特殊清掃「ルービックキューブ」を更新いたしました。
ルービックキューブ
今の若い人たちは、ルービックキューブを知っているのだろうか。
いや、知らないはずはないか。
今でも売っているらしいし、動画サイトを見れば、ものすごいスピードで六面を揃える人がいる。
ただ、私たちの世代にとっては、ルービックキューブは単なるパズルではない。
一種の「時代の風景」だった。
いつ頃流行ったのかと聞かれると、これがまたハッキリしない。
昭和のいつだったか。
1980年代だったような気もするし、もっと前だったような気もする。
こういうところにも、歳を取ったことを感じる。
若い頃は、何年の何月に何をしていたかなんて、いちいち覚えていない。
ところが今は、
「えーっと、あれは何年前だ?」
と考えた瞬間、
「待てよ。そもそも今、何年だ?」
となる。
ルービックキューブが流行った年代を調べる前に、自分の現在地を確認する必要がある。
昔のことを思い出そうとしているのに、現在の方が怪しい。
これも一種の記憶のシャッフルなのだろう。
私の友達には、短時間で六面を揃える頭脳派がいた。
手元を見ていると、まるで何かの暗号を解読しているようだった。
カチャ、カチャ、カチャ。
本人の頭の中では、何十手先まで計算されているらしい。
こちらは、
「赤を揃えるには、青を崩さないといけないのか……」
などと考えているうちに、何を揃えようとしていたのか分からなくなる。
そのうち、最初に揃っていた面まで崩れる。
そして、
「今のは途中だから」
と、訳の分からない言い訳をする。
私のような人間にとって、ルービックキューブは「知性の差」を容赦なく見せつける道具だった。
もう一人、時間はかかるけれど、絶対に諦めない努力家もいた。
何度も何度も挑戦する。
崩して、考えて、回して、また崩す。
本人は真剣だ。
こちらも最初は応援する。
「頑張れ!」
「もうちょっと!」
「いける、いける!」
しかし、30分を超えたあたりから、こちらの応援にも陰りが出てくる。
「……まだ?」
それでも彼は諦めない。
やがて六面が揃う。
本人は嬉しそう。
こちらも嬉しい。
ただ、そこまでの過程を見ていた私は、心の中で思っていた。
「その根性を、もっと他のことに使えばいいのに」
もちろん、本人には絶対に言わない。
そして私はというと、頭脳派でもなければ努力家でもない。
だから、最初から本気で挑戦しなかった。
正確には、一度くらいはやったと思う。
でも、すぐに分かった。
これは私が手を出してはいけない世界だ、と。
自分の能力を客観的に判断できる。
これは賢明というものだ。
……ということにしている。
実際には、ただ恥をかきたくなかっただけである。
「六面揃えられたら凄いよ」
と言われても、
「いや、私はそういうの向いてないから」
と、涼しい顔をしていた。
今考えると、向いているかどうかを判断できるほど、やっていない。
挑戦していないのだから、向いていないのかどうかすら分からない。
こういうところが、私の人生の縮図なのかもしれない。
できそうにない。
だからやらない。
やらなかったから失敗もしない。
失敗しないから傷つかない。
傷つかない代わりに、成功もしない。
実に安全な人生である。
ただし、面白味もない。
そんなルービックキューブが、ある故人の人生と重なって見えた。
故人は初老の男性だった。
脳神経系の病気を長く患っていたらしい。
故人は、自分の病気の進行具合を自分自身で把握するため、ルービックキューブを解くことを日課にしていた。
家族や看護師に適当にシャッフルしてもらう。
そして、六面を揃えるまでの時間を測る。
毎日。
昨日は何分。
今日は何分。
先週より遅くなった。
先月より、さらに時間がかかる。
ルービックキューブを解くという、一見すると遊びのような行為が、自分の身体の状態を知るための「物差し」になっていた。
考えてみれば、かなり合理的である。
病院の検査結果だけではなく、自分自身が毎日感じている変化を、自分で確かめる。
「今日は何分だった?」
という数字が、本人にとっては重要だったのだろう。
そして次第に、解くのに時間がかかるようになった。
それでも意識はハッキリしていた。
最期の方は、
「解けない」
というより、
「続けられない」
という感じだったらしい。
この二つは似ているようで、ずいぶん違う。
「解けない」は、頭の中に答えがない。
「続けられない」は、答えは分かっているのかもしれない。
ただ、そこまで手を動かすことができない。
身体の方が先に、
「今日はここまでにしよう」
と言ってくる。
本人の意思とは関係なく、できることが一つずつ減っていく。
それは、とても厳しいことだと思う。
若い頃なら何でもないことが、歳を重ねると難しくなる。
歩く。
走る。
階段を上る。
箸を使う。
字を書く。
ボタンを留める。
そして、ルービックキューブを回す。
昔は「遊び」だったものが、いつの間にか「能力の確認」になる。
