特殊清掃「善と悪の間で」を更新いたしました。
善と悪の間で
自殺した女性が、腐乱死体で発見された。
もちろん、私には自殺の動機など分からない。
現場に行ったからといって、故人の人生まで分かるわけではない。むしろ、現場に残されているのは「死んだ」という結果だけで、その結果に至るまでの長い時間は、本人と一緒にあの世へ持っていかれてしまう。
独り暮らしだった故人の自宅は賃貸マンションだった。
身寄りはないらしい。
賃貸契約の保証人も、親族ではなく有料の保証会社が請け負っていた。
依頼者である大家さんは、保証会社の対応に少々ご立腹だった。
まあ、無理もない。
人が一人亡くなれば、悲しみだけで済む話ではない。賃貸物件なら、残された部屋の処理、荷物の整理、原状回復、特殊清掃、次の入居者のこと、費用負担の問題……と、現実的な問題が次から次へと出てくる。
人間が一人死ぬと、関係者は「命」について考える暇もないほど「契約」について考えなければならない。
なんとも世知辛い話である。
このままだと、大家さんと保証会社の間でトラブルが発生するのは明白だった。
私としても、できれば揉め事にはなってほしくない。
もちろん、私は裁判官でもないし、大家さんと保証会社の仲裁人でもない。
ただの清掃屋である。
しかし、こういう仕事をしていると、なぜか掃除以外のことまで考えさせられる。
「人間、死んだ後まで人間関係がついて回るんだな」
などと、余計なことを考えながら現場に入った。
今回、汚染されていたのは玄関と、その外側の共有部分だけだった。
ウジやハエも玄関フロアに集中していた。
室内に入ると、少し意外だった。
女性らしい雰囲気の部屋だった。
そして、きれいに片付いていた。
私は独身女性の部屋に対して、ほとんど免疫がない。
仕事だから勝手に入っているのだが、妙な気後れがある。
「いや、仕事なんだから堂々と入れよ」
と自分に言い聞かせながら入る。
それでも、
「すみません、お邪魔します」
と、誰もいない部屋に心の中で挨拶してしまった。
考えてみれば、清掃業者が故人に挨拶する必要などない。
しかし、こういう現場では、妙なところで礼儀正しくなる。
人間、死者の前では多少まともになるらしい。
ところが、片付けを進めているうちに、故人が私と同じ年齢だったことが分かった。
それを知った瞬間、急に気持ちが悪くなってきた。
さっきまで「知らない女性の部屋」だったものが、突然「自分と同じ年齢の女性が暮らしていた部屋」に変わってしまった。
年齢という数字には、不思議な力がある。
同じ年だと知っただけで、それまで他人だった人が、急に自分の人生の隣に立ってくる。
「もし自分だったら」
そんなことを考え始める。
これはいけない。
仕事にならない。
私は頭の中で、余計な想像を追い払った。
我ながら勝手なものである。
女性には失礼な偏見になるかもしれないが、私は男性の自殺より女性の自殺の方が、何となく気持ち悪く感じる。
これまで私が遭遇してきた自殺体や自殺現場は、圧倒的に男性の方が多かった。
だから単純に免疫がないのかもしれない。
あるいは、世俗に伝わる怪談や、テレビや映画などで刷り込まれたイメージのせいなのかもしれない。
理由は自分でもはっきりしない。
とにかく、女性の皆さん、申し訳ない。
ちなみに、動物の場合は犬より猫の方が気持ち悪い。
これも理由はよく分からない。
猫には猫なりの事情があるだろう。
たぶん私の側の問題である。
玄関で首を吊るケースには、たまに遭遇する。
「なんで玄関なんだろう?」
作業をしながら、私は考えた。
もちろん、故人に聞いたわけではない。
だから以下は全部、私の勝手な想像である。
一つ目。
できるだけ早く発見してもらいたかったのかもしれない。
二つ目。
部屋を汚したくなかったのかもしれない。
三つ目。
たまたま、そこが都合のいい場所だったのかもしれない。
この三つのうち、どれが本当だったのかは分からない。
そもそも、全部外れているかもしれない。
人間の最後の行動ほど、他人には分からないものだ。
