特殊清掃「自死の選択」を更新いたしました。
自死の選択
ここ数年、日本人の自殺者数は高いままである。
と書き出してみたものの、今さら目新しい話でもない。テレビでもネットでも、時々数字が出てきて、「大変な問題です」と言われる。そして数日もすれば、別のニュースに押し流されていく。
ニュースというものは、ずいぶんと忙しい。
人が一人死んでも大ニュースにならないことがある一方で、芸能人の結婚だの、誰かの失言だの、何かの商品が売れただのという話が何日も続く。
もちろん、それが悪いと言っているわけではない。
人間は、毎日毎日「誰かが死んだ」という話ばかり聞いていたら、精神がもたないからだ。だからニュースにはニュースの都合がある。
しかし、死ぬ側には都合も何もない。
死んだ本人にとっては、それが人生最後の出来事である。
私は死に関わる仕事をしているので、一般の人より少しだけ「死」に近いところで生活している。
当社にも、たまに自殺を考えている人から電話がかかってくることがある。
また、自殺現場の後始末をしたことも、一度や二度ではない。
電話の向こうで悩んでいる人と話をすることもあれば、誰もいなくなった部屋で、残された物を前にして作業をすることもある。
同じ「自殺」という言葉で括られていても、そこにある事情は一人ひとり違う。
借金。
病気。
仕事。
家庭。
人間関係。
失恋。
孤独。
将来への絶望。
あるいは、本人にも説明できないような「もう疲れた」という感覚。
人間というものは、外から見ただけでは分からない。
立派な家に住んでいても苦しんでいる人はいるし、金持ちでも死にたくなる人はいる。
逆に、他人から見れば「そんなことで?」と思うようなことでも、本人にとっては世界がひっくり返るほど重大なことだったりする。
だから私は、他人の人生を簡単に採点することには、あまり意味がないと思っている。
「そんなことで死ぬなんて馬鹿だ」
という人もいる。
「命より大切なものなんてない」
という人もいる。
「生きていればきっと良いことがある」
という人もいる。
どれも間違いとは言い切れない。
ただし、死にたいほど苦しんでいる人の目の前で言ったところで、本人の苦しみが消えるわけでもない。
「頑張れ」と言われて頑張れるなら、そもそも死にたいほどにはなっていない。
これは、仕事をしていて感じることでもある。
世の中には、他人の人生については随分と簡単に正解を出せる人がいる。
自分が当事者ではないからだ。
他人の家計なら節約できる。
他人の夫婦関係なら仲直りさせられる。
他人の仕事なら転職させられる。
他人の病気なら「前向きに」と言える。
そして他人の人生についても、「生きろ」と言える。
ずいぶん便利なものである。
もちろん、生きてほしいと思う気持ちそのものを否定するつもりはない。
むしろ、身近な人なら誰だって生きていてほしいと思うだろう。
私だって、電話の向こうにいる人に「どうぞご自由に」と言って電話を切るようなことはしない。
人間だから、話を聞く。
ただ、その一方で、「死にたいと思うほど苦しんでいる」という事実まで否定する必要はないとも思っている。
死にたいと思ったこと自体を責めたところで、本人はさらに追い詰められるだけだからだ。
「そんなことを考えるな」
と言われて、考えなくなるほど人間の頭は単純ではない。
むしろ、
「そこまで思うほど、今は苦しいんだな」
と受け止めるところからしか始まらないこともある。
私は、哲学者でも宗教家でもない。
「自分の命は自分のものなのか」
なんていう難しい話を始めたら、たぶん私自身が途中で眠くなる。
だから、その話はここでは置いておく。
私が考えるのは、もっと現実的なことだ。
死んだ後に何が起きるのか。
そして、残された人間に何が残るのか。
これは、現場を見る仕事をしていると嫌でも考えさせられる。
自殺というものは、本人がいなくなった瞬間に終わるわけではない。
むしろ、そこから始まることがある。
家族には連絡が行く。
警察や救急が関わる。
場合によっては近所の人や管理会社、大家、勤務先などにも影響する。
そして、残された部屋には、本人が生きていた証拠が大量に残っている。
服。
靴。
写真。
手紙。
食べかけの物。
冷蔵庫の中身。
スマートフォン。
郵便物。
何気ない生活用品。
本人にとってはどうでもよかったかもしれない物が、残された人間にとっては、突然「最後の記憶」になる。
