特殊清掃「骨を折るなぁ【前編】」を更新いたしました。
骨を折るなぁ【前編】
「特殊清掃をしていると、人骨なんて見つかるんですか?」
講演会や取材で、よく聞かれる質問のひとつである。
たいていの人は、テレビや映画の影響なのか、大腿骨や頭蓋骨のような白い骨を想像している。理科室の人体模型の横に置かれている標本のような、乾いた骨だ。
しかし、現実は違う。
現場で見つかる骨のほとんどは、小さい。
手の指、足の指、歯、あるいは欠けた骨片。しかも、腐敗が進んだ室内では、腐乱液や体液、埃、カビ、虫の死骸にまみれている。白いどころか黒ずみ、ぬめり、強烈な臭気をまとっているため、骨というより「何かのゴミ」にしか見えないことも少なくない。
特殊清掃を始めたばかりの頃は、それを見つけるたびに手が止まった。
「これは……骨か?」
そんな確認を何度も繰り返した。
慣れた今では、一目見れば分かる。
分かってしまう。
それが成長なのか、それとも感覚が麻痺しただけなのか、自分でもよく分からない。
孤独死の現場では、警察が検視を終えてから私たちが入室する。
「警察が調べたのだから、もう何も残っていないでしょう。」
そう思われる方もいるが、現実はそう単純ではない。
警察の仕事は事件性の有無を調べ、必要な証拠を確保することである。部屋を隅々まで清掃し、小さな骨片まで回収することが目的ではない。
しかも、腐乱した部屋というのは想像以上に足場が悪い。
家具は腐敗液で汚れ、畳は崩れ、床には生活用品が散乱している。
そんな中で数センチにも満たない骨を見逃すことは珍しいことではない。
だから私たちが清掃を始めると、思いがけない場所から骨が出てくる。
ベッドの隙間。
畳の縁。
家具の裏。
掃除機では吸い込めないような狭い場所。
「こんなところに残っていたのか。」
そう呟くことは、一度や二度ではない。
もちろん、毎回見つかるわけではない。
しかし、「絶対にない」とも言えない。
だから現場では、ゴミを見る目と、骨を見る目を同時に持つようになる。
これは特殊清掃ならではの癖かもしれない。
一般の人なら気にも留めない小さな欠片に目が止まる。
プラスチックか。
木片か。
それとも骨か。
そんなことを無意識に考えてしまう。
この仕事を長く続けるほど、普通の感覚から少しずつ離れていく。
骨を見つけるたびに思うことがある。
人の身体というものは、亡くなった瞬間に「人」から「物」へ変わるわけではない。
けれど現場では、時間の経過とともに、その境界線が曖昧になっていく。
腐敗した肉片も、乾いた皮膚も、一本の髪の毛も、そして小さな骨も、片付ける対象として目の前に現れる。
初めて経験した頃は、その現実を受け入れるだけで精一杯だった。
吐き気をこらえながら作業したこともある。
昼食が喉を通らなかった日もあった。
しかし、人は慣れる。
嫌でも慣れてしまう。
臭いにも。
虫にも。
そして骨にも。
慣れなければ、この仕事は続かない。
だが、慣れてしまうことに、どこか後ろめたさを感じる自分もいる。
「怖くないんですか?」
これもよく聞かれる。
正直に言えば、骨そのものは怖くない。
怖いのは、その骨がここにあるまでの時間を想像したときだ。
誰にも気づかれず、誰にも看取られず、長い時間をこの部屋で過ごした結果が、目の前にある。
骨は何も語らない。
だが、その沈黙が、ときどき重く感じることがある。
特殊清掃という仕事は、汚れを落とす仕事だと思われがちだ。
もちろん、それは間違っていない。
だが実際には、「見落とされたもの」を見つける仕事でもある。
汚れだけではない。
写真。
通帳。
指輪。
手紙。
そして、ときには小さな人骨も。
誰にも気づかれず、そのままゴミとして運ばれてしまうかもしれないものが、現場には残されている。
だから私は、今日も床を見ながら歩く。
ゴミを探しているのか。
骨を探しているのか。
自分でも分からなくなることがある。
ただ一つ分かっているのは、この仕事を始める前の私は、床に落ちている小さな欠片を、こんなにも真剣に見る人間ではなかったということだ。
骨を見つけても驚かなくなった。
それが経験なのか、鈍感になっただけなのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
骨はゴミなのか
現場で骨を見つける。
それ自体は、特殊清掃では珍しいことではない。
