特殊清掃「夢のあと」を更新いたしました。
夢のあと
自分が死んだら、柩の中に何を入れて欲しいだろうか。
若い頃は、結構真剣に考えていた。
「耳かき棒と酒を入れてくれ」
そう言っていた。
我ながら、ずいぶん小さな願いである。
もっとこう、「愛読書を一冊」とか「家族の写真」とか「故郷の土」とか、文学的で心温まるものを選べばいいのに、よりによって耳かき棒と酒。
しかも、どちらも「あの世で使える」という根拠はまったくない。
死んでから耳が痒くなったと
ころで、そもそも耳があるのかどうかも怪しい。酒にしても、あの世に酒税があるのか、飲酒運転の概念があるのか、そもそも酔える身体があるのか……考え始めるとキリがない。
それでも若い頃は、それを結構真面目に考えていた。
今はどうかというと、もうどうでもよくなっている。
耳かき棒も酒も、別にいらない。
浮世の金品なんて、あの世には関係のない物だと思うからだ。
いや、そもそも「あの世」というものが本当にあるのかどうかも知らない。
あるとしたら、受付で、
「お荷物は?」
と聞かれて、
「ありません」
と答えるのが一番簡単なのかもしれない。
現世では、荷物が多いほど引っ越しが大変なのに、死ぬ時には全部置いていける。
なんとも合理的なシステムである。
どんなに高価な物でも、灰になってしまえば同じこと。
どんなに偉い人でも、灰になってしまえば同じこと。
大金持ちも貧乏人も、社長も平社員も、政治家も無職も、金メダリストも運動不足の私も、最後は同じような方向へ進んでいく。
人間、最後だけは妙に平等だ。
いや、最後だけではない。
生まれた時だって、だいたい裸である。
もちろん最近は病院で産着を着せてもらったりするが、自分でブランドを選んで生まれてくる赤ん坊はいない。
「今日はこのオーガニックコットンのロンパースでお願いします」
などと言う新生児がいたら、それはそれで怖い。
人は何も持たずに生まれてくる。
そして、何も持てないまま死んでいく。
現金も、株券も、豪邸も、高級車も、ブランド品も持っていけない。
私の場合は、そもそもコノ世でも持っていない物ばかりなので、あまり問題はない。
そう考えると、貧乏も少しだけ気楽である。
「どうせ持っていけないんだから、最初から持っていなくてもいいじゃないか」
……というのは、貧乏人が自分を慰めるために編み出した、かなり便利な理屈である。
しかし、それにしても不思議だ。
どうして人は、こうまで物を欲しがるのだろう。
生活がある程度便利で、ある程度快適であれば、それでいいような気もする。
雨が漏らず、冬に寒すぎず、夏に暑すぎず、腹が減ったら食べられて、夜になれば眠れる。
それだけでも、かなり贅沢なことではないか。
ところが人間というものは、それでは満足しない。
もっと広い家が欲しい。
もっといい車が欲しい。
もっと高い時計が欲しい。
もっと貯金が欲しい。
もっと株が上がって欲しい。
もっと評価されたい。
もっと若く見られたい。
もっと長生きしたい。
そして、最後には「死にたくない」と言う。
命は有限なのに、欲は無限。
どう考えてもバランスが悪い。
人生という限られた容器に、欲望だけは底なしに注ぎ込まれていく。
しかも、その容器には最後に穴が開く。
なんとも効率の悪い話である。
では、目に見えないものはどうなのだろう。
例えば、愛。
名誉。
徳。
善行。
友情。
思い出。
そういうものは、物と違って柩の外に置いていくことができない。
だからといって、あの世に持っていけるとも限らない。
愛は永遠なのか。
善行は残るのか。
名誉は死後も続くのか。
人の記憶に残ることに意味があるのか。
それとも、何百年か何千年か経てば、結局すべて消えてしまうのか。
考えれば考えるほど、よく分からなくなる。
ま、その類の話は、どっかの宗教にでも任せておけばいいか。
私が考えたところで、たぶん悟りには到達しない。
せいぜい昼飯の時間になるだけである。
遺族が柩の中に入れる物で多いのは、まず衣類だろう。
それから、お金や写真、手紙など。
故人が好きだった物を入れることもある。
それぞれの品には、それぞれの人の、それぞれの想いがある。
だから私は、そういう副葬品は「故人のため」というより、「遺族本人のため」と言った方が適切なのではないかと思う。
もちろん、それは悪いことではない。
むしろ、それでいい。
「これを入れてあげよう」
「これ、好きだったよね」
