特殊清掃「夢」を更新いたしました。
夢
「悪夢にうなされるようなことはないのか?」
そんな類いの質問を、読者からチラホラいただくことがある。
仕事柄、死や遺体に関わる仕事をしているので、さぞかし夜な夜な魘されているのではないかと思われるらしい。
「寝ている間に遺体が起き上がってきたりしませんか?」
「夢の中でも仕事してたりしないんですか?」
「死者に追いかけられたりとか……」
いやいや、そんなに夢の中まで働き者ではない。
むしろ私は、仕事がらみの夢をあまり見ない。
というか、ほとんど見ない。
仕事が終わったら仕事のことは忘れる。
これは夢以前に、起きている間もかなり重要な能力だと思っている。
四六時中仕事のことを考えていたら、脳ミソが過労死してしまう。
そして、脳ミソの葬儀を自分でやるという、かなり面倒なことになる。
そんな私でも、仕事に関係する夢をまったく見ないわけではない。
かなり前のことになるが、覚醒してからもしばらく後味の悪さが残った夢がある。
今回は、その夢の話。
古めの一戸建てだった。
どこか薄暗く、生活感の残った家。
私はそこで、亡くなった老婆に死後処置を施していた。
遺族も一緒に立ち会っている。
夢の中でも、遺族の雰囲気というのは現実とそう大きく変わらない。
悲しそうな顔。
沈んだ声。
必要以上に会話をしない。
時々、誰かが老婆の顔を見つめる。
「おばあちゃん……」
そんな空気に包まれていた。
私も淡々と作業を進めていた。
ところが、作業をしているうちに、何となく妙な感じがした。
身体に、まだ温かさが残っているような気がする。
「……あれ?」
もちろん、亡くなったばかりであれば身体に温かさが残っていること自体は不思議ではない。
だから、その時点では特に気にも留めなかった。
ところが、作業を進めていると、
「今、動いたような……」
そんな気がした。
気のせいだろう。
そう思って、さらに作業を続けた。
すると今度は、かすかに呼吸をしているように感じる。
「…………?」
さすがに変だ。
私は老婆の口元に耳を近づけた。
すると――
かすかながら、しかし明らかに呼吸をしている。
「生きてる!」
そう思った瞬間、老婆の身体が少し動いた。
体温も戻ってきている。
なんと老婆は、生き返ったのである。
夢とは実に便利だ。
医学的な説明など一切必要ない。
死んだ人が突然生き返る。
夢の中では、それだけで十分成立する。
私は一気に興奮状態になった。
急いで口や鼻に詰めた綿を取り出す。
「おばあさん、生き返りましたよ!」
遺族にも声を掛ける。
「早く救急車を呼んでください!」
私は完全にテンションが上がっていた。
死者の蘇生。
しかも自分がその現場に立ち会っている。
これは大事件だ。
奇跡だ。
人間の生命力とはすごい。
私は老婆が生き返ったことを心から喜んでいた。
ところが――
遺族は、救急車を呼ばない。
誰も喜ばない。
むしろ、何やら身内同士でヒソヒソ話を始めた。
「いや、だから早く救急車を……」
私が促しても、誰も動かない。
そして、よく見ると遺族の顔が妙なのだ。
悲しそうなのではない。
驚いているわけでもない。
喜んでいるわけでもない。
なんというか……
困っている。
ものすごく困っている。
「…………?」
私はそこで初めて気がついた。
どうも私と遺族では、この出来事に対する受け止め方がまったく違う。
私は、
「生き返った! 助けなきゃ!」
である。
遺族は、
「……生き返っちゃった」
なのである。
この「ちゃった」の違いは大きい。
私の中では祝福すべき奇跡。
遺族にとっては、想定外の再開。
まるで、せっかく片付けた部屋をもう一度散らかされたような顔をしている。
もちろん、現実にはそんな単純な話ではない。
その時の私は夢の中なので、そこまで深く考える余裕もなく、
「なんて冷酷な遺族なんだ!」
と思ってしまった。
「さっきまで、あんなに悲しんでいたじゃないか!」
「おばあさんが生き返ったんだぞ!」
「なぜ喜ばないんだ!」
私は一人で勝手に興奮し、一人で勝手に感動し、一人で勝手に遺族に失望していた。
そして、その温度差に気づいた途端、急に恥ずかしくなってきた。
さっきまで、
「奇跡だ!」
