特殊清掃「ちょっと待った!」を更新いたしました。
ちょっと待った!
この記事を載せるかどうか、実はかなり迷った。
今でも迷っている。
「こんなことを書いて、いったい私は何様なんだ?」
そう思う自分がいる。
私は精神科医でもない。
心理カウンセラーでもない。
宗教家でもない。
人生の達人でもない。
ましてや、「こう生きれば幸せになれます!」なんていう人生攻略本を書けるほど、自分の人生を攻略できているわけでもない。
むしろ自分の人生については、攻略本どころか説明書すら紛失している。
「あなたの人生の答えはこれです」
そんなものを持っている人がいたら、ぜひ一度お目にかかりたい。
できれば無料でお願いしたい。
そんな私が、他人の人生について何かを語る。
無責任だと言われれば、その通り。
薄っぺらい自論だと言われれば、それも否定できない。
人様の人生相談に乗れるほどの人格も度量もない。
そもそも私は、自分自身の人生に対する答えすら見つけていない。
だから、この記事を書くことにためらいがあった。
それでも、どうしてもスルーできなかった。
そういう性格なのだ。
見なかったことにして、知らなかったことにして、何事もなかったように通り過ぎる。
それができるくらい器用な人間なら、そもそもこんな文章を書いていない。
ということで、深く考えるのはやめた。
載せることにした。
世の中には、なぜここまで鬱状態に苦しんでいる人や、「死にたい」と思っている人が多いのだろう。
ネットを見ていると、鬱を明かす書き込み、自殺願望を吐露する書き込みが決して珍しくない。
もちろん、ネットに書き込んでいる人が世の中のすべてではない。
声を上げられない人もいる。
誰にも言えず、黙ったまま苦しんでいる人もいる。
そう考えると、書き込んでくれるだけ、まだ何かにつながる可能性があるのかもしれない。
少なくとも、誰かの目に触れる。
誰かが「どうしたの?」と声をかけることができる。
私ごときでも、何か一言を返すことができる。
その一言が、その人にとってどれほどの意味を持つのかは分からない。
もしかすると、何の役にも立たないかもしれない。
「そんなこと言われても……」
と思われるかもしれない。
それでも、ゼロよりはいい。
私はそう思っている。
生命というものに対して、人間は案外無力だ。
寿命を自分の意思で自由自在に伸ばせる人はいない。
「あと20年追加!」
「今日はちょっと疲れたから5年延長!」
そんなことができるなら便利なのだが、残念ながら人生にはそんなボタンは付いていない。
自分の力でできることと言えば、健康に気をつける。
病気になれば治療する。
無茶をしすぎない。
できるだけ身体を大切にする。
せいぜい、そのくらいだ。
どれだけお金があっても、どれだけ地位があっても、どれだけ優秀でも、最後のところでは人間は無力だ。
だったら、生きている間まで必要以上に力まなくてもいいのではないか。
社会性。
経済力。
年齢。
学歴。
肩書。
名誉。
世間体。
人間関係。
他人からの評価。
そして、「普通はこうする」という、あの便利すぎる言葉。
こういうものに苦しめられているのなら、一度くらい「そんな基準、知らんがな」と言ってもいいのではないか。
もちろん、法律や道徳やモラルまで捨ててしまえ、という話ではない。
人に迷惑をかけても構わない、という話でもない。
ただ、「社会が勝手に作った物差しで、自分自身の価値まで測らなくてもいい」と言いたい。
身長を測る物差しで体重を測ったら、そりゃ変な数字になる。
人生だって同じではないか。
「天涯孤独だ」
「孤立無援だ」
「誰にも心を打ち明けられない」
そう思っている人ほど、自分にとっては本当はどうでもいい社会基準に縛られていることがあるのではないか。
昔、私は、
「他人と比べるんじゃない。過去の自分と比べろ」
と叱られたことがある。
当時は、そんな簡単な話じゃないだろうと思った。
今でも、簡単な話だとは思っていない。
