特殊清掃「パートナー」を更新いたしました。
パートナー
ある老年男性。
妻の葬儀のため、一時退院してきた夫は、何も言われなくても「病弱なのだ」と分かる人だった。
痩せ細った身体は、誰かの介助がなければ部屋を移動することもままならない。歩くというより、周囲の人に身体を預けながら、どうにか足を運んでいるような状態だった。
本来なら、とても一時退院できるような身体ではなかったらしい。
それでも、どうしても帰りたいと病院に無理を言ったという。
「長年連れ添った妻の葬儀だから」
そう言われれば、病院側も「ダメです」とは言いにくかったのだろう。
長い人生を共にした伴侶との最後の別れなのだから、たとえ身体が限界に近づいていたとしても、その場にいたいと思うのは不思議なことではない。
夫は弱々しい身体とは裏腹に、力のこもった声で、妻の亡骸に何度も声を掛けていた。
「ありがとう」
「ありがとう」
そして、
「もうじき、そっちに行くから待っていてくれ」
と。
もちろん、これは私が少し作為的に脚色している。
実際の出来事をそのまま文章にすると、もっと淡々としていて、もっと生活感のある場面だったのかもしれない。
それでも、あのときの二人を思い出すと、長い年月を一緒に生きてきた老夫婦が、人生の最後にもう一度だけ、お互いの存在を確かめ合っているように見えた。
何十年も一緒に暮らしていれば、若い頃のような「愛している」「大好きだ」なんて言葉は、そうそう口にしなくなる。
むしろ、
「メシは?」
「薬飲んだ?」
「電気消して」
「また靴下脱ぎっぱなし!」
……そんな会話のほうが圧倒的に多くなる。
ロマンチックとは程遠い。
しかし、そういうくだらない会話を何十年も積み重ねてきたことそのものが、夫婦の歴史なのだと思う。
だからこそ、「ありがとう」という一言には、若い頃にはなかった重みがあったのかもしれない。
そして、その一週間後。
私は同じ家に行くことになった。
現場に到着するまで、先週訪れた家だとは気づいていなかった。
玄関前まで来て、
「ん? この家……先週来たばかりじゃないか?」
と、ようやく気づいた。
念のため会社に確認した。
「ここで間違いないですよね?」
「間違いないです」
そう言われた。
玄関を開けながら、
「まさか……あのお爺さんが?」
と思った。
そして、その予感は当たった。
亡くなったのは、やはり、あのお爺さんだった。
不謹慎かもしれないが、私はそれほど驚かなかった。
むしろ、
「ああ……やっぱり」
という感じだった。
遺族に何と声を掛ければいいのか分からない。
前回訪問したときと比べると、自然に言葉数も少なくなった。
向こうも、私に何を話せばいいのか分からない様子だった。
「この前はどうも」
とも言えない。
「大変でしたね」
だけでも足りない。
「残念でしたね」と言うのも、どこか他人行儀な気がする。
結局、たいした会話はしなかった。
でも、それでよかったのだと思う。
既に顔見知りになっていた者同士だからこそ、無理に言葉を探す必要はなかった。
沈黙にも、言葉と同じように意味がある。
後から聞いた話では、お爺さんは葬儀が終わるとすぐに病院へ戻ったものの、その後、体調を一気に崩したという。
そして、妻の後を追うように亡くなった。
「もうじき、そっちに行くから」
あのときの言葉は、結果的に現実のものとなった。
もちろん、人の死を簡単に「後を追った」と説明することはできない。
医学的には、いろいろな事情があったのだろう。
でも、少なくとも本人の心の中では、妻との別れを境に何かが一区切りついていたのではないか。
死ぬことを望んでいた、という意味ではない。
長い人生を一緒に生きてきた相手を見送り、
「自分の役目も、そろそろ終わりなのかな」
そんな気持ちになっていたのかもしれない。
帰り道、
「お爺さんは、天国でお婆さんと再会できただろうか……」
と、しみじみ考えたのを覚えている。
天国が本当にあるのかどうか、私には分からない。
そもそも、死んだ後に何があるのかなんて、生きている人間には確認のしようがない。
だからこれは、事実というより、私の勝手な願いなのだろう。
「ちゃんと会えているといいな」
そう思った。