珍しくないと言うと語弊があるかもしれないが、少なくとも私にとっては「あり得ること」として作業の中に組み込まれている。
だから、小さな骨片を見つけても、大声を上げることもなければ作業が止まることもない。
無言で拾い上げる。
それだけだ。
しかし、そのあとが少し面倒なのである。
作業が終われば、廃棄するゴミはトラックに積み込まれ、処分場へ運ばれる。
腐敗した畳も、汚染された布団も、家具も、生活用品も、分別しながら処分していく。
もし骨に気付かなければ、それらと一緒に運ばれてしまう。
実際、気付かれずに処分された骨も世の中にはあるだろう。
責めるつもりはない。
見つけられなかったものは仕方がない。
だが、見つけてしまったものは話が違う。
見つけた瞬間、それは「ゴミ」ではなくなる。
少なくとも、私の中では。
骨と言っても、テレビで見るような白く乾いたものではない。
腐敗液を吸い込み、脂が染み込み、肉片がこびりついていることもある。
強烈な臭いを放ち、素手で触ろうとは誰も思わない。
正直に言えば、できれば触りたくない。
拾うたびに「面倒だな」と思う。
だから、「尊い命だから」などと格好いいことを言うつもりはない。
面倒なものは面倒だ。
臭いものは臭い。
現場で働く人間なら、みんな同じことを思っているはずだ。
それでも拾う。
理由は単純である。
見つけてしまったからだ。
もし視界に入らなければ、そのままゴミとして処分されていたかもしれない。
しかし、骨だと分かった以上、それを家具の破片と同じようには扱えない。
法律がどうこうという話ではない。
宗教でもない。
もっと単純な、人としての気持ちである。
「ここまで見つけてしまったのに、知らないふりはできない。」
それだけだ。
拾った骨は、小さなケースや袋に分けて保管する。
現場によっては、指の骨が一本だけということもある。
歯が数本だけということもある。
それらを並べていると、不思議な感覚になる。
生前、この指で何を掴んでいたのだろう。
この足でどこへ歩いていたのだろう。
そんなことを考える日もある。
もっとも、毎回そんな感傷に浸っているわけではない。
現場は忙しい。
次の仕事もある。
一つひとつの人生に思いを馳せていたら、仕事にならない。
だから感情に蓋をする。
そのほうが楽だからだ。
骨を洗うこともある。
ブラシで汚れを落とし、水で流し、乾かす。
言葉にすると簡単だが、実際にはかなり骨の折れる作業だ。
腐敗した脂は簡単には落ちない。
臭いも消えない。
しかも、この作業は料金には含まれていない。
会社から命令されているわけでもない。
やらなくても誰にも怒られない。
では、なぜやるのか。
自分でも時々分からなくなる。
「そこまでしなくてもいいのでは?」
そう思う日もある。
実際、その通りなのかもしれない。
たまに「立派ですね」と言われることがある。
そのたびに少し居心地が悪くなる。
立派な人間なら、もっと違う生き方をしている。
私は仕事として現場に入り、仕事として片付けているだけだ。
骨を洗うのも、感動的な話ではない。
汚れたまま返せば遺族も触りたくないだろう。
少しでも受け取りやすくしたい。
ただ、それだけの理由である。
そこに自己犠牲の精神があるわけでもない。
褒められたいわけでもない。
もちろん、誰かに見せるためでもない。
現場には私しかいないのだから。
ただ、一つだけ言えることがある。
この仕事を続けていると、人は少しずつ線引きが変わってくる。
ゴミと遺品。
廃棄物と遺骨。
片付ける物と、片付けてはいけない物。
その境界が、少しずつ自分の中でできあがっていく。
誰かに教わったわけではない。
現場の数だけ、自分なりの基準ができていく。
その基準が正しいかどうかは分からない。
それでも、私は今日も骨を見つければ拾うだろう。
誰に頼まれたわけでもなく。
誰に褒められるわけでもなく。
面倒だと思いながら、それでも拾う。
その理由を「善意」と呼ぶのは、どこか違う気がする。
かと言って、「仕事だから」の一言で片付けるほど割り切れてもいない。
結局のところ、見つけてしまった以上、放っておけない。
その程度の理由なのである。
遺族は骨を欲しがらない
「見つかった骨は、ご遺族にお返しします。」
そう話すと、多くの人は当たり前のように頷く。
「そうですよね。」
「ご家族なら喜んで受け取りますよね。」
世間の感覚では、それが普通なのだろう。
だが、現場では普通ではないことがある。