そう考えると、あの小さな六面体は、ずいぶん深い。
そして私は、そのルービックキューブを見ながら、別のことを考えた。
人間にも、いろいろな「面」がある。
夫。
父親。
息子。
兄弟。
友人。
上司。
部下。
同僚。
知人。
近所のおじさん。
店員から見れば客。
病院から見れば患者。
銀行から見れば口座を持っている人。
税務署から見れば……まあ、あまり考えたくない。
一人の人間なのに、相手によって見える顔が違う。
「優しい夫だった」
と言う人がいる。
「厳しい父だった」
と言う人もいる。
「誠実な兄だった」
と言う人もいる。
会社の部下からは、
「怖い上司だった」
と思われているかもしれない。
本人としては、
「そんなつもりはなかった」
と言うだろう。
でも、どれも嘘ではない。
一人の人間が、それぞれ違う面を持っていたということだ。
ルービックキューブだってそうだ。
こちらから見ると赤。
反対側は青。
上から見れば白。
下から見れば黄色。
見る場所が違えば、見える色が違う。
人間も同じなのだろう。
家ではだらしないのに、会社では立派。
会社では「責任感のある人」と言われているのに、家では靴下を脱ぎっぱなし。
部下には、
「整理整頓を徹底しろ」
と言いながら、自分の机の引き出しを開けると、何年前の領収書なのか分からないものが出てくる。
人間というのは、なかなか都合よくできている。
私だってそうだ。
人前では、
「まあ、気にしなくていいよ」
などと言っているくせに、家に帰ってから思い出して、
「やっぱり、あれはちょっと腹が立つな」
などと、一人で反省会を始める。
しかも翌朝には、何に腹を立てていたのか忘れている。
記憶力は悪いのに、くだらないことだけは妙に覚えている。
これもまた、心のルービックキューブなのかもしれない。
「本当の自分はどれなのだろう」
そう思うことがある。
夫としての自分。
父親としての自分。
仕事をしている自分。
友人といる自分。
一人でいる自分。
誰にも見せたくない自分。
全部が本当なのか。
それとも、そのうちのどれか一つが本当なのか。
若い頃は、もっと単純だった。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
嬉しいときは嬉しい。
悲しいときは悲しい。
眠ければ寝る。
腹が減れば食べる。
実に分かりやすい。
ところが歳を取ると、そうはいかない。
本当は嫌なのに、
「まあ、いいですよ」
と言ってしまう。
本当は嬉しいのに、
「別に、大したことじゃない」
と強がる。
本当は寂しいのに、
「一人の方が気楽だよ」
と言う。
本当は怒っているのに、
「大人だからね」
と笑う。
その結果、本人にも何が本心なのか分からなくなる。
そして気がつくと、心のルービックキューブが完全にシャッフルされている。
しかも説明書がない。
買ったときの箱もない。
攻略法を知っている友人は、もう連絡先が分からない。
ネットで調べようにも、
「自分の心の型番」
が分からない。
これは困った。
仮に何とか揃えたとしても、人間は六面六色ではない。
一面一色でもない。
嬉しいけれど寂しい。
好きだけれど腹が立つ。
嫌いなのに放っておけない。
許したいけれど許せない。
忘れたいのに忘れられない。
そんな色が混ざり合っている。
だから、
「二枚舌」
「二重人格」
なんて、まだ分かりやすい方なのかもしれない。
人間の心なんて、もっと複雑だ。
本人が一番、自分のことを分かっていないことだってある。
私は特にそうだ。
「自分のことくらい、自分が一番よく分かっている」
と思っていた時期もあった。
最近は、そうでもない。
むしろ、
「自分って、こんな人間だったのか」
と、自分に驚かされることがある。
しかも、あまり良い意味ではない。
「こんなに根に持つ人間だったのか」
「こんなに面倒くさい人間だったのか」
「こんなに見栄っ張りだったのか」
「こんなに怠け者だったのか」
長年一緒に暮らしてきた自分という人間について、最近になって新しい発見が続いている。
できれば発見したくなかった種類の発見である。
故人は、そんな自分の身体の変化を、毎日のルービックキューブで確かめていた。
時間がかかるようになっていく。
それでも解こうとした。
最後には、解けないのではなく、続けられなくなった。
私はそこに、人間の強さを感じる。
六面を揃えられることが強いのではない。
昨日より時間がかかっても、今日もやる。
昨日できたことが今日できなくても、それでもやってみる。
その方が、ずっと強いのではないかと思う。
考えてみれば、人生そのものがルービックキューブなのかもしれない。
子どもの頃は比較的単純だった。
ところが歳を取るにつれて、どんどん面が増えたような気がする。
家族ができる。
仕事をする。
責任が増える。
人間関係が増える。
守るものが増える。
失いたくないものも増える。
そのたびに、キューブを一回転、また一回転。
こちらを揃えたら、あちらが崩れる。
