特殊清掃「『生き残れ!』【前編】」を更新いたしました。
「生き残れ!」【前編】
「勝手に入って見積りしてください」
特殊清掃の仕事をしていると、世の中には「そんな依頼の仕方があるのか」と思うような電話が、たまに……いや、意外とよく掛かってくる。
孤独死現場の清掃。
ゴミ屋敷の片付け。
遺品整理。
害虫駆除。
消臭・消毒。
現場の種類はさまざまだが、普通は依頼者が最低限の事情くらいは説明してくれる。
「父が一人暮らしで亡くなりまして……」
「長年空き家になっていて……」
「退去日が迫っていて……」
そんな具合に、こちらもある程度は心の準備ができる。
ところが、その日の電話は違った。
「見積りをお願いしたいんです。」
「かしこまりました。どのような現場でしょう?」
「行けば分かります。」
「……え?」
「鍵は開いてますから、勝手に入って見積りしてください。」
以上。
電話は、ほぼそれだけだった。
死体現場なのか。
ゴミ屋敷なのか。
遺品整理なのか。
それとも、まったく別件なのか。
何を尋ねても、
「行けば分かる。」
の一点張り。
今思えば、この時点で嫌な予感しかしない。
もっとも、特殊清掃の仕事では、依頼者が見積りに立ち会わないケースは決して珍しくない。
「仕事で行けません。」
「遠方なので。」
「精神的につらくて現場へ行けません。」
事情はいろいろある。
本当は立ち会っていただいた方が、お互いのためにも間違いがなくていい。
現場を見ながら説明もできるし、作業内容や料金についても、その場で確認できる。
だから私は基本的に立ち会いをお願いしている。
……お願いはしている。
しかし現実は、
「鍵だけ開けておくので。」
「終わったら電話ください。」
そんなことも少なくない。
この業界では、「理想」と「現実」は、わりと仲が悪い。
だから今回も、
「まあ、そんな現場なんだろう。」
くらいに軽く考えて車を走らせた。
この時は、まだ。
その日の仕事の中で一番怖い相手が、人間になるとは思ってもいなかった。
現場近くまで来たところで、念のためカーナビに住所を入力した。
ピッ。
目的地が表示される。
ところが、おかしい。
地図を拡大しても、目的地まで続く道路がない。
さらに拡大。
まだない。
最大倍率まで拡大。
やっぱり、道がない。
「……え?」
ナビは目的地を指している。
しかし、その目的地へ行くための道だけが存在しない。
ゲームなら「まだマップが解放されていません」というやつである。
「これ、本当に住所合ってる?」
もう一度入力し直す。
同じ結果。
「いやいや、ナビがおかしいのか?」
再起動してみる。
やっぱり同じ。
どうやら壊れているのはナビではなく、私の常識らしい。
とりあえず車で近づけるところまで行くことにした。
季節は秋。
夕方とはいえ、日が落ち始めるのが早い。
空は群青色に変わり始め、住宅街には夕食の匂いが漂っていた。
こんな時間から特殊清掃の見積りというのも、あまり気分のいいものではない。
昼間なら何とも思わない景色が、夕暮れになるだけで急に不気味に見えてくる。
人間の想像力というのは、本当に余計な仕事をする。
車を止め、住所を頼りに周囲を見回した。
右を見ても家。
左を見ても家。
前を見ても家。
なのに、目的の家だけがない。
「おかしいな……。」
住宅街をぐるぐる歩き回る。
五分。
十分。
十五分。
だんだん、自分が見積りに来たのか、散歩に来たのか分からなくなってきた。
仕方がない。
近所の方に聞いてみよう。
私は一軒のお宅のインターホンを押した。
夕方の忙しい時間帯に、見知らぬ男が訪ねてくる。
それだけでも警戒される。
しかも私は、作業着姿。
職業によっては頼もしく見えるが、特殊清掃員の場合は職業を説明するだけで空気が変わることがある。
玄関から年配の男性が顔を出した。
「はい?」
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが。」
「○○さんのお宅をご存じでしょうか?」
その瞬間だった。
男性の表情が、ピタリと止まった。
まるで時間が止まったように。
さっきまで普通だった空気が、一瞬で変わる。
「ああ……知ってますけど。」
少し間を置いて、
「……○○さんの家へ行くんですか?」