もし、私の想像が当たっていたとしたら、ちょっと切ない。
死んでからも醜態を晒したくなかったのか。
部屋を汚して大家さんに迷惑をかけたくなかったのか。
誰にも迷惑をかけたくないという気持ちが、最後の最後まで残っていたのか。
もちろん、そんなことは分からない。
ただ、きれいに片付けられた部屋を見ていると、故人が何らかの配慮をしていたような気がしてならなかった。
しかし、皮肉なことに、結果として腐敗によって玄関周辺は汚染されていた。
人間、死んだ後は自分の意思だけではどうにもならない。
生きている間は「こうしたい」と思って行動できる。
ところが死んだ瞬間から、身体は自分のものではなくなる。
時間に任せて変化し、周囲を汚し、臭いを出し、最後には誰かに片付けてもらう。
生前は自分の部屋をきれいにしていた人が、死後は自分の身体のために誰かを呼ぶことになる。
なんとも皮肉である。
そして私は、その「誰か」だった。
自分と同じ年齢であること。
身寄りがない孤独な身の上だったこと。
きれいに片付いた部屋から、何となく人柄を感じたこと。
そんなものが少しずつ積み重なって、私の気持ちは微妙に動いていった。
明らかに、故人への同情心が働いていた。
仕事をしている以上、感情を持ち込まない方がいい。
そう思っている。
特殊清掃という仕事は、ある意味では「感情を切り離す技術」が必要なのだと思う。
毎回、いちいち感情移入していたら、身が持たない。
死んだ人の人生を全部背負っていたら、こちらまで先に成仏してしまう。
だから普段は、
「ここを掃除する」
「これは廃棄する」
「これは残す」
と、作業として淡々と判断する。
ところが今回は、少し違った。
故人と自分が同じ年齢だと知ってしまったことで、どうしても「人」として見てしまった。
そうなると、仕事の線引きが少し難しくなる。
故人も、大家さんも、保証会社も、できれば事を大きくしたくないはずだった。
そして現場がきれいなら、無闇に事が大きくなるのを防ぐことができる。
そう考えると、事の大小は私の清掃作業の仕上がりにかかっている。
私は、偽善だろうが何だろうが、とにかく黙々と玄関を掃除した。
腐敗液が流れ出た跡も擦り洗った。
目に見えにくい人の脂や腐敗臭は、そう簡単には消えない。
表面がきれいになったからといって、それですべてが終わるわけではない。
普段なら、時間の経過に任せるところも、この現場ではできるだけ人為的に処理した。
通常なら一日仕事の作業を、二日がかりで念入りにやった。
別に誰かに褒めてもらいたかったわけではない。
いや、本当は少しくらい褒めてもらいたかったかもしれない。
人間なんて、そんなに高尚なものではない。
「俺、頑張ったな」
と自分で自分を褒めながら掃除するくらいの俗物である。
それでも、仕上がりには満足できた。
現場確認に気が進まなそうな大家さんを呼んできて、半ば強制的に見てもらった。
汚染現場を見るのが怖くて、それまで確認していなかった大家さんは、汚染の痕跡がほとんど見えなくなった現場を見て、少し驚いていた。
私は、大家さんから現場のBefore・Afterを写真に撮っておくよう依頼されていた。
約束なので一応撮影しておいた。
しかし、きれいになった現場を見た大家さんにとって、その写真の必要性は急速になくなっていった。
私は、
「妙なものが写っていたらマズいですからねぇ」
と、少し意味深なことを言った。
大家さんは写真の必要性について、しばらく考えていた。
そして結局、写真はいらないという判断になった。
私は、不要になったカメラを捨てた。
ここから先は、私の中で「善悪」の話になってしまう。
「ここの汚染は軽いものでした」
「あとは通常の空室リフォームとハウスクリーニングで充分でしょう」
そう伝えた。
それが正しかったのかは分からない。
いや、正しいとか間違っているとか、そんな簡単な話でもない。
私は常に、偽善と悪を併せ持っている。
表立って他人から非難されることはない。
