特殊清掃「思いやり」を更新いたしました。
思いやり
特掃業務で自殺現場に入るとき、事前に「自殺だった」と知らされている現場と、何も知らされずに向かう現場とがある。
どんな現場に対しても、基本的には一定のスタンスで臨むようにしている。とはいえ、自殺と自然死とでは、心の中に生まれる感情がほんの少し違うのかもしれない。
それでも、どんな現場でも比較的冷静に仕事ができる自分を頼もしく思うことがある一方で、「もしかすると、少し冷たすぎるのではないか」と思うこともある。仕事として現場に向き合う以上、感情に引っ張られすぎてはいけない。けれど、人の死が関わっている仕事なのだから、何も感じないわけでもない。
そのあたりは、今でも自分の中で少し複雑なところだ。
私は現場に入ったとき、その第一印象を率直に口にすることが多い。
「これは、かなり大変ですねぇ」
特掃の現場では、だいたいこんな言葉が第一声になる。
決して失礼なつもりではない。本当に、それほど大変な現場だからだ。
何年この仕事を続けても、何件の現場を経験しても、状態の悪い現場を目の前にしたときの「大変だなぁ」という感覚は変わらない。慣れてしまって何も感じなくなる、ということではないのだと思う。
むしろ、何度経験しても「やっぱり大変だ」と思うからこそ、そこに人の暮らしがあったことを忘れずに済んでいるのかもしれない。
あるとき、自殺だったとは知らされずに出向いた現場があった。
汚染箇所を覆っていた新聞紙の範囲が妙に狭く、その部分に面した壁だけが縦長に汚れていた。
「妙な汚れ方だなぁ……」
そう思いながら、汚染箇所の真上を見上げた。
ロープを掛けたと思われる場所に、フックや釘がないか確認したが、それらしいものは見当たらない。
ところが、よく見ると柱に新しい穴がいくつか開いていた。
状況から考えると、何かを掛けていた跡なのだろう。
「そういうことだったのかもしれないな」
私はそう考えた。
ただ、それ以上を遺族に尋ねようとは思わなかった。
もし遺族が事情を話したくないのであれば、私が無理に聞くことではない。私の仕事は、現場をきれいにすることであって、家族の事情を聞き出すことではないからだ。
遺族は、できることなら自殺だったことを周囲に知られたくないのかもしれない。
その気持ちも、分からないではない。
ただでさえ、身近な人が亡くなったというだけで精神的な負担は大きい。そのうえ、亡くなり方についてまで周囲の目を気にしなければならないとなれば、残された家族の苦しさはさらに増してしまう。
特に賃貸住宅の場合は、家主や近隣住民との関係もある。
亡くなった方の家族にとっては、悲しみだけでなく、住宅の原状回復や今後の対応など、現実的な問題まで一気に押し寄せてくる。
「どうしたらいいのか分からない」
そんな状態になってしまうのも、無理はない。
作業を終え、壁や柱を見ながら今後のことを考えていると、遺族の方が私に声を掛けてきた。
どうやら、私が何かに気づいていることは分かっていたらしい。
「お気づきだと思いますが……」
そう言いかけたところで、私は言葉を遮った。
「内装のリフォームもできますから、よかったら一緒に見積もりを出しましょうか」
こんなときは、少しビジネスライクなくらいがちょうどいい。
相手が話したくないことを無理に聞かず、こちらは淡々と、できることを提示する。
それが私なりの、ささやかな思いやりだった。
「きれいに仕上げる自信はありますから。大家さんとは、そのあたりをきちんと打ち合わせしておいたほうがいいですよ」
そんな言葉の中には、「一人で抱え込まなくてもいいですよ」という気持ちもあった。
遺族の方は、ほんの少しだけ表情を緩めたように見えた。
その後、内装のリフォームまで無事に終えた。
現場がきれいになっていくにつれて、そこに住んでいた人の痕跡も少しずつ整理されていく。
仕事としては、それだけのことなのかもしれない。
でも、その「それだけのこと」が、残された人にとっては次へ進むための一歩になることもある。
別の現場では、事前に自殺だったことを知らされていた。
部屋全体に影響が及んでいて、かなり厳しい状態だった。
手首を傷つけたものの思うようにならず、最終的に別の方法を選んだと聞いていた。
現場を見た私は、汚染範囲の広さに思わず息をのんだ。
「これは大変だな……」
頭の中では、まず作業手順や必要な資材、どこから手を付けるかといった仕事の段取りを考えていた。
しかし、その一方で、そこに立っている遺族の姿が目に入った。
現場の状況を目の前にして、精神的にかなり疲弊している様子だった。
とても部屋の中に入って確認できる状態ではない。
本来なら、施工する側と依頼する側が現場を確認し、作業内容や責任範囲を共有することは重要だ。
けれど、目の前の状況を見れば、それを無理に求めることが適切ではない場合もある。
確認をお願いしたところで、さらに精神的な負担を増やしてしまうだけかもしれない。