そう聞き返してきた。
その声色は、「道を教えてほしい」という質問に対するものではなかった。
「本当に行くの?」
そう確認している声だった。
私は心の中で思った。
(あ、これは何かある。)
特殊清掃員を長くやっていると、人の表情で何となく分かることがある。
驚き方にも種類があるのだ。
「あそこ、遠いですよ。」
という驚き。
「あそこ、分かりにくいですよ。」
という驚き。
そして、
「あそこへ行くんですか……。」
という、説明しにくい種類の驚き。
経験上、一番嫌なのは最後である。
私は平静を装いながら答えた。
「ええ。ちょっと場所が分からなくて。」
男性は少し黙ったあと、ゆっくりと道順を説明してくれた。
聞けば、やはり車では入れないらしい。
最後に私は頭を下げた。
「ありがとうございました。助かりました。」
すると男性は、なぜか真顔でこう言った。
「……気を付けて行ってきてくださいね。」
その言葉だけ妙に重かった。
普通なら、
「お気を付けて。」
で終わる。
しかし、その人はまるで戦場へ送り出すような顔をしていた。
私は車へ戻りながら苦笑した。
「そんなに大げさな。」
そう思った。
この時は、まだ。
その数十分後、自分が暗闇の雑木林で猫の大群に囲まれ、人違いで命を狙われそうになるとは、想像すらしていなかったのである。
ナビが諦めた家と、猫たちの歓迎会
近所の方から教えてもらった道順は、およそ現代のカーナビが想定しているものではなかった。
「この先を右に行って……細い道を抜けて……墓地の横を通って……その奥です。」
最後の「その奥です」が妙に気になった。
“奥”にもいろいろある。
公園の奥。
神社の奥。
住宅街の奥。
しかし、相手の表情を見る限り、どうも明るい「奥」ではない。
車をゆっくり進める。
舗装された道路は、やがて細い道になり、その細い道はさらに細くなった。
「この先、本当に車で行けるのか?」
と思った頃には、もう車一台がやっと通れる幅しかない。
さらに進むと、とうとう道が終わった。
いや、正確には道路としては終わっていないのだろう。
しかし、私の愛車にとっては「ここから先は自己責任です」という世界だった。
仕方なく空き地らしき場所へ車を停める。
時計を見る。
もう日が沈みかけている。
「……歩くか。」
特殊清掃員の仕事は、いろいろな意味で「徒歩」が多い。
ゴミ屋敷では玄関までたどり着くのに徒歩。
山奥の空き家でも徒歩。
エレベーターなし五階でも徒歩。
そして今回は、目的地そのものが徒歩。
しかも仕事はまだ始まってすらいない。
「見積りだけなのに、なんでこんな冒険イベントになってるんだ……。」
ひとりで愚痴をこぼしながら懐中電灯を取り出した。
この仕事を始めてから、車には常に懐中電灯を積んでいる。
孤独死現場は昼間でも電気が止められていることが多いし、夕方以降の出動も珍しくない。
だから懐中電灯は必需品だ。
ただ、この日は別の意味でも必要になるとは思っていなかった。
歩き始める。
街灯は一本もない。
住宅街の明かりはとうに背中の向こうへ消え、辺りは急に静かになった。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
なぜ人は、暗い場所では自分の足音まで怖く感じるのだろう。
昼間なら何でもない音なのに、夜になると「誰かが後ろを歩いている音」に聞こえてしまう。
人間の脳は、本当にサービス精神が旺盛である。
余計な演出ばかりしてくれる。
しばらく歩くと、懐中電灯の光の先に石碑が見えた。
「あ。」
墓地だ。
聞いてはいた。
聞いてはいたが、実際に見ると話は違う。
私は霊感というものを持ち合わせていない。
だから幽霊も見えない。
……見えないはずである。
しかし、人間という生き物は不思議なもので、「何もいない」と分かっていても怖いものは怖い。
特殊清掃員だからといって、ホラー映画を見ても笑っていられるわけではない。
むしろ仕事柄、余計な想像力だけは豊かになってしまう。
「もし今、肩をポンと叩かれたら。」
「もし後ろで咳払いが聞こえたら。」
「もし『おーい』なんて声がしたら。」
考えれば考えるほど、自分で自分を追い込んでいく。
私は無意識に歩く速度を上げた。