しかし、自分が偽善者であることは、自分が一番よく知っている。
仮に誰かから、
「お前は偽善者だ」
と罵られても、たぶん私は腹を立てない。
「はい、その通りです」
と答えると思う。
そのくらいの自覚はある。
そもそも、人間は善人か悪人かの二種類に分類できるほど単純ではない。
親切にしたいと思いながら、自分の利益も考えている。
人を助けた直後に、
「俺っていい人だな」
と思ってしまう。
誰かのために何かをしたつもりが、実は自分が気持ちよくなりたかっただけかもしれない。
では、それは偽善なのか。
偽善だから悪いのか。
誰かのためになったのなら、それでいいのか。
では、最初から純粋な気持ちでなければ善とは呼べないのか。
そう考えていくと、だんだん分からなくなる。
人間の心なんて、玉ねぎみたいなものだ。
剥いても剥いても何か出てくる。
最後まで剥いたら、たぶん涙しか残らない。
私は昔から、善悪について考えることがある。
善と悪の境界線はどこにあるのか。
偽善と真善はどこで区切られるのか。
善悪の判断基準は、誰が決めるのか。
法律なのか。
世間なのか。
宗教なのか。
本人の良心なのか。
それとも、死んだ後に誰かが下す評価なのか。
いまだに答えはない。
今回の私の行動だって、どう評価すればいいのか分からない。
故人に対する同情だったのか。
大家さんへの配慮だったのか。
保証会社とのトラブルを避けるためだったのか。
仕事に対する責任感だったのか。
それとも、
「俺はこれだけきれいにできるんだ」
という、職人としての自己満足だったのか。
たぶん全部だと思う。
人間の行動なんて、そんなものだろう。
一つの理由だけで動いていることの方が少ない。
善意があって、打算があって、自己満足があって、ちょっとした見栄もある。
それらが全部ごちゃ混ぜになって、「行動」という形になる。
だから私は、この故人に対して偽善的だったのかと聞かれても、よく分からない。
ただ、汚れていた玄関を掃除した。
それだけは事実である。
故人がどう思ったかも分からない。
大家さんがどう感じたかも分からない。
保証会社がどう判断したかも分からない。
私自身だって、何が正しかったのか分からない。
もしかしたら、あの世にいる故人だけが知っているのかもしれない。
「余計なことしやがって」
と思っているかもしれない。
「ありがとう」
と思っているかもしれない。
あるいは、そんなことにはもう興味がないかもしれない。
死んだ人間の気持ちは、結局のところ生きている人間には分からない。
だから私は、自分がしたことを「善」と決めつけるつもりはない。
ましてや、
「故人のために頑張りました」
などと格好のいいことを言うつもりもない。
そんな立派な人間ではない。
私はただ、目の前の汚れを見て、
「もう少しきれいにしてやろう」
と思った。
それだけなのだと思う。
それだけでもいいのではないか。
善人になろうとすると、どうも肩が凝る。
悪人になろうとしても、それはそれで疲れる。
結局、人間というのは、善と悪の間を行ったり来たりしながら生きていくしかないのだろう。
今日は善だった。
明日は悪かもしれない。
昼間は人助けをして、夜は居酒屋で他人の悪口を言っているかもしれない。
そんなものである。
完璧な善人なんて、たぶん存在しない。
いたとしても、私はちょっと信用しない。
あまりにも出来過ぎていて怖いからである。
私なんかは、善と悪の間でウロウロしているくらいがちょうどいい。
疲れたら、居酒屋にでも行って気分転換をしよう。
人生について難しく考え過ぎると、頭が腐敗する。
頭の中まで特殊清掃が必要になったら大変だ。
やっぱり、身体の外側には消毒用エタノール。
そして身体の内側には、飲用アルコール。
外側を消毒して、内側を酔わせる。
これで今日一日の善悪の帳尻くらいは、何となく合う気がする。
……もちろん、これは完全に私の主観である。
善でも悪でもない。
ただの酔っ払いの理屈である。
人生なんて、そんなものでいいのかもしれない。