仕事を頑張れば家庭がおろそかになる。
家族を優先すれば仕事が気になる。
自分の時間を大切にすれば、誰かに申し訳なくなる。
誰かのために頑張れば、自分が疲れる。
そして、どこかの面を揃えたつもりになった頃には、別の面がぐちゃぐちゃになっている。
「人生、なかなか六面揃わないな」
と思う。
そもそも、六面全部を綺麗に揃える必要があるのだろうか。
もしかすると、そんな状態を目指すから疲れるのかもしれない。
少しくらいバラバラでもいい。
赤の中に白が一つ混じっていてもいい。
青の面に黄色があってもいい。
人生の途中なら、なおさらだ。
完成してしまったら、もう回す必要がない。
そう考えると、多少ぐちゃぐちゃなくらいが、生きているということなのかもしれない。
故人のルービックキューブも、最後まで六面揃っていたわけではない。
でも、それでいい。
最後まで解こうとしていた。
そして、身体が「ここまで」と告げたところで終わった。
それは失敗ではないと思う。
人生だって同じだ。
全てを解決してから死ねる人など、ほとんどいない。
家族とのわだかまり。
言えなかった言葉。
謝れなかったこと。
許せなかったこと。
やり残したこと。
途中のままになっていること。
きっと誰にでもある。
人間は、完成品になってから死ぬわけではない。
未完成のまま終わる。
むしろ、それが普通なのだろう。
だから、誰かが亡くなったとき、その人の人生を一色で塗りつぶす必要はないのだと思う。
「優しい人だった」
だけでもない。
「厳しい人だった」
だけでもない。
「立派な人だった」
だけでもない。
「困った人だった」
という面だってあったかもしれない。
でも、それも含めて一人の人間だった。
故人の愛用していたルービックキューブを、私は柩に納めた。
六面は揃っていなかった。
もちろん、もう故人が回すことはない。
家族や看護師がシャッフルすることもない。
時間を測る必要もない。
それでも、あのキューブには、故人が毎日自分自身と向き合った時間が残っているように思えた。
もしかしたら、あちらの世界では病気も治って、
「さて、今日は何秒で揃えるか」
などと、元気に回しているかもしれない。
そして私を見つけたら、
「お前、相変わらず遅いな」
と言うかもしれない。
「いや、私は最初からやらない主義だから」
と答えたら、
「それを逃げるって言うんだよ」
と笑われそうだ。
返す言葉がない。
その通りだから。
私の心のルービックキューブは、かなり長いことシャッフルされたままだ。
しかも、いつシャッフルしたのかも覚えていない。
自分で回したのか。
誰かに回されたのか。
あるいは、両方なのか。
元の状態がどんなだったのかも、もうよく分からない。
それでも、ときどきは手に取ってみようと思う。
一面くらい揃えてみる。
無理なら一列でもいい。
途中で崩れてもいい。
また回せばいい。
若い頃のように、何も考えずに好き嫌いだけで生きることは、もうできない。
でも、子どもの頃の自分が持っていた、
「やってみよう」
という気持ちくらいは、少し取り戻したい。
賢明になって元に戻すのではなく、余計なことを考え過ぎない。
完璧に揃えようとしない。
途中で失敗しても、
「まあ、こんな日もある」
と笑う。
それくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
人生のルービックキューブは、たぶん最後まで完成しない。
でも、それでいい。
六面全部を完璧に揃えた人だけが立派な人生というわけではない。
揃っていない面も含めて、その人なのだから。
そう考えると、故人の柩に納めたルービックキューブは、未完成だったのではない。
最後まで、故人の人生そのものだったのかもしれない。
いくつもの色。
いくつもの顔。
いくつもの面。
それら全部が、一人の人間だった。
そして、私もまた同じだ。
たぶん、これからも色々な面を増やしていく。
できれば、これ以上「面倒くさい面」は増やしたくない。
しかし、そこは人生。
自分の意志だけではどうにもならない。
だからせめて、シャッフルされたままでも、
「これも自分か」
と笑えるくらいでいたい。
いつか最後に、私のルービックキューブを誰かが柩に入れてくれるなら。
そのときは、六面が揃っていなくてもいい。
むしろ、揃っていない方が私らしい。
そして誰かが、
「この人、最後まで面倒くさかったね」
と笑ってくれたら、それで十分だ。
「でも、まあ、悪い人じゃなかったよ」
と、ついでに言ってもらえれば、なお結構。
それくらいの人生なら、悪くない。
六面全部は無理でも、
最後の一面くらいは、
誰かの記憶の中で、
ほんの少しだけ綺麗な色になっていればいい。
……さて。
私もそろそろ、自分のルービックキューブを探してみようと思う。
たぶん、どこかにある。
ただ問題は、
ルービックキューブを探す前に、
何を探していたのか忘れないことだ。
これが一番難しい。