墓地を通過した瞬間だけは、たぶんオリンピック選手並みのタイムだったと思う。
ようやく雑木林を抜ける。
そこで、ぽつんと一軒の古い家が見えた。
「あれか……。」
思わず立ち止まった。
正直に言えば、「家」というより「長年放置された建物」と言った方がしっくりくる。
屋根は色あせ、外壁は傷み、庭は雑草が伸び放題。
人が住んでいる気配は、まるで感じられない。
依頼内容を思い出す。
『鍵は開いているから、勝手に入って見積りしてください。』
……いや。
この家に勝手に入るのは、かなり勇気がいる。
私は深呼吸を一つして懐中電灯を家へ向けた。
その瞬間だった。
キラッ。
キラッ。
キラキラキラキラッ。
光った。
何十個もの光が、一斉に。
「うわっ!」
思わず一歩後ずさる。
懐中電灯を少し動かす。
また光る。
さらに動かす。
まだ光る。
「あれ……?」
目を凝らしてみる。
すると、その正体が分かった。
全部、猫だった。
一匹。
二匹。
三匹……
いや、そんな数ではない。
二十匹。
三十匹。
いや、もっといたかもしれない。
猫、猫、猫。
庭にも。
縁側にも。
塀の上にも。
屋根の端にも。
とにかく猫だらけ。
しかも全員、こちらを見ている。
誰一匹として鳴かない。
逃げない。
近づいても動かない。
ただ、顔だけこちらへ向けている。
懐中電灯の光を受けた目だけが、暗闇の中で無数に光っていた。
これが昼間だったら、
「猫がいっぱいだ!」
で終わる。
しかし夜の雑木林で見ると、まるで別の生き物である。
私は猫は好きだ。
一匹なら可愛い。
二匹でも可愛い。
五匹でも癒やされる。
だが三十匹になると、可愛いを通り越して圧力になる。
猫好きの皆さんには申し訳ないが、この時ばかりは「猫カフェ」ではなく「猫会議」にしか見えなかった。
しかも議題は、おそらく私である。
『知らない人間が来た。』
『どうする?』
『囲む?』
そんな相談をしているようにしか見えない。
私は真剣に考えた。
「もし全員が一斉に飛びかかってきたら……。」
人間、一匹の猫には勝てる。
たぶん。
二匹でも何とかなる。
しかし三十匹。
しかも暗闇。
しかも逃げ場なし。
特殊清掃の資格はあっても、猫三十匹との集団戦は講習を受けていない。
「帰ろうかな……。」
人生で何度目かの「今日はもう帰ろう」が頭をよぎった。
だが、ここまで来て帰れば、また来なければならない。
それも嫌だ。
私は猫たちの視線を浴びながら、一歩ずつ家へ近づいていった。
この時の私は、特殊清掃員というより、不法侵入をためらう泥棒の方が近かったかもしれない。
そして、この家の本当の恐怖は、まだ玄関の向こうに待っていたのである。
借金取りと間違われた特殊清掃員
猫たちの無言の歓迎を受けながら、私は恐る恐る家の前までたどり着いた。
近くで見ると、昼間でも決して「きれいな家」とは言えないだろう。
外壁はところどころ剥がれ、窓ガラスは汚れ、庭木は好き放題に伸びている。
家というより、「長年、人の時間が止まった場所」だった。
それでも依頼者は、
「鍵は開いているから。」
と言っていた。
ということは、どこかに玄関があるはずだ。
……あるはずなのだが、これが見つからない。
家の周囲をぐるりと歩いてみる。
玄関らしい場所が見当たらない。
裏へ回る。
やっぱり分からない。
「昔の忍者屋敷じゃあるまいし……。」
思わず独り言が漏れる。
今なら笑って話せるが、その時は本気で焦っていた。
暗闇。
雑木林。
街灯なし。
猫三十匹。
そして入口不明。
これだけ条件がそろうと、人間は冷静な判断力を失う。
「……帰るか。」
その日二度目の「帰ろうかな」が頭をよぎる。
仕事より命。
そう考えるのは、ごく自然なことだ。
しかも、この家が本当に孤独死現場だったらどうだろう。
玄関を開けた瞬間、腐敗臭が吹き出してくるかもしれない。
中にはウジやハエが大量発生しているかもしれない。
それくらいの現場は、これまでにも何度も経験してきた。
経験しているからこそ、余計に想像できてしまう。
特殊清掃員という仕事は、慣れることはあっても、鈍感にはなれない。
むしろ経験を積むほど、「嫌な予感」の的中率だけは上がっていく。
私は懐中電灯を片手に、もう一度家の周囲を歩き始めた。
その瞬間だった。
ガラッ!!