などと大騒ぎしていた自分が、なんだか場違いな人間に思えてきた。
「……俺、何を喜んでいるんだ?」
そんな気持ちになったところで目が覚めた。
目覚めた後もしばらく嫌な感じが残った。
当時の私は、この夢の遺族に「人間の本性」を見てしまったような気がしていた。
人間というものは、身内が死んだら悲しむ。
しかし、その人が生き返ったからといって、必ずしも喜ぶとは限らない。
なんだか嫌なものを見た。
そんな後味だった。
ところが、今になって改めて思い出してみると、少し違う見方もできる。
ひょっとすると、遺族には遺族にしか分からない事情があったのではないか。
介護。
看病。
長年にわたる人間関係。
家族間の確執。
経済的な問題。
本人と家族の間にあった、外からは見えない事情。
あるいは、亡くなるまでの長い闘病生活。
「死んでしまって悲しい」と「もう一度生きてほしい」は、必ずしも同じ方向を向いているとは限らない。
愛情があるからこそ、死を受け入れたいということだってある。
生きていることが、本人にとっても家族にとっても苦痛になっていた場合だってある。
もちろん、これは夢の話なので、実際に遺族が何を考えていたのかなんて分からない。
というか、そもそも老婆が生き返っている時点で、かなりの部分が分からない。
夢に現実的な整合性を求めるほうが間違っている。
「おばあさん蘇生しました!」
「はい、では救急車を」
という普通の展開になっていたら、そもそも悪夢になっていない。
しかし、そこにあった「私と遺族の温度差」については、妙に現実的だった。
私は老婆が生き返ったことを喜んだ。
だが、それは私がその後の責任を負う人間ではないからだ。
生き返った。
良かった。
助かった。
めでたい。
そう思うだけなら簡単である。
しかし、実際にその後の介護をするのは誰なのか。
病院に連れて行くのは誰なのか。
生活を支えるのは誰なのか。
家族関係はどうなるのか。
経済的な負担はどうなるのか。
そういう現実的な問題を背負っているのは遺族である。
私は、ただ「命が助かった」という一点だけを見て喜んでいた。
言ってしまえば、無責任な喜びである。
生命が戻ったことを喜ぶのは、人間の生存本能として当然なのかもしれない。
でも、それと「その人が生きることを現実に引き受ける」という話は別なのだ。
そのことを考えると、あの夢の中で一番単純だったのは、実は私のほうだったのかもしれない。
「他人の不幸は蜜の味」
イヤな言葉である。
しかし、嫌な言葉だからこそ、人間の一面をよく突いているとも思う。
他人の不幸を喜ぶ。
そこまで露骨ではなくても、他人の失敗を見て少し安心する。
誰かが自分より不幸だと知って、ほんの少しホッとする。
逆に、誰かの成功を心から喜べない。
「おめでとう」と言いながら、心の片隅で、
「でも、まあ、俺のほうが……」
などと思っている。
私自身、思い当たる節がいくらでもある。
いや、いくらでもあるどころか、探せばいくらでも出てくる。
人間というのは、思っているほど立派ではない。
少なくとも私はそうだ。
だから、「私は他人の喜びも悲しみも自分のことのように感じられる、心優しい人間です」などとは、あまり思わないようにしている。
そんな立派な人間ではないからだ。
赤の他人の悲しみを、本当の意味で共有するなんて、そもそも難しい。
もちろん、悲しそうな人を見れば気の毒だと思う。
家族を亡くした人を見れば、つらいだろうと思う。
できることがあれば手助けしたいとも思う。
でも、それは「その人とまったく同じ悲しみを感じる」ということではない。
当たり前だ。
その人の人生を生きてきたわけではないのだから。
だから私は、遺族に対して必要以上の感情移入をしないようにしている。
冷たいと言われれば、そうかもしれない。
ビジネスライクだと言われれば、その通りかもしれない。
プロっぽく見えることもあるかもしれない。
だが、私自身としては、それが「義」であり「礼」なのだと思っている。
悲しんでいる人の前で、こちらまで悲しみの主人公になってはいけない。
遺族より悲しそうな顔をしてみせる必要もない。
「分かりますよ、つらいですよね」などと、分かったような顔をする必要もない。
分からないものは分からない。
