果につながる。
現場でご遺体と向き合うたび、「あと少し条件が違っていれば」という思いが胸をよぎることがある。
だからこそ、このような話を書くのは、恐怖をあおるためではない。
水辺には楽しさがある一方で、油断すれば命に関わる危険もあるという現実を、少しでも知ってもらいたいからだ。
もしこの文章を読んだ誰かが、海へ出かける前にライフジャケットを用意したり、天候を確認したり、「今日は無理をしない」と判断したりするきっかけになれば、それだけでも書く意味はあったと思う。
「慣れた」のではなく、「冷静になった」
この仕事をしていると、時折こんなことを言われる。
「そんな現場ばかり見ていたら、もう何も感じなくなるんでしょう?」
半分は冗談で、半分は本気なのだろう。
しかし、その質問に対する私の答えは決まっている。
「慣れたのではなく、冷静に対応できるようになっただけです。」
そこには大きな違いがある。
初めて腐敗したご遺体を目にした日のことは、今でも覚えている。
独特の臭気、現場の静けさ、緊張した空気。
頭では仕事だと理解していても、体は正直だった。
マスクをしていても臭いは感じるし、汗は止まらない。心拍数も自然と上がる。
「本当に自分に務まるのだろうか。」
そんな不安を抱えながら、先輩たちの動きを必死に見ていた。
ところが、先輩たちは驚くほど落ち着いていた。
声を荒らげる人はいない。
慌てる人もいない。
必要なことだけを短く伝え、それぞれが自分の役割を黙々とこなしていく。
最初は「何も感じていない人たちなのだろうか」と思った。
だが、それは大きな勘違いだった。
経験を積むにつれ分かったのは、彼らは何も感じないのではなく、「感情に仕事を支配させない」ようにしているということだった。
目の前にあるのは、一人の人生の終わりである。
その場で動揺してしまえば、ご遺体の搬送にも影響が出る。
周囲の安全確認がおろそかになることもある。
だからこそ、現場では冷静さが何よりも求められる。
それは決して冷淡という意味ではない。
むしろ、故人への敬意を最後まで保つために必要な姿勢なのだ。
水死体の現場でも、それは変わらない。
現場に到着すると、まず状況を確認し、搬送経路を考え、必要な資機材を準備する。
納体袋を広げる人。
ストレッチャーを用意する人。
警察や関係者と情報を共有する人。
誰も大きな声を出さない。
自然と役割が決まり、作業が始まる。
長年一緒に仕事をしていると、「次に何をするか」を言葉にしなくても分かるようになる。
それは現場経験の積み重ねが生んだ、無言の連携である。
一方で、決して失ってはいけないものもある。
それが「故人は故人である」という意識だ。
どれほど腐敗が進んでいても、どれほど損傷が大きくても、その人には名前があり、人生があり、帰りを待つ家族がいる。
その事実は何一つ変わらない。
だから私たちは、ご遺体を雑に扱うことはしない。
必要以上に言葉を発することもない。
一つひとつの動作を丁寧に行い、静かに搬送する。
その積み重ねが、現場で働く者としての最低限の礼儀だと考えている。
世の中には、「特殊清掃」や「遺体搬送」と聞くだけで、怖い仕事、変わった仕事という印象を持つ人もいるだろう。
確かに、誰にでもできる仕事ではない。
しかし、決して特別な人間だけが働いているわけでもない。
私たちも、ごく普通の生活を送り、ごく普通に笑い、ごく普通に家族と食卓を囲む。
違うのは、仕事の中で「人の最期」に立ち会う機会が多いということだけだ。
その経験は、ときに重く、ときに考えさせられる。
だからこそ、この仕事を続けるほど、「今日を無事に過ごせること」のありがたさを実感するようになった。
家に帰れば「ただいま」と言える。
家族が「おかえり」と返してくれる。
そんな何気ない日常が、実は当たり前ではない。
水難事故の現場に立つたび、そのことを改めて思い知らされるのである。
現場を知る者から伝えたいこと
この仕事をしていると、「怖くないですか」と尋ねられることがある。
もちろん、怖くないと言えば嘘になる。
しかし、本当に怖いのは腐敗したご遺体ではない。
私が恐ろしいと思うのは、「ほんの少しの油断」が、一瞬で人の命を奪ってしまうという現実だ。
水難事故の現場では、「まさか自分が」という出来事が少なくない。
天気が良かったから。
泳ぎに自信があったから。
釣り慣れた場所だったから。
酒を飲んでも少しだから。
救命胴衣は邪魔だから。
そんな小さな判断の積み重ねが、取り返しのつかない結果につながることがある。
現場で故人と向き合うたび、私は「あと少し違っていたら」と考えてしまう。
もしライフジャケットを着けていたら。
もし一人ではなかったら。
もし天候が悪くなる前に帰っていたら。
もし飲酒をしていなかったら。
「もし」は現実を変えてはくれない。
だからこそ、生きている私たちが、その「もし」を事前の備えに変えるしかないのだ。
海も、川も、湖も、本来は人を楽しませてくれる場所である。
夏には家族連れが笑い声を響かせ、釣り人は朝焼けの水面を眺め、子どもたちは夢中で水遊びをする。
そんな穏やかな景色を、私は何度も見てきた。
その一方で、同じ場所が捜索現場となり、静まり返る様子も見てきた。
昨日まで笑い声が響いていた岸辺で、今日は警察や消防が集まり、家族が不安そうな表情で水面を見つめている。
その落差は、何度立ち会っても胸が締めつけられる。