これが、なかなか重い。
そして我々のような業者のところに仕事が回ってくる。
ここで私は、少しだけ職業人として現実的な話をする。
自殺現場は、仕事としては大変である。
精神的にも大変だし、肉体的にも大変だ。
そして、何より「普通の部屋」に戻すという作業が大変だ。
死ぬ前までは、その人の生活空間だった。
しかし、人が亡くなった途端、そこは「現場」になる。
昨日までただの部屋だったものが、突然、特殊な意味を持った場所になる。
そして我々は、それをまた「部屋」に戻していく。
なんとも妙な仕事である。
人生最後の舞台を片付けて、次の人が生活できる場所に戻す。
人間というのは、生きている間は何でも大げさに考えるくせに、死んだ後になると、部屋の掃除や荷物の整理という、とても現実的な作業が待っている。
死というものは、案外ロマンチックではない。
ここは、声を大にして言いたい。
映画やドラマでは、死は妙に美しく描かれることがある。
静かな音楽が流れ、夕日が沈み、主人公が何か意味深な言葉を残して……。
現実はそんなにサービス精神旺盛ではない。
現実の現場には、音楽も照明もない。
ただ、片付けなければならない物がある。
そして、悲しんでいる人がいる。
私は仕事柄、その現実を何度も見てきた。
だから、自殺を考えている人に「死ぬな」と説教する資格が自分にあるとは思っていない。
その人の人生を背負っているわけではないからだ。
ただし、
「死んだら全部終わる」
とは思わないでほしい。
本人にとっては終わりでも、残された人間にとっては終わらないことがある。
むしろ、そこから長い時間をかけて続くものがある。
「なぜ?」
という疑問。
「あのとき何か言えばよかった」
という後悔。
「あれが原因だったのではないか」
という自責。
「自分がもっと気づいていれば」
という苦しみ。
これらは、掃除機では吸い取れない。
消臭剤を撒いて終わり、というものでもない。
我々が現場をきれいにすることはできても、残された人の心まで元通りにすることはできない。
そこが一番難しいところだ。
だから私は、「自分の人生なのだから自分で決めればいい」という言葉にも、少し違和感がある。
確かに人生は本人のものだ。
しかし、人間は一人で生きているようで、実際にはそうではない。
家族がいる。
友人がいる。
職場の人間がいる。
近所の人間がいる。
そして、本人が忘れているようなところで、その人と関わった人間がいる。
人間関係というものは、本人が思っている以上に広い。
本人が「自分一人の問題」だと思っていても、周囲にとってはそうではないことがある。
だから私は、自殺について「善か悪か」という二択で語ること自体に、あまり意味を感じない。
「自殺は悪い」
と言って終わるのも違う。
「自分の人生なんだから好きにすればいい」
と言って終わるのも違う。
そんな簡単な話ではない。
人間の人生なんて、そんなに単純な二択ではないからだ。
それよりも私は、
「そこまで死にたいと思うほど苦しんでいる人が、なぜそこまで追い込まれたのか」
を考えたほうがいいと思う。
本人だけを責めても仕方がない。
家族だけを責めても仕方がない。
会社だけを責めても仕方がない。
社会だけを責めても仕方がない。
たいていの場合、原因は一つではない。
いろいろなものが少しずつ積み重なって、最後に人間を押し潰す。
だから、「これが原因です」と一言で片付けられるものでもない。
私は自殺を肯定するつもりもないし、否定するつもりもない。
ただ、自殺現場の後始末を仕事にしている人間として、「現実はこうですよ」と言いたいだけである。
死そのものについて偉そうなことを言えるほど、私は立派な人間ではない。
毎日、仕事をして、飯を食って、酒を飲んで、寝て、また仕事をしている。
たぶん皆さんと大して変わらない。
だからこそ、現場を見てきた人間として一つだけ言えることがある。
死は、思っているほどきれいなものではない。
残されたものは多い。
そして、残された人間は、思っている以上に長い時間を生きなければならない。
本人が「もう終わりだ」と思っているときでも、実際には終わっていないことがある。
借金なら、相談する方法がある。
仕事なら、辞める方法がある。
人間関係なら、距離を置く方法がある。
住む場所を変えることだってできる。
専門家に相談する方法もある。
恥ずかしい?
そんなものは、生きていればどうにでもなる。
格好悪い?