「向こうでも使ってね」
そんな気持ちを形にすることで、残された人の心が少しでも楽になるのなら、それは十分意味のあることだと思う。
死んだ本人には、もう分からないかもしれない。
でも、残された人には分かる。
柩の中に何かを入れるという行為は、故人に物を渡しているようでいて、実は自分自身の心に何かを渡しているのかもしれない。
「ありがとう」
「ごめんね」
「さようなら」
口では言えなかったことを、物に託しているのかもしれない。
だから、本人にとっては「ありがた迷惑」かもしれないが、残された側には必要なことなのだろう。
ただ、最近は火葬場の都合で、副葬品が制限されることも少なくない。
環境問題なのか、火葬炉の問題なのか、あるいは火夫さんの都合なのか。
詳しいことは知らない。
たぶん、何でもかんでも燃やしてしまえばいいという話ではないのだろう。
火葬炉では強力なバーナーで一気に焼かれるらしい。
そして、意外なことに燃焼より冷却の方に時間がかかることもあるという。
人間の身体というものは、本人が生きている間はずいぶん複雑なことをしている。
食べたり、飲んだり、笑ったり、怒ったり、恋をしたり、悩んだり、働いたり、サボったりする。
しかし、最後には火の中に入り、冷めるのを待つ。
なんともあっけない。
生きている間は、「自分は自分だ」という確固たるものがあるように思っているのに、終わってしまえば身体は物質に戻っていく。
骨になり、灰になる。
考えてみれば、かなり不思議な話だ。
私たちは毎日、鏡を見て「これが自分だ」と思っている。
名前もある。
住所もある。
職業もある。
好き嫌いもある。
過去もある。
人間関係もある。
「私はこういう人間です」という説明も、それなりにできる。
ところが、その「私」を構成していた身体は、最後には灰になる。
では、「私」はどこに行ったのだろう。
脳なのか。
記憶なのか。
魂なのか。
それとも、最初からそんなものは存在しないのか。
これも考え始めると、また宗教の領域に入ってしまう。
私は宗教家ではないので、その辺は深入りしないことにする。
深入りすると、今度は自分が死んだ後の葬式について考えるより、自分が生きている今の方が分からなくなってくる。
残された人の心に留まれるのも、せいぜい孫の代くらいまでなのかもしれない。
祖父母のことを覚えている人はいても、曾祖父母になると、記憶が曖昧になる。
さらにその上になると、名前すら分からない。
写真だけが残っていても、「この人、誰?」となる。
そして、その写真もいつか処分される。
家もなくなる。
墓もどうなるか分からない。
名前も忘れられる。
やがて、誰からも思い出されなくなる。
そう考えると、人生なんて随分と儚い。
どんなに頑張っても、どんなに苦労しても、どんなに立派なことをしても、時間という巨大な消しゴムには勝てない。
嬉しいことも、悲しいことも。
楽しいことも、苦しいことも。
笑ったことも、泣いたことも。
成功したことも、失敗したことも。
恋愛も、失恋も。
喧嘩も、仲直りも。
全部、少しずつ薄くなっていく。
そして最後には、
「夢のあと」
ということになるのだろう。
だったら、無理矢理にでも笑ってみるか。
ハハハ。
……やっぱりダメだ。
心が伴っていない。
口では笑えても、心は笑っていない。
「ハハハ」と言いながら鏡を見たら、ただの変な人である。
そもそも、笑うということは自分で完全に自由にできることではない。
泣くことも同じだ。
笑おうと思っても笑えない時がある。
泣きたくても泣けない時もある。
逆に、笑ってはいけないような場面で笑いそうになることもある。
葬式で笑いそうになった経験がある人も、案外いるのではないかと思う。
もちろん、故人を馬鹿にしているわけではない。
あれはたぶん、心が処理しきれないものを、身体が勝手に逃がしているのだろう。
感情というものは、自分の所有物でありながら、自分の支配下にはない。
「自分の心なのに、言うことを聞かない」
考えてみれば、かなり変な話である。
笑っているのも自分。
泣いているのも自分。
怒っているのも自分。
なのに、「なぜ今そうなる?」と、自分自身に驚かされる。
身体も心も、全部自分のものだと思っている。
けれど、実際には、完全に自分の思い通りになるものなんて、ほとんどない。
眠ろうと思っても眠れない。
忘れようと思っても忘れられない。