だって人間は、比べる生き物だから。
隣の芝生は青い。
SNSを見れば、他人の芝生はさらに青い。
しかも最近の芝生は加工までされている。
こっちは雑草だらけなのに、向こうは芝生の上で優雅にバーベキュー。
「なんで私だけ……」
そう思いたくなる気持ちは分かる。
でも、それでも「自分は自分」なのだ。
社会の標準から外れていてもいい。
他人より劣っている部分が山ほどあってもいい。
人より遅くてもいい。
何歳になっても何者にもなれなくてもいい。
そもそも、「何者かにならなければならない」というルールを、誰が決めたのだろう。
少なくとも私は、そのルールブックを見たことがない。
「人は何のために生きるのか」
私は昔から、そんなことを考えてきた。
自分に問いかけたこともある。
他人に訊いたこともある。
宗教家や霊能者の中には、明確な答えを持っている人もいる。
でも、一般の人の多くは、答えが分からないまま生きているのではないだろうか。
もちろん私も分からない。
「人は何のために生きるのか?」
分からない。
「人生の目的は?」
分からない。
「生きる意味は?」
それも分からない。
だから何だ、と思う。
答えが分からないからといって、生きてはいけない理由にはならない。
数学の問題だって、解けないまま提出期限が来ることがある。
人生だって同じではないか。
そもそも人生という問題集に、最後のページに「正解」が載っているのかどうかすら分からない。
だったら、分からないことを一日中考え続けて、自分の生きるエネルギーを全部使い果たしてしまう必要はない。
「分からないものは、分からない!」
それで、とりあえず今日はいいのではないか。
明日のことは明日考える。
人生の意味については、元気な日に考えればいい。
腹が減っているときに哲学を始めると、だいたいろくな結論にならない。
こんなことを書いている私だが、かつて「死にたい」と思ったことがある。
今でも、生きていることに疑問を持つことはある。
だから、「死にたいと思う人の気持ちなんて分からない」とは言えない。
むしろ、分かる部分もある。
ただし、全部分かるわけではない。
人の苦しみは、その人本人にしか分からない。
だから私は、「頑張れ」とは簡単に言いたくない。
鬱状態になったとき、人からどれだけ優しく励まされても、その言葉が心に入ってこないことがある。
「前向きに考えよう」
「きっといいことがあるよ」
「頑張れば何とかなる」
言っている側に悪意はない。
むしろ心配して言っている。
でも、受け取る側には、その言葉が重たく感じられることがある。
「それができないから苦しいんだよ」
そう思ってしまうこともある。
プラス思考になりたい。
元気になりたい。
普通に笑いたい。
そう思っているのに、できない。
だったら、「前向きになれ」と言われるほど、自分を責めることになる。
「あの人はできるのに、自分にはできない」
「自分はなんてダメなんだ」
そんなふうに、さらに自分を追い込んでしまう。
私自身も、マイナス思考を捨てて、もっと前向きになりたいと思ったことがある。
でも、できなかった。
薬を飲んでも、すぐに何かが劇的に変わるわけでもなかった。
もちろん、治療や支援が必要な人はいる。
専門家の力を借りることも大切だ。
ただ、「気持ちの持ちようだけで何とかしろ」という話ではない。
落ち込んでいる人に、「落ち込むな」と言うのは、泳げない人に「もっと上手に泳げ」と言っているようなものかもしれない。
本人だって、泳げるなら泳いでいる。
そして、自殺について。
これは本当に難しい。
簡単な言葉で語れるものではない。
死にたいほど苦しんでいる人に、「残される家族のことを考えろ」と言えば、それが新しい罪悪感やプレッシャーになることもある。
だから、これを言えば救える、などとは私は思っていない。
ただ、それでも一つだけお願いしたい。
もし今、「死ぬこと」を具体的に考えている人がいるのなら、
ちょっと待ってほしい。
