特殊清掃「哀愁のマットレス③」を更新いたしました。
哀愁のマットレス③
最大の難関
――腐敗液を吸ったダブルベッドマットを一人で搬出する苦闘
ベッドマットを前にして、私はしばらく立ち尽くした。
頭では分かっていた。
このマットを部屋から出さなければ、この現場は終わらない。
しかし、実際に目の前にすると、その存在感は想像以上だった。
普通のダブルサイズのマットレスでも、一人で運ぶのは容易ではない。
それが、このマットは長期間にわたり大量の腐敗液を吸収している。
本来なら軽々と扱えるものではない。
重量だけの問題ではなかった。
精神的な抵抗も大きかった。
触れることへのためらい。
近づいた時に感じる臭気。
そして、この中に残っているものを想像してしまう感覚。
特殊清掃員である以上、感情を切り離さなければならない。
しかし、人間である以上、何も感じないわけではない。
「これを一人で出すのか……」
正直、心が折れそうになった。
通常なら、こうした大型家具や重量物は複数人で対応する。
安全面を考えても、それが当然だ。
しかし、この日は急な対応だった。
十分な人員も、十分な装備もなかった。
頼れるのは自分しかいない。
「やるしかない」
そう自分に言い聞かせた。
まず、何とか持ち上げようと試みた。
しかし、すぐに分かった。
これは無理だ。
通常のマットレスなら、片側を持ち上げて立てたり、少しずつ移動させたりできる。
だが、このマットは違った。
水分を大量に含んだような重さ。
そして、手を掛けた瞬間に伝わってくる独特の感触。
力を入れても、思うようには動かない。
一瞬、
「どうすればいいんだ」
という思いが頭をよぎった。
しかし、そこで止まるわけにはいかなかった。
最終的に選んだ方法は、持ち上げるのではなく、引きずることだった。
正しい方法だったかと言われれば、決して理想的ではなかった。
しかし、その時の状況では、それしか方法がなかった。
大型のブルーシートでマットレスを覆い、端を持ち、少しずつ動かす。
ズル……。
ズル……。
一回動かすだけでも、大きな負担だった。
腕だけではない。
腰、背中、脚。
全身の力を使わなければ動かない。
しかも、ただ重いだけではない。
ブルーシート越しに常に鼻を突く臭気が付きまとう。
一刻も早く終わらせたい。
しかし、重量がそれを許さない。
数センチ進むだけなのに、時間が異常に長く感じた。
ようやく玄関までたどり着いた。
ここからが、さらに大きな問題だった。
玄関を出れば、そこはもう自分たちだけの空間ではない。
マンションの共用部分。
そして、その先には公共の道路がある。
当然、通行人の目に触れる。
本当なら、人目につかないように素早く搬出したかった。
しかし、この重量ではそんなことはできなかった。
ゆっくり。
少しずつ。
ズルズルと引きずるしかない。
玄関を出た瞬間、春の爽やかな空気の中に、異質な臭いが広がった。
それまで部屋の中に閉じ込められていた臭気が、外へ流れ出したのだ。
近くを歩いていた人たちが、こちらを見る。
遠くから見ると、不思議そうな表情だった。
「何を運んでいるのだろう」
そんな視線だったと思う。
しかし、距離が縮まった瞬間、人々の表情が変わった。
鼻を押さえる人。
顔をしかめる人。
驚いて立ち止まる人。
そして、
「くせぇ!」
「何だこれ?」
「キャー!」
そんな声が聞こえた。
当然だと思った。
誰だって、突然そんな臭いに遭遇すれば驚く。
ブルーシートを被せていてこの反応。
そのまま出していたら110番されていたかもしれない。
事情を知らない人から見れば、私はただ、強烈な臭いを放つ大きな物を道路で引きずっている人間にしか見えない。
説明することもできない。
「これは亡くなった方のお部屋のものです」
そんな説明をして歩くわけにもいかない。
私はただ黙って、マットを運び続けた。
人の視線や声が刺さる。
中には、明らかに嫌悪感を示す人もいた。
しかし、反論する気にはならなかった。
その人たちは何も知らない。
この部屋で何が起きたのか。
ご遺族がどれほど苦しんでいるのか。
そして、この作業を誰かがやらなければならないことも。
知らないのだから、仕方がない。
そう自分に言い聞かせた。
ただ、心の中では少し寂しさもあった。
自分が運んでいるものは、単なるゴミではない。
そこには、確かに一人の人間の人生があった。
その人が眠った場所であり、最後の時間を過ごした場所だった。
私は、その人生の最後の片付けをしている。
そう思うと、周囲から向けられる視線よりも、別の重さを感じた。
トラックまでは、ほんの少しの距離だった。
普段なら数十秒で歩ける距離。
しかし、その日は永遠にも感じられた。
一歩進む。
また一歩進む。
ズル……ズル……。
途中で何度も手を止めた。
体力的にも限界だった。
それでも、止まり続けるわけにはいかない。
早く積み込んで、この場を離れたい。
そう思いながら、最後の力を振り絞った。
ようやくトラックまで到着した時、全身から力が抜けた。
達成感というより、疲労感の方が大きかった。
「終わった……」
その瞬間、初めて少しだけ息をつけた。
ご遺族は、何度もお礼を言ってくださった。
「本当にありがとうございます」
その言葉は、疲れ切った私の心に残った。
この仕事をしていて良かったと思える瞬間だった。
しかし同時に、胸の奥には重いものが残っていた。
作業が終わったからといって、そこで全てが終わるわけではない。
その部屋で亡くなった方のこと。
残されたご家族の悲しみ。
そして、自分が見た光景。
それらは簡単には消えない。
私はその日、物を片付けたのではなく、一人の人生の最後に触れたのだと思う。
トラックを走らせながら、私は静かに現場を後にした。
逃げるように。
しかし、それは仕事から逃げたのではない。
あまりにも重い現実を、一度自分の中から整理するためだった。
25年経った今でも、あの日の春の日差しと、あのマットを引きずった感覚は、私の中から消えることはない。





