特殊清掃「ハグ 」を更新いたしました。
ハグ
今から25年以上も前の話である。
当時、私はある不動産会社から、ちょくちょく仕事を依頼されていた。
担当者とは、それまでにも何度か一緒に仕事をしたことがあり、顔も知っている。もちろん、親友というほどではないが、初対面で「どちら様ですか?」と名刺を見せ合うような間柄でもない。
そんな、いわば「仕事上の知り合い」から、ある日、少し変わった依頼が来た。
「ちょっと立ち会ってほしい部屋があるんですけど……」
話を聞くと、現場は少し古いマンション。
近隣住民から、
「異臭がする」
という苦情が入ったらしい。
不動産業界で長年仕事をしている人間にとって、「部屋から異臭がする」という話は、決して珍しいものではない。
もちろん、世の中にはいろいろな異臭がある。
排水管が原因だったり、ゴミが溜まっていたり、冷蔵庫の中身を長期間放置していたり。
しかし、もっとイヤなパターンがある。
「腐乱死体」か「ゴミ屋敷」。
だいたい、この二つが頭に浮かぶ。
特に、近隣の人から、
「何日も前から変な臭いがする」
「最近、臭いが強くなってきた」
などと言われた場合には、こちらも自然と身構える。
そして今回の話を聞いたとき、担当者もどうやら、
「これは……そっちじゃないか」
と判断したらしい。
そこで、
「ドアを開錠するので、立ち会ってもらえませんか?」
という依頼になった。
私は現場へ向かった。
マンションに到着すると、建物自体もそれなりに年季が入っていた。
廊下を歩いていると、まだ部屋の前に着いていないのに、鼻が先に状況を教えてくれた。
「ああ……これは、たぶん間違いないな」
腐敗臭。
あの臭いは、言葉で説明するのが難しい。
生ゴミが腐った臭いとも違う。
魚が腐った臭いとも違う。
何か一つの臭いではなく、いろいろな「イヤなもの」を濃縮して煮詰めたような臭いである。
鼻だけでなく、頭の奥まで入り込んでくる。
「ああ、これは普通じゃない」
そう思った。
私はいつものように手袋を着けた。
こういう現場では、何があるか分からない。
念のため、ドアの周辺を確認する。
そのときだった。
ドアの縁が、妙に湿っていることに気がついた。
「ん?」
よく見ると、ドアの隙間に何かがいる。
目を凝らす。
小さい白いものが、かすかに動いている。
ウジだった。
「……いるな」
見なかったことにしたいところだが、職業柄、そうもいかない。
私はしばらくドアの隙間を眺めた。
ウジは、こちらの気持ちなど知ったことではないという顔で、せっせと動いている。
いや、顔はないのだが。
このとき、私は妙な予感がした。
「遺体は玄関の近くにあるな」
臭いの強さ、ドア周辺の状態、そしてウジ。
どう考えても、遺体は部屋の奥ではない。
玄関から近いところにある可能性が高い。
そこで、私は鍵を持っていた不動産屋の担当者に言った。
「ちょっと待ってください。私が最初に開けるのは、やめておいたほうがいいと思います」
「え?」
「もし、私が先に開錠して、何かあった場合、あとから『誰が最初に開けた』という話になったら面倒です。法的な問題になる可能性もありますから」
今考えると、ずいぶん立派なことを言っている。
だが、本音を言えば、もっと単純だった。
「なんかイヤな予感がする」
これである。
私は鍵を担当者に返した。
「不動産屋さんが開けたほうがいいですよ」
すると担当者は、
「あ、そうですかぁ……」
と言った。
声には、少しばかり不満が混じっていた。
まあ、当然かもしれない。
私だけが手袋をしている。
担当者からすれば、
「なんで俺は素手なのに、この人は手袋してるんだ?」
ということだったのだろう。
たぶん、部屋の中がどうなっているかという恐怖より、
「この人、俺に何をやらせようとしてるんだ?」
という疑問のほうが大きかったのではないかと思う。
渋々、担当者が鍵を受け取った。
そして、鍵を差し込んだ。
ガチャリ。
鍵が回る。
ドアが少し開いた。
その瞬間だった。
ドサッ!