現場にいる私たちは、ご遺体を搬送することはできても、失われた命を取り戻すことはできない。
だからこそ、この仕事を通して伝えられることがあるなら、それは「事故は防げる場合がある」ということだ。
ライフジャケットを着用する。
天候や潮の情報を確認する。
飲酒後は水辺に近づかない。
子どもから目を離さない。
危険を感じたら引き返す勇気を持つ。
どれも特別なことではない。
しかし、その当たり前の行動が、命を守る大きな力になる。
私たちが向き合う現場は、「結果」の現場だ。
事故が起きてから呼ばれる仕事だからこそ、「その前にできたこと」を考えずにはいられない。
この記事では、水中で発見されたご遺体の搬送や、現場で使われる道具、そして「どざえもん」という俗称について紹介してきた。
どれも普段の生活ではあまり知る機会のない話だったかもしれない。
けれど、これらは決して興味本位で語るための話ではない。
一つひとつの現場の向こうには、突然家族を失った人たちがいて、帰りを待ち続けた人たちがいる。
そのことだけは忘れてはならない。
もしこの文章を読んだあと、水辺へ出かける前に天気予報を確認したり、ライフジャケットを用意したり、「今日は波が高いからやめよう」と判断したりする人が一人でも増えたなら、この体験を書いた意味はあったと思う。
仕事柄、私はこれからもさまざまな現場に立ち会うだろう。
しかし、できることなら、水難事故で搬送される方が一人でも少なくなってほしい。
それが、この仕事に携わる者としての率直な願いである。
命は、当たり前ではない
ここまで、水死体の搬送という、普段はあまり知られることのない仕事について書いてきた。
「どざえもん」という昔からの俗称。
納体袋を使った搬送。
水中で時間が経過したご遺体への対応。
現場で求められる冷静さと、故人への敬意。
どれも決して華やかな話ではない。
むしろ、多くの人は一生知ることなく過ごしていく世界なのだと思う。
それでも私は、この話を書こうと思った。
理由はただ一つ。
「命の終わり」を見続ける仕事だからこそ、「命の大切さ」を誰よりも実感しているからである。
現場では、ご遺族と顔を合わせることがある。
突然の知らせを受け、信じられないという表情で立ち尽くす人。
涙を流すこともできず、ただ水面を見つめている人。
「本当に本人なんですか」と震える声で尋ねる人。
その姿を見るたびに、亡くなったのは一人でも、悲しみは一人分ではないのだと痛感する。
一つの命が失われれば、その周りにいる多くの人の人生もまた、大きく変わってしまう。
だから私は、現場ではいつも思う。
故人を丁寧に送り出すことはもちろん大切だ。
しかし、それ以上に望むのは、「ここへ運ばれてくる人が一人でも減ること」である。
私たちの仕事は、事故や事件が起きたあとでしか始まらない。
どれだけ経験を積んでも、どれだけ技術を磨いても、失われた命を取り戻すことはできない。
だからこそ、防げる事故は防いでほしい。
水辺では、ほんの数秒の油断が取り返しのつかない結果につながることがある。
泳ぎが得意な人でも流れには逆らえない。
釣りに慣れた人でも足を滑らせることがある。
海を知り尽くした漁師でさえ、自然を甘く見ることはない。
自然は、人に楽しみや恵みを与えてくれる一方で、人の都合に合わせてはくれない。
そのことだけは忘れないでほしい。
この記事のタイトルには、少しふざけた印象を受ける人もいるかもしれない。
しかし、その奥にある思いは決して軽いものではない。
現場では昔から「どざえもん」という言葉が使われることがあった。
けれど、その言葉の先にいるのは、一人の故人であり、誰かにとってかけがえのない家族であり、友人であり、人生を懸命に生きてきた一人の人間である。
その事実だけは、どんな俗称でも変えることはできない。
この仕事をしていると、「普通の一日」がどれほど尊いものなのかを考えさせられる。
朝、目が覚めること。
家族と食卓を囲むこと。
仕事を終えて「ただいま」と帰宅できること。
休日に笑いながら出かけられること。
そんな当たり前と思っていた日常は、実は決して保証されたものではない。
だから私は、今日も仕事を終えて家へ帰ると、何気ない日常に少しだけ感謝する。
温かい食事があり、家族の声が聞こえ、布団で眠れる。
それだけで十分幸せなのだと、現場が教えてくれるからだ。
もし、この長い文章を最後まで読んでくださった方がいるなら、一つだけお願いしたい。
海へ行く日も、川へ行く日も、どうか「自分だけは大丈夫」と思わないでほしい。
ライフジャケットを着ける。
天候を確認する。
危険を感じたら引き返す。
仲間同士で声を掛け合う。
ほんの少しの心掛けが、人生を大きく左右することがある。
私たちの仕事は、できることなら暇なほうがいい。
水難事故がなくなれば、水死体を搬送する仕事も減る。
それは仕事が減るという意味ではなく、それだけ悲しむ人が減るということだからだ。
最後に。
この記事で紹介した内容は、決して恐怖をあおるためのものではない。
現場で見てきた現実を通して、「命は当たり前ではない」という、ごく当たり前のことを伝えたかっただけである。
どうか皆さんが、今日という一日を無事に過ごし、明日もまた大切な人と笑顔で過ごせますように。
それが、この仕事に携わる者としての、何よりの願いである。