だからこそ、せめて自分の仕事をきちんとする。
それが私にできる、もっともまともな礼儀なのだと思う。
感情移入しすぎて仕事がおろそかになるくらいなら、多少冷たく見られたほうがいい。
人間性を疑われるくらいで、ちょうどいいのかもしれない。
……いや、これは少し言い過ぎか。
本当に人間性まで疑われたら、普通に傷つく。
私もそこまでメンタルが強いわけではない。
ところで最近、少し困ったことがある。
くだらないジョークが思いつかない。
以前なら、仕事とはまったく関係のない、どうでもいいことを思いついては、一人でニヤニヤしていた。
「こんなくだらないことを考えている自分、けっこう好きだな」
などと思っていた。
ところが最近は、どうも頭の回転が鈍い。
梅雨のせいで脳ミソにカビでも生えたのか。
それとも仕事疲れで、脳内CPUが省電力モードに入ったのか。
以前なら、
「これは使える!」
と思ったくだらないネタが、最近は、
「……別に使わなくてもいいな」
で終わってしまう。
そもそも、思いつかない。
これは由々しき事態である。
仕事に関しては、ちゃんと考えられればそれでいい。
むしろ余計なことを考えず、淡々と仕事をしたほうがいい。
しかし、どうでもいいことを考える能力まで失ってしまうと、それはそれで寂しい。
くだらないことを思いついて、一人で笑う。
誰かに話して、
「くだらねぇ!」
と言われる。
それでも自分は、
「だろ?」
と嬉しそうにしている。
そういう、人生に何の役にも立たない時間が私は好きなのだ。
役に立たないからこそ、いい。
人間、何でも意味がなければならないとなると、かなり疲れる。
笑いだって、別に誰かを救わなくていい。
人生を変えなくていい。
教訓を与えなくていい。
ただ、
「くだらねぇな」
と笑ってもらえれば、それで十分だ。
そんなささやかな笑いを提供できる、粋な男でありたい。
……まあ、「粋な男」と自分で言っている時点で、かなり粋ではない気もする。
自己申告ほど信用できないものはない。
「私は善人です」
も信用できない。
「私は粋な男です」
も、かなり怪しい。
「私は他人の悲しみを完全に理解できます」
に至っては、私自身が一番信用しない。
だからせめて、
「私はくだらないことで笑える、くだらない男です」
くらいにはしておきたい。
これなら、かなり自信を持って言える。
今回の夢も、当時は嫌な夢だった。
人間の冷たさを見せつけられたようで、目覚めた後もしばらく気分が悪かった。
しかし今考えてみれば、あの夢が教えてくれたのは、人間の冷たさだけではない。
人間には、人には見えない事情がある。
他人には理解できない事情を抱えながら、それでも生きている。
だから、簡単に善悪を決めつけない。
簡単に「冷たい人だ」と決めつけない。
そして、自分のほうも「私は人の気持ちが分かる人間だ」などと思い上がらない。
分からないものは分からない。
分からないからこそ、余計なことをせず、自分にできることをする。
私にとっては、それが仕事における「義」であり「礼」なのだと思う。
……などと、最後だけ少し立派なことを書いてしまった。
いけない。
こういうことを書くと、急に善人っぽくなる。
危ない危ない。
私は善人ではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
ただ、くだらないことで笑っていられる人間ではいたい。
最近、その「くだらない」がなかなか出てこないのが困りものなのだ。
脳ミソのカビ取りでもしてみようか。
いや、そんなことをしたら、今度は本当に何も思いつかなくなるかもしれない。
それ以前に、脳ミソにカビ取り剤を使っていいのかどうかも知らない。
……まあ、たぶんダメだろう。
そんなことを考えているくらいだから、まだ大丈夫なのかもしれない。
くだらないことを考えられるうちは、脳ミソも完全には死んでいない。
老婆は夢の中で生き返った。
私の脳ミソも、そろそろ生き返ってくれないものだろうか。
できれば救急車を呼ぶほどの大騒ぎにはならない程度に。
そして、できればまた、
「くだらねぇな」
と笑えるような夢を見たい。
悪夢より、くだらない夢のほうが、私にはずっと似合っているような気がする。