これも、生きていればどうにでもなる。
人生なんて、そもそも格好悪いことの連続である。
私など、仕事で失敗することもあるし、家に帰って「ああ、今日は疲れた」と言っているうちに寝落ちすることもある。
立派な人生とは、とても言えない。
しかし、立派でなくても生きてはいける。
人生は満点である必要はない。
赤点でも追試でも、補習でも、留年でもいい。
学校なら退学したっていい。
人生には、学校のような「一度辞めたら二度と戻れません」という制度はない。
遠回りしてもいい。
やり直してもいい。
途中で休んでもいい。
人間は案外しぶとい。
そして、しぶとく生きているうちに、状況が変わることもある。
これは精神論ではない。
単純に、時間が経てば環境が変わることがある、というだけの話である。
今の職場が永遠に続くわけではない。
今の人間関係が永遠に続くわけでもない。
今の苦しみが永遠に同じ形で続くとも限らない。
ところが、死んでしまえば、その「変わるかもしれない未来」を自分で確かめることができなくなる。
そこだけは、少しもったいないと思う。
私は自殺者がゼロになったら困るのか、と聞かれることがある。
仕事が減るから困る?
いやいや、ご心配なく。
そんなことで飯が食えなくなるほど、世の中は単純ではない。
日本、特に都市部では、孤独死など、我々の出番はいくらでもある。
できれば出番なんかないほうがいいのだが、仕事というのはそう都合よくはいかない。
だから、私の会社の売上のために誰かに死んでほしいなどとは、当然思わない。
むしろ、そんな仕事が必要ない社会になれば、そのほうがいい。
仕事がなくなって暇になったら、そのときはそのときで、別の仕事を探せばいい。
人間、仕事くらい何とかなる。
死んでしまったら、仕事を探すことすらできない。
今日のブログは、ずいぶん硬い話になってしまった。
書いている本人も、途中から「何だか説教臭くなってきたな」と思っている。
私は説教が嫌いなので、自分が説教をしている文章を書くのもあまり好きではない。
ただ、これだけは知っておいてほしい。
自殺を考えるほど追い詰められているなら、その気持ちを一人で抱え込まないでほしい。
「こんなことで相談したら笑われる」
と思う必要もない。
「もっと大変な人がいる」
とも考えなくていい。
苦しさは、他人と競争するものではない。
骨折した人に「もっと大怪我している人もいる」と言っても、折れた骨がくっつくわけではない。
心だって同じである。
つらいものは、つらい。
だから、誰かに話していい。
家族でも友人でもいい。
医師でも相談窓口でもいい。
警察や救急でもいい。
とにかく、一人で結論を出さないことだ。
人生の重大な決断を、人生で一番調子の悪い日に決める必要はない。
今日は保留。
明日も保留。
明後日も保留。
そのうち、面倒くさくなって「まあ、今日は飯でも食うか」となれば、それでいい。
人間なんて、そのくらいでいいのである。
そして、もし「死んだら迷惑をかけるから」などと考えている人がいたら、それも一度横に置いてほしい。
迷惑をかけない人間なんていない。
生きているだけで誰かの世話になる。
病気になれば迷惑をかける。
歳を取れば迷惑をかける。
子供だって迷惑をかける。
私だって毎日どこかで誰かに迷惑をかけている。
それでいい。
人間は迷惑をかけながら生きる生き物なのだから。
だから、今は誰かに迷惑をかけてもいい。
助けてもらえばいい。
あとで元気になったら、今度は自分が誰かを助ければいい。
それで帳尻は合う。
人生というものは、意外と長い。
そして、意外といい加減である。
だから、今すぐ結論を出す必要はない。
少なくとも、私が見てきた「死んだ後の現場」を知っている人間としては、そう思う。
最後にもう一度だけ。
自殺現場の後始末は、悲惨だぞー。
映画みたいに美しく終わったりしない。
掃除もある。
片付けもある。
消臭もある。
残された人への対応もある。
そして何より、そこに残された人たちの気持ちは、簡単には片付かない。
だから今日は、死についての立派な結論ではなく、
「まあ、今日くらいは死ぬのをやめて、飯でも食って寝るか」
くらいでいいと思う。
人生なんて、明日の朝になってから考えればいい。
朝になったら、また考えればいい。
それでもつらかったら、その次の日まで保留すればいい。
人間、案外そのくらいの適当さで生きていける。
私自身も、そうやって今日まで生きてきた。
たぶん明日も、そうする。
そして私は明日も、仕事があれば現場へ行く。
できれば、自殺現場ではなく、ただの掃除の仕事であってほしいと思いながら。