遺族は、家主や近隣への対応についても、どうすればいいのか分からない様子だった。
心も身体も疲れ切っていたのだと思う。
そんな中、私は作業手順を考えながら、かなり真剣な顔をしていた。
すると、遺族の方が申し訳なさそうに謝ってきた。
「すみません……」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分の表情に気づいた。
しまった、と思った。
私にとっては仕事の段取りを考えているだけでも、目の前の遺族からすれば、「大変な現場を見せてしまった」と感じてしまうのかもしれない。
身内の死を受け止めるだけでも精いっぱいなのに、その後始末まで誰かにお願いしなければならない。
そのことに負い目を感じてしまう人は、決して少なくない。
だから私は、できるだけ明るく話すようにしている。
「こういう現場も仕事のうちですから、気にしなくて大丈夫ですよ」
そして、少し冗談めかして、
「私たちはこういう仕事のプロですから。ここは任せてください」
と伝える。
本当は、「あなたが全部背負わなくてもいいですよ」と言いたい。
「今はご自身のことを考えてください」と言いたい。
でも、真正面からそんなことを言うと、かえって重たくなってしまうこともある。
だから私は、少しだけ笑って話す。
それが私流の、ささやかな思いやりだ。
その後、内装リフォームが終わるまで、私はその遺族と何度も顔を合わせることになった。
一つ問題が片付き、また一つ問題が片付く。
そうして日が過ぎていくにつれて、最初は言葉も少なかった遺族の表情が、少しずつ変わっていった。
最初から元気になるわけではない。
けれど、少しずつ現実に向き合えるようになっていく。
その様子を見ていると、「自分の仕事も、ほんの少しは役に立っているのかな」と思えた。
特殊清掃という仕事は、亡くなった人を救うことはできない。
過ぎてしまった時間を戻すこともできない。
家族の悲しみを取り除くこともできない。
私にできるのは、汚れてしまった部屋をきれいにして、残された人がその先へ進むための環境を整えることくらいだ。
でも、ときにはその「くらい」が大切なのだと思う。
人が亡くなったあと、残された家族には、悲しむ時間すら十分に与えられないことがある。
警察への対応、葬儀、各種手続き、家主との話し合い、近隣への対応、部屋の片付け。
悲しみの中で、次から次へと現実的な問題が降ってくる。
そんなとき、せめて現場のことだけでも「任せてください」と言える人間がいる。
それだけでも、少しは違うのではないだろうか。
自殺という言葉には、どうしても重さがある。
だからこそ、私は遺族に余計な罪悪感まで背負わせたくないと思っている。
故人の行動について、残された家族がすべての責任を負う必要はない。
「あのとき、もっと何かできたのではないか」
「自分に何か足りなかったのではないか」
そんな思いを抱えてしまう人もいるだろう。
けれど、人の心の内側は、家族であってもすべて理解できるものではない。
まして、亡くなった本人が何を考えていたのかを、残された人間が完全に知ることはできない。
だから私は、現場を見るたびに考える。
「故人には、残される人たちへの思いやりを、もう少し持っていてほしかった」
そう思うこともある。
一方で、
「もし故人が、生きている間に誰かからもう少し思いやりを感じられていたら、何か違っていたのだろうか」
と考えることもある。
ただ、答えは分からない。
おそらく、誰にも分からない。
だからこそ、簡単に「こうすればよかった」と決めつけることもできない。
自殺の理由を外から勝手に決めることも、残された家族を責めることも、亡くなった人を一方的に評価することも、私にはできない。
私にできるのは、目の前にいる人に対して、少しだけ思いやりを持つこと。
余計なことを聞かない。
必要なことはきちんと伝える。
できることは「任せてください」と言う。
そして、ときには少し笑ってもらう。
特殊清掃の仕事をしていると、人の死を目の前にする機会が多い。
だからといって、死に慣れてしまってはいけないと思っている。
現場に慣れることと、人の死に慣れることは別物だからだ。
私はこれからも、現場を見れば「これは大変だなぁ」と思うだろう。
そして、必要な仕事を淡々と進めるだろう。
そんな自分を、冷たい人間だと思うこともあるかもしれない。
でも、もしその冷静さが、誰かの負担を一つ減らすことにつながるのなら、それもこの仕事に必要なものなのだと思いたい。
特殊清掃とは、ただ汚れを落とす仕事ではない。
残された人が、もう一度その部屋の外へ出ていくために、現実的な問題を一つずつ片付けていく仕事でもある。
大げさなことはできない。
人生を救うこともできない。
それでも、
「ここは私たちがやりますから」
と笑って言える人間でありたい。
それが、私にできる小さな思いやりなのだと思う。