今日、結論を出さなくてもいい。
人生についての最終決定を、今日しなくてもいい。
何も解決しなくていい。
前向きにならなくてもいい。
希望を持てなくてもいい。
ただ、今日だけ保留にしてほしい。
「明日まで延期」。
それくらいでいい。
人生の重要案件なのだから、即日決裁しなくてもいいだろう。
できれば一人にならず、誰かに話してほしい。
家族でも、友人でも、医療機関でも、相談窓口でもいい。
「助けて」と言葉にできなければ、
「今ちょっと危ない」
それだけでもいい。
長文を書かなくてもいい。
説明できなくてもいい。
泣いていてもいい。
何を言えばいいのか分からなくてもいい。
とにかく、人とつながっていてほしい。
自殺は、残された人にとっても大きな傷になる。
これは事実だと思う。
ただ、「残される人が悲しむから死ぬな」とだけ言いたいわけではない。
そんな正論だけで、死にたいほど追い詰められた人を引き戻せるとは思っていない。
本人には本人の苦しみがある。
その苦しみを知らない第三者が、「あなたより大変な人もいる」などと言う資格はない。
それでも、死んだ後のことは、本人には見ることができない。
残された家族や友人が、その後どんな思いを抱えるのか。
何年経っても自分を責め続ける人がいる。
「あのとき何かできなかったのか」
「あの言葉が悪かったのか」
「もっと早く気づけばよかった」
そんなふうに、自分を責め続ける人もいる。
だから、できることなら、その荷物を一人で残していかないでほしい。
今は「そんな先のことなんか知らない」と思うかもしれない。
それほど苦しいのだから、先のことを考える余裕がないのも分かる。
それでも、ほんの少しだけ待ってほしい。
結論を出す前に、誰かに苦しみを預けてほしい。
全部説明しなくていい。
きれいに話さなくていい。
支離滅裂でもいい。
「死にたい」
その一言だけでもいい。
そして、この記事を読んでいる人へ。
もし心当たりがあるのなら、これは一般論ではない。
私は貴方のことを言っている。
勝手にそう思っている。
迷惑かもしれない。
余計なお世話かもしれない。
「お前に何が分かる」と言われるかもしれない。
それでも言う。
ちょっと待った!
今すぐ人生を好きになる必要はない。
生きる意味を見つけなくてもいい。
夢も希望もなくていい。
社会に適応できなくてもいい。
人より遅れていてもいい。
立派な人間にならなくてもいい。
私だってなっていない。
たぶん、これからも怪しい。
それでも、とりあえず今日を保留にしてほしい。
明日も嫌なら、明日また考えればいい。
明後日も嫌なら、そのときまた考えればいい。
そうやって一日ずつ先送りしているうちに、何かが変わる可能性だってある。
人生なんて、案外そんなものかもしれない。
劇的な奇跡が起こらなくてもいい。
朝になった。
飯を食った。
風呂に入った。
テレビを見た。
くだらないことで笑った。
腹が立った。
眠くなった。
そんな一日でもいい。
「生きる意味」なんて大層なものが見つからなくても、
「今日は死ぬのをやめておくか」
くらいでもいい。
それで十分だと思う。
私は人生の答えを持っていない。
だから、あなたに答えを教えることもできない。
ただ一つだけ、お願いすることはできる。
「死ぬのはやめた!」
そう書き込んでくれたらいい。
理由なんかいらない。
説明なんかいらない。
格好いい決意表明もいらない。
ただ、
「今日はやめた」
それだけでいい。
私は、その書き込みを待っている。
いや、できれば何度でも待ちたい。
「昨日もやめた」
「今日もやめた」
「とりあえず明日もやめとく」
それでいい。
人生という長期戦に、毎日勝利する必要なんてない。
今日は引き分けでもいい。
なんなら、負けたっていい。
ただし――
試合終了のホイッスルだけは、自分で今すぐ吹かないでほしい。
ちょっと待った。
本当に、ちょっとだけ。
今日は、そのままでいいから。





