特殊清掃「骨を折るなぁ【後編】」を更新いたしました。
骨を折るなぁ【後編】
特殊清掃の仕事をしていると、
「毎日つらい仕事ですね。」
と声を掛けられることがある。
確かに、楽な仕事ではない。
腐敗臭の中で作業をする日もあるし、遺族の涙を見ることもある。
誰かの人生の終わりに立ち会う仕事なのだから、明るい話題ばかりではない。
それでも、不思議なことに現場では時々笑ってしまう出来事がある。
もちろん、故人を笑うわけではない。
人が亡くなったという事実を茶化すわけでもない。
極限まで緊張した空気の中で、人間というものは時々、思いもよらない方向へ話が進んでしまうのである。
ある日のことだった。
故人を棺へ納める準備が進み、最後のお別れの時間になった。
祭壇には花が並び、親族が静かに集まっている。
涙ぐむ人もいれば、黙ったまま故人の顔を見つめている人もいた。
その中で、一人の親族がぽつりと言った。
「そういえば、お父さん、ケンタッキーフライドチキンが大好きだったよね。」
すると別の人が、
「最後だから入れてあげよう。」
と言った。
そこまでは、よくある話である。
故人の好きだった酒や煙草、お菓子、手紙などを棺へ納めることは珍しくない。
私も何度も見てきた。
ところが、その日は話がそこで終わらなかった。
別の親族が難しい顔で口を開いた。
「いや、骨があるだろ。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「火葬したら、チキンの骨と遺骨が混ざるんじゃないか。」
その場が静まり返る。
「確かに……。」
今度は別の人が頷く。
「それは困るな。」
「でも本人は好きだったんだから。」
「いや、骨はまずい。」
「でも食べさせてあげたい。」
気が付けば、親族全員が真剣な表情で議論を始めていた。
その光景を見ながら、私は心の中で困っていた。
笑ってはいけない。
絶対に笑ってはいけない。
皆さん本気なのである。
誰一人ふざけているわけではない。
故人を思う気持ちがあるからこそ、本気で悩んでいる。
だから笑う場面ではない。
……とは思うのだが、話の内容だけ切り取れば、どうしても可笑しい。
チキンの骨と人骨が混ざるかどうか。
人生でそんな議論を聞くとは思ってもみなかった。
私は必死で真顔を保っていた。
議論は平行線だった。
「入れてあげたい。」
「骨は困る。」
同じやり取りが何度も繰り返される。
やがて全員の視線が私に向いた。
「どう思います?」
突然、審判役にされてしまった。
こういう時は意外と困る。
どちらの意見にも理由がある。
どちらか一方の肩を持てば、もう一方は納得しない。
だから、答えは一つしかなかった。
「骨を外して、お肉だけ入れてあげたらどうでしょう。」
ほんの数秒、沈黙が流れた。
次の瞬間、
「あ、それだ!」
「なるほど!」
「その手があったか!」
まるで長年の難問が解決したかのような反応だった。
結局、チキンは丁寧に骨から外され、肉だけが棺へ納められた。
故人は最後に、大好きだったケンタッキーを持って旅立った。
親族も全員納得し、穏やかな空気でお別れが終わった。
私は何度も感謝された。
「助かりました。」
「良いことを教えてもらいました。」
そんなに大したことを言ったつもりはない。
少し冷静になれば誰でも思いつく話である。
それでも、その場では誰もそこまで考えが回らなかったのだろう。
人は、大切な人を亡くすと普段通りではいられない。
冷静な人でも判断力が鈍る。
普段なら笑って終わるようなことを真剣に悩み、逆に深刻な場面で思わず笑ってしまうこともある。
それは不謹慎だからではない。
人間の心が、自分を守ろうとしているのかもしれない。
極度の緊張が続くと、人は少しだけおかしくなる。
私自身も、現場で思わず笑いそうになったことは一度や二度ではない。
もちろん表には出さない。
けれど心の中では、「人間って面白いな」と思う瞬間がある。
特殊清掃という仕事は、「死」と向き合う仕事だと言われる。
確かにその通りだ。
しかし、それと同じくらい「生きている人」と向き合う仕事でもある。
遺族が泣く姿も見る。
怒る姿も見る。
黙り込む姿も見る。
そして、ときには今回のように、真剣な顔でフライドチキンについて議論する姿も見る。
どれも、その人なりのお別れなのだ。
外から見れば滑稽に思えることでも、その場では誰も本気で故人のことを考えている。
だから私は、そんな光景に出会うたび、「家族らしいな」と思う。
完璧な家族なんてない。
最後の最後まで意見が割れることもある。
それでも、誰かを思って言い合えるうちは、きっと悪い家族ではないのだろう。
そう思いながら、その日の現場を後にした。
骨を拾う理由
「どうして、そこまでするんですか。」
骨を洗って遺族へ返す話をすると、そんな質問を受けることがある。
質問した人は、きっと褒めるつもりで聞いているのだろう。
「優しいですね。」
「立派ですね。」
そう続くことも少なくない。
しかし、そのたびに私は返事に困る。
自分では、そんなつもりはないからだ。
特殊清掃の仕事は、契約通りに言えば、部屋を元の状態に戻すことで終わる。
汚染を除去し、臭いを消し、荷物を片付ける。