突然、家の中から勢いよく扉が開いた。
「うわっ!」
心臓が一気に喉まで飛び上がる。
暗闇の中から、一人の中年男性が飛び出してきた。
あまりの勢いに、私は本気で腰が抜けそうになった。
映画ならここで悲鳴を上げる場面である。
しかし現実の私は、声すら出なかった。
男性は私を見るなり怒鳴った。
「また来やがったな!」
え?
「帰れ!」
「もう金なんかねぇ!」
「何回来ても払えねぇって言ってるだろ!」
……誰?
いや、違う。
誰じゃない。
完全に人違いである。
私は慌てて両手を上げた。
「ち、違います!」
しかし男性は聞いていない。
「警察でも何でも呼べ!」
「勝手にしろ!」
「もう終わりなんだよ!」
怒鳴る。
怒鳴る。
とにかく怒鳴る。
私は説明しようとする。
「特殊清掃の――」
「うるさい!」
「話を――」
「帰れ!」
会話が成立しない。
今だから言える。
この時の私は、腐乱死体より怖かった。
相手は生きている。
しかも興奮している。
これが一番危ない。
昼間の街中なら、人もいる。
助けを呼べる。
しかし今いるのは、街灯もない雑木林の中。
周りには猫三十匹。
そして怒鳴る男性。
助けを呼んでも、来るのは猫くらいだ。
男性は今にも飛びかかってきそうな勢いだった。
私は反射的に後ろへ下がる。
足元に木の枝が落ちていた。
無意識だった。
本当に無意識に、その枝を拾っていた。
映画なら「武器を手にした」と聞こえるかもしれない。
しかし現実は違う。
拾ったのは、雨ざらしになった細い棒切れ一本。
正直、あれで戦えと言われても、自信はない。
せいぜい、
「ちょっと待ってください!」
と指し棒代わりに使える程度である。
それでも人間は、不安になると何か握っていたくなるものらしい。
棒を持ったところで安心できるわけではない。
でも、素手よりは気持ちが違う。
私は棒を持ちながら考えていた。
「頼むから落ち着いてくれ……。」
「頼むから殴りかかってこないでくれ……。」
「頼むから猫まで参戦しないでくれ……。」
頭の中では、そんなことばかりだった。
数分だったのか。
十分くらいだったのか。
時間の感覚はない。
やがて男性の怒鳴り声が少しずつ小さくなってきた。
呼吸も落ち着き始める。
ようやく私の話を聞く余裕ができたらしい。
「……お前、取り立てじゃないのか?」
「違います。」
「借金取りじゃない?」
「違います。」
「本当に?」
「本当に違います。」
私はようやく名刺を取り出した。
懐中電灯で照らしながら渡す。
男性はしばらく黙って名刺を見つめた。
「……特殊清掃?」
「はい。」
「そんな仕事があるのか。」
「あります。」
「……。」
沈黙。
長い沈黙だった。
そして男性は、小さく息をついて言った。
「悪かった。」
その一言で、ようやく私も肩の力が抜けた。
心の中では、
「いや、本当に勘弁してください。」
である。
しかし、この一件で終わりではなかった。
男性はぽつりぽつりと、自分のことを話し始めた。
仕事がないこと。
お金がないこと。
借金だけが増えていくこと。
毎日のように督促が来ること。
そして最後に、力なく笑って言った。
「もう俺は……死ぬしかないんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、さっきまでの恐怖とは別の重たい空気が、暗い雑木林を包み込んだ。
私は手に持っていた棒切れを、そっと足元へ置いた。