むしろ、受け取りをためらわれることの方が、私の印象では少なくない。
孤独死の現場に入るようになって、家族の形は一つではないことを嫌というほど知った。
仲の良い家族もあれば、何十年も連絡を取っていない親子もある。
兄弟なのに住所も電話番号も知らない。
親の葬儀にも来ない子ども。
逆に、子どもの死を何十年も受け入れられない親。
事情はそれぞれ違う。
外から見れば「家族」でひと括りにできても、その中身は千差万別である。
だから、「家族だから受け取るはずだ」と決めつけることはできない。
ある現場では、作業中に指の骨が見つかった。
畳の隙間に入り込み、警察の検視でも残ってしまったらしい。
私はいつものように保管し、作業終了後、ご遺族にそのことを伝えた。
すると返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「もう火葬も終わっていますから。」
その一言で会話は終わりそうになった。
私は確認する。
「お返ししますので、お持ちになりますか?」
少し間があってから返事があった。
「いえ、結構です。」
その口調に怒りはない。
悲しみもない。
ただ、静かだった。
最初の頃は、その返事に戸惑った。
「本当にいいんですか。」
そう聞き返したくなった。
しかし、現場を重ねるうちに分かった。
その家族には、その家族の時間がある。
介護で疲れ切った人もいる。
長年絶縁していた人もいる。
何度も金銭トラブルを繰り返した親子もいる。
亡くなったことで、ようやく肩の荷が下りたという人もいる。
事情を知らない第三者が、「最後くらい受け取るべきだ」などと言える立場ではない。
私はその人たちの人生を知らない。
知っているのは、亡くなった後の部屋だけだ。
だからといって、そのまま捨てることにも抵抗がある。
それが私の困るところである。
見つけた以上、何とか返したい。
しかし、相手は要らないと言う。
押し付けることもできない。
かと言って、産業廃棄物の袋へ放り込む気にもなれない。
現場では、こういう中途半端な問題が意外と多い。
教科書に答えは書いていない。
会社のマニュアルにも載っていない。
結局、自分で考えるしかない。
そんなとき、私は少しだけ粘る。
「もし気になられるようでしたら、お持ちになりませんか。」
「後から『やっぱり受け取ればよかった』と思われる方もいらっしゃいます。」
その程度の言い方である。
決して押し売りはしない。
脅すこともしない。
ただ、選択肢だけは残しておきたい。
人は亡くなった直後には判断できないことがある。
気持ちの整理がつくまで何年もかかる人もいる。
だから、その場の勢いだけで決めてしまうのは、少し怖い。
もちろん、それでも「要りません」と言われることはある。
そのときは、それ以上勧めない。
私にできるのは、選択肢を示すところまでだ。
受け取るかどうかを決めるのは、ご遺族である。
その判断を尊重するしかない。
仕事とはそういうものだ。
以前なら、「冷たい家族だ」と思っていたかもしれない。
しかし、今は思わない。
人には人の事情がある。
家族だから愛し合っているとは限らない。
親子だから分かり合えるとも限らない。
私たちが見ているのは、人生の最後の一場面だけである。
その前に何十年という時間があった。
笑った日もあれば、憎んだ日もあっただろう。
その積み重ねを知らない私が、善悪を語る資格はない。
特殊清掃の現場では、亡くなった人よりも、生きている人の感情の方が難しい。
腐敗臭は換気をすれば薄くなる。
汚れは時間をかければ落とせる。
しかし、人間関係だけは掃除できない。
長年積み重なったわだかまりは、高圧洗浄機でも薬品でも落ちない。
だから私は、現場ではできるだけ口を挟まないようにしている。
依頼された仕事をする。
必要なことだけを伝える。
余計な正義感は持ち込まない。
その方が、結果として誰のためにもなることが多い。
それでも、小さな骨を手渡すときだけは、ほんの少しだけ言葉を選ぶ。
「もし、お手元に置かれるお気持ちがありましたら、お持ちください。」
その一言で受け取る人もいれば、静かに首を横に振る人もいる。
どちらが正しいのか、私には分からない。
分からないからこそ、決めつけない。
特殊清掃を続けていて学んだのは、汚れの落とし方よりも、人の事情には簡単に答えを出してはいけないということだった。