好きになろうと思って好きになれるわけでもない。
嫌いになろうと思って嫌いになれるわけでもない。
そして、死にたくないと思っていても、いつか死ぬ。
そう考えると、「自分」という存在そのものが、ずいぶん不思議なものに思えてくる。
生きている。
そして、生かされている。
この二つは、似ているようで少し違う。
自分の意思で生きているつもりでも、心臓を自分で動かしているわけではない。
眠っている間も呼吸をしている。
傷ができれば身体が勝手に治そうとする。
腹が減れば食べたくなる。
眠くなれば眠くなる。
笑いたければ笑う。
泣きたければ泣く。
つまり私は、私の身体を完全には管理できていない。
もしかすると、人間は「自分で生きている」というより、「自分ではどうにもならないものに生かされながら、そこに少しだけ口出ししている」くらいなのかもしれない。
だとしたら、人生というものは、最初から最後まで、かなり不思議な出来事である。
生まれることも。
生きることも。
人を好きになることも。
誰かに嫌われることも。
笑うことも。
泣くことも。
そして、最後に灰になることも。
何のために生まれてきたのか、と聞かれても分からない。
何のために生きているのか、と聞かれても、立派な答えは持っていない。
死んだ後に何があるのかも知らない。
天国があるのか、地獄があるのか、輪廻転生するのか、それとも完全な無なのか。
どれも確かめようがない。
だったら、分からないものは分からないままでいいのではないか。
少なくとも今は、飯が食える。
酒も飲める。
耳もまだ聞こえる。
耳かきもできる。
そう考えれば、若い頃に「柩には耳かき棒を」と言っていた自分も、案外いいところを突いていたのかもしれない。
ただし、今は酒の方だけでいい。
いや、やっぱり酒もいらないかもしれない。
……いや、やっぱり入れておいてもらおう。
あの世に酒があるかどうか分からないからだ。
こればかりは、死んでみないと分からない。
そうやって、くだらないことを考えながら今日も生きている。
人生が夢のようなものなら、夢の中で少しくらい笑っていたい。
大笑いできなくてもいい。
心から笑えない日があってもいい。
泣く日があってもいい。
何もしたくない日があってもいい。
人間なのだから、感情も思い通りにはならない。
だったら、無理に立派に生きなくてもいいのかもしれない。
誰かの記憶に永遠に残ろうとしなくてもいい。
偉業を成し遂げなくてもいい。
死んだ後まで名前を残そうとしなくてもいい。
どうせ最後には灰になる。
それなら、灰になるまでの間くらい、自分なりに生きてみる。
笑える時には笑う。
泣ける時には泣く。
腹が立ったら少し怒る。
腹が減ったら飯を食う。
眠くなったら寝る。
そして、たまには空を見上げる。
それくらいでいいのかもしれない。
人生の意味なんて、死ぬまで分からないのだろう。
いや、死んでも分からないかもしれない。
でも、分からないまま生きていけるというのも、人間の面白いところだと思う。
そして、いつか最後の時が来たら、身体は灰になる。
財産も、肩書きも、見栄も、悩みも、たぶん一緒に置いていく。
残るものが何なのかは分からない。
誰かの記憶に残るのか。
残らないのか。
愛や善意が何かの形で続いていくのか。
それも分からない。
ただ、今日という日は、今ここにある。
それだけは確かだ。
だから、夢のあとを心配するより、夢を見ている間くらいは、もう少し楽しんでもいい。
どうせ目が覚めるのなら、寝ている間にまで深刻な顔をしている必要はない。
……とは言っても、眠っている自分の顔は自分では見られない。
これもまた、なかなかよくできた話である。
結局のところ、生きるということは、よく分からない。
死ぬということも、よく分からない。
分からないまま生まれて、分からないまま生きて、分からないまま死んでいく。
その途中で、笑ったり、泣いたり、欲しがったり、諦めたりする。
そして最後には、すべてが夢のあと。
そう思うと、人生はずいぶん儚い。
けれど、儚いからこそ、少し面白いのかもしれない。
さて。
今日も生きている。
何をするかは、まだ決めていない。
とりあえず朝飯でも食うか。
それから、耳でも掻こう。
酒は……昼間から飲むと、さすがに「生きる」より「酔う」が主目的になってしまう。
まあ、それも人生か。
ハハハ。
……今度は、ちょっとだけ本当に笑えた気がする。