いや、正確には「ドサッ」というより、
「ドンッ!」
だったかもしれない。
ドアを開けた担当者の目の前に、何かが倒れ込んできた。
それは、人間だった。
腐乱した遺体だった。
しかも、まるで担当者に抱きつくように、覆いかぶさってきた。
「ぎゃーっ!!!!!」
担当者が叫んだ。
そして、そのまま倒れ込んだ。
遺体は、その上に乗っている。
私は、
「ウワ~ッ!!」
と叫んだ。
そして後ずさった。
このときばかりは、頭の中が完全に真っ白になった。
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
ただ、目の前に、
「人が倒れていて、その上に腐乱死体が乗っている」
という、とんでもない光景がある。
映画なら、ここでカメラが引いて、不気味な音楽でも流れるところだ。
しかし現実には音楽など流れない。
流れるのは、
「ぎゃーっ!」
という担当者の声と、
「ウワ~ッ!」
という私の声だけである。
しかも私は、幽霊や怪奇現象にはそれほど興味がない。
仕事として現場に来ただけなのだ。
まさか、死体のほうからこちらへ「いらっしゃいませ」とばかりに飛び出してくるとは思わなかった。
あとから分かったことだが、遺体は玄関ドアの金具に紐を掛け、首を吊った状態だった。
そのまま時間が経過し、腐敗が進んでいた。
だから、ドアを開けた瞬間、遺体が担当者に覆いかぶさるように倒れてきたのである。
つまり、私の予想は半分当たっていた。
「遺体は玄関の近くにある」
これは正しかった。
ただし、
「玄関の近くにある」
どころではなかった。
「玄関を開けた人間に抱きついてくる」
だった。
そこまでのサービスは、頼んでいない。
担当者は床に倒れたまま、
「うわぁ……」
とも、
「助けてくれ……」
ともつかない、言葉にならない声を出している。
目の前には腐乱死体。
その下には担当者。
そして私は、その二人を見ている。
誰がどう見ても、悲惨な状況である。
「まず警察だ」
頭では分かっている。
本来なら、すぐに通報しなければならない。
ところが当の本人は、それどころではない。
「先に俺を助けてくれ!」
という状態だった。
そりゃそうだ。
自分の上に腐乱した遺体が乗っているのである。
「警察を呼びますから、ちょっと待ってください」
などと言われても、
「ちょっと待ってください」と言われて待てる状況ではない。
こちらも慌てながら、とにかく遺体を押し退ける。
そして警察へ連絡した。
その後は、できる範囲で担当者の身体を清拭した。
消毒剤を使い、汚れを落とす。
服には腐敗液がべっとり付いている。
手もひどい。
特に、咄嗟に遺体を押し退けた手は、まるで自分自身が腐乱死体になったかのようだった。
本人も完全に放心状態である。
着ていた服を脱いでもらい、私は持っていた予備の作業服を貸した。
まさか仕事に来て、作業服を貸すことになるとは思わなかった。
まして、その用途が、
「腐乱死体に抱きつかれた不動産屋さんの着替え」
になるとは。
人生、何が起こるか分からない。
やがて、近隣の住民も集まり始めた。
当然である。
廊下で人が倒れていて、異臭がして、警察まで呼ばれれば、何事かと思う。
マンションの廊下は、あっという間に騒然となった。
しばらくして警察が到着。
ここから先は、警察にバトンタッチして、私たちはその場を離れた。
帰り道、私は何度も考えた。
「もし、あのまま自分が鍵を開けていたら……」
考えただけで、ゾッとする。
たぶん、あの遺体は私に向かって倒れてきた。
そして、私が担当者と同じような目に遭っていた。
いや、それだけならまだいい。
私は最初から手袋をしていた。
担当者より多少はマシだったかもしれない。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。
何より怖かったのは、
「自分が一歩踏み出していたら、この状況が自分の身に起きていた」
ということだった。
ほんの少しの判断の違い。
ほんの少しの「まあ、いいか」。
それだけで、人生の記憶に一生消えない一ページが追加されるところだった。
私は普段、ウジを見れば、
「うわ、気持ち悪い」
と思っている。
仕事柄、ウジに遭遇することもある。
見つければ処理する。
掃除する。
消毒する。
場合によっては、かなり邪魔な存在である。
しかし、この日だけは違った。
ドアの隙間から、かすかに姿を見せていたあのウジ。
あいつがいなければ、私はそのまま鍵を開けていたかもしれない。
つまり、あの日、私を救ったのは警察でもなければ、特殊な勘でもなかった。
もっと小さな存在だった。
ウジである。
世間では「虫の知らせ」という言葉がある。
嫌なことが起きる前に、何となく胸騒ぎがする。
何かを予感する。
そういう意味だ。
しかし私の場合は、
「虫の知らせ」
というより、
「ウジの知らせ」
だった。
あの小さなウジが、
「おい、ちょっと待て」
と、ドアの隙間から教えてくれていたのかもしれない。
もちろん、ウジにそんな意思があったとは思っていない。
彼らは彼らで、ただ自分たちの仕事をしていただけだろう。
私を助けようと思っていたわけでもない。
まして、
「この人が開錠したら危ない!」
などと会議を開いていたわけでもない。
それでも結果として、私は助かった。
だから、今でもあの日のことを思い出すと、少し複雑な気持ちになる。
ウジは普段、私にとって「片付ける対象」でしかない。
ところが、あの日だけは違った。
あの小さな白い連中が、私の人生最大級の「巻き込まれ事故」を一つ、未然に防いでくれた。
もちろん、だからといって、今後ウジを見つけたら、
「おお、久しぶり! 元気だったか?」
と握手を求めるつもりはない。
できれば、会いたくない。
できれば、仕事でも会わずに済ませたい。
それでも、あの日だけは感謝している。
25年以上経った今でも、あのドアを思い出す。
そして、あのときドアの隙間にいたウジを思い出す。
もし、あいつらがいなかったら。
もし、私がそのまま鍵を開けていたら。
そう考えると、今でも背筋が寒くなる。
だから、少しくらいは感謝しておこうと思う。
いつもなら、見つけた瞬間に、
「またお前らか!」
と嫌がっている私を、あの日だけは助けてくれた。
いや、正確には、助けたつもりなど毛頭なかっただろう。
ただ、そこにいただけだ。
それでもいい。
結果的に、私には十分すぎるほどの「知らせ」だった。
あの日、私を救ったのは、鋭い洞察力でもなければ、長年の経験でもない。
ドアの隙間から、ちょろちょろ動いていた小さな虫だった。
だから最後に、ひと言だけ言わせてもらいたい。
ウジさん。
いつもアナタを虐めている私を、あの日だけは助けてくれて、本当にどうもありがとう。
ただし……。
次に現場で会ったときは、やっぱり容赦なく消毒します。
そこは仕事ですから。