そこまでやれば仕事としては十分である。
見つかった骨を一本一本きれいに洗うことは契約書には書かれていない。
遺族へ返す義務が法律で決められているわけでもない。
時間をかけても、追加料金が発生するわけでもない。
会社の利益にもならない。
むしろ、その時間があれば次の現場へ向かった方が効率はいい。
経営だけを考えれば、その方が正しい。
それでも私は、手を止めてしまう。
骨を拾うたびに思う。
もし自分の親だったら。
もし兄弟だったら。
そんなことを考えているわけではない。
現場では、感情移入しすぎると仕事にならない。
亡くなる人は毎年いる。
孤独死もなくならない。
一件一件を自分の家族のように考えていたら、精神がもたない。
だから、そこまで優しい人間ではない。
では、なぜ拾うのか。
答えは案外くだらない。
見つけてしまったからである。
人間は、不思議な生き物だ。
見なければ気にならない。
知らなければ忘れてしまう。
しかし、一度見てしまうと、無かったことにはできない。
道路に財布が落ちているのを見つけたとき。
誰かが転んだ瞬間を見てしまったとき。
気付いてしまった以上、そのまま通り過ぎるには少し勇気がいる。
骨も、それと似ている。
気付かなければ、ゴミとして処分されていたかもしれない。
しかし、骨だと分かった瞬間、それは私の中で「ただの廃棄物」ではなくなる。
だから拾う。
その程度の理由だ。
この仕事をしていると、「供養」という言葉をよく耳にする。
供養は大切だと思う。
否定するつもりはない。
しかし、私は供養を商売の道具にはしたくない。
「骨を返さないと故人が成仏しません。」
「供養しないと祟ります。」
そんな言葉で人を動かしたくはない。
本当にそうなのか、私には分からないからだ。
分からないことを、分かったように話す資格はない。
私は霊能者ではない。
坊さんでもない。
ただの特殊清掃員である。
現場を片付けることはできても、死後の世界のことまでは知らない。
だから、知らないことは「知らない」と言うようにしている。
長年この仕事を続けてきて、一つだけ確信したことがある。
人は、生き方も死に方も選べない場面がある。
孤独死を望んで亡くなる人は、ほとんどいない。
病気。
老い。
家族との別れ。
人間関係。
経済的な事情。
いろいろなものが積み重なり、気付けば一人になっていた。
そんな人生を、最後の数日間だけ見て「かわいそう」と言うのは簡単だ。
「家族が悪い。」
「社会が悪い。」
そんな言葉も簡単に口にできる。
だが、現場を見れば見るほど、そんな単純な話ではないと思うようになった。
誰か一人が悪者になって終わる現場など、ほとんどない。
以前の私は、遺族に腹が立つこともあった。
「どうしてもっと早く連絡しなかったんだ。」
「どうして放っておいたんだ。」
そんなことを思ったこともある。
だが、それは現場しか見ていなかったからだ。
その部屋に至るまでには何十年という時間がある。
親子で積み重ねてきた年月がある。
夫婦にしか分からない事情がある。
兄弟にも話せなかったことがある。
その一部分だけを見て、人を裁くことはできない。
最近はそう思うようになった。
特殊清掃は、部屋をきれいにする仕事ではある。
しかし、本当にきれいになるのは部屋だけだ。
人間関係は元に戻らない。
後悔も消えない。
「あの時、電話していれば。」
「もっと会いに行けばよかった。」
そう口にする遺族を何人も見てきた。
私はその後悔を消すことはできない。
消臭剤にも、洗剤にも、そんな力はない。
だからせめて、私にできることだけをやる。
床を洗う。
壁を拭く。
臭いを消す。
そして、小さな骨を見つけたら拾う。
それ以上でも、それ以下でもない。
この仕事を始めた頃、「人は死んだら終わり」だと思っていた。
今でも、その考えは大きくは変わっていない。
けれど、一つだけ違うことがある。
亡くなった人の人生は終わっても、その人を知っている人の人生は続いていく。
遺族も。
友人も。
近所の人も。
大家さんも。
そして、たまたま最後の片付けをする私たちも。
死は、一人だけで終わる出来事ではない。
少しずつ形を変えながら、生きている人の中に残り続ける。
だからこそ、最後の片付けくらいは、できる限り丁寧に終わらせたいと思う。
私は善人ではない。
現場では愚痴も言う。
臭いに文句も言う。
「今日は大変だった」と酒を飲みながらぼやく日もある。
骨を見つければ、「またか」と思う。
決して聖人君子ではない。
それでも、骨を見つけたら拾う。
理由を聞かれれば、「見つけてしまったから」としか答えようがない。
きっと、それで十分なのだろう。
特殊清掃という仕事は、人の死を教えてくれる仕事ではない。
むしろ、人が最後まで人であることを忘れないよう、自分に言い聞かせる仕事なのかもしれない。
だから明日も、私は床を見ながら歩く。
ゴミを探すためでもあり、見落とされた誰かの人生の欠片を探すためでもある。
そして、もし小さな骨を見つけたら、また黙って拾い上げるだろう。
誰に褒められるためでもない。
誰かに感謝されるためでもない。
それが私の仕事だから――ではなく。
見つけてしまった以上、そのままにはできない。
ただ、それだけなのである。