もう一人、忘れられないお婆さんがいる。
夫の亡骸に添い寝をしていた。
最初は家族も止めていたらしい。
「もう寝ないで」
「身体を離して」
「風邪ひくよ」
……そんなふうに言っていたのだろう。
ところが、いくら止めても、家族が目を離すと、お婆さんはまた添い寝してしまう。
ついには家族も根負けした。
「もう、好きにさせてあげよう」
ということになったらしい。
正直、私も仕事はかなりやりにくかった。
遺体のそばにずっと人がいるわけだから、作業にも気を遣う。
こちらはこちらで仕事がある。
お婆さんはこちらはこちらで、夫から離れようとしない。
「どうしたものかな」
と思った。
でも、そのお婆さんの気持ちを考えれば考えるほど、私には遺体から引き離すことができなかった。
きっと、何十年も一緒に寝てきたのだ。
何十年もの間、隣にいた人が突然いなくなった。
頭では「死んだ」と理解していても、身体のほうが理解できないのかもしれない。
いつものように隣にいる。
いつもの布団がある。
いつもの場所に、いつもの人がいる。
ただ、もう動かない。
それだけが違う。
だから、最後くらい一緒に寝ていたかったのかもしれない。
この老夫婦も、長い長い年月を共に過ごしたのだろう。
子供たちも立派に育て上げ、それぞれがいい歳になっていた。
孫もたくさんいる。
家族だけを見れば、十分に人生を全うした夫婦だったのだと思う。
それでも、片方がいなくなると、残された側には大きな穴が開く。
家族がいても埋められない穴がある。
友人がいても埋められない穴がある。
財産があっても、趣味があっても、テレビを見ても、旅行に行っても、たぶん埋まらない。
私は自分では、死体に対する抵抗感は比較的少ない人間だと思っている。
仕事柄、普通の人よりは慣れている。
……とはいえ、亡くなった人と同じ布団で寝ろと言われたら、話は別だ。
そこにはさすがに抵抗がある。
だからこそ、
「お婆さんは、よっぽどお爺さんのことが好きだったんだろうな」
と思った。
微笑ましい。
でも、同時にものすごく寂しい。
遺族から、
「こんな調子じゃ、お婆さんも長くないかもな……」
という溜息が聞こえた。
その後、お婆さんがどんな人生を送ったのか、私は知らない。
ただ、あのときの姿だけは今でも覚えている。
一般的に考えれば、一生のうちで最も長い時間を共に過ごす相手は、親でも兄弟姉妹でもなく、夫婦、つまりパートナーなのだろう。
もちろん、結婚しない人もいるし、離婚する人もいる。
一人で生きる人もいる。
だから「夫婦が人生で最も大切」という話にするつもりはない。
人それぞれだ。
ただ、何十年という時間を同じ相手と過ごすというのは、それだけで相当なことだと思う。
恋愛感情だけでは、とても続かない。
若い頃なら、
「好きだから一緒にいる」
で済む。
しかし、十年、二十年、三十年……と経てば、そこには恋愛だけでは説明できないものが積み重なっていく。
一緒に病院へ行った。
一緒に子供を育てた。
一緒に家を買った。
一緒にローンを返した。
一緒に親を見送った。
一緒に老いていった。
楽しかったこともあれば、腹が立ったこともある。
「こいつさえいなければ……」
と思った夜も、一度や二度ではないかもしれない。
むしろ、何十年も一緒にいれば、そう思う日が一日もないほうが不自然だろう。
夫婦とは、そんな綺麗事だけではない。
愛情と憎しみ。
感謝と不満。
尊敬と呆れ。
いろいろなものを鍋に入れて、何十年も煮込んだような関係なのだと思う。
だから、「生まれ変わっても同じ相手と結婚したいですか?」なんて質問は、熟年夫婦にとっては少々酷な質問なのかもしれない。
「絶対イヤ!」
と言われても仕方がない(笑)。
現世で散々苦労したのだから、来世くらい別の人生を歩ませてくれ、という気持ちも分からなくはない。
逆に、
「もちろん、また一緒になりたい」
と言われたら、それはそれで羨ましい。
一番微妙なのは、
夫「YES!」
妻「NO!」
なのかもしれない。
これは来世で結婚する前に、まず現世で夫婦会議を開いたほうがいい(笑)。
もっとも、双方が「NO!」でも悪くない。
それも人生だ。
長く一緒に生きたからといって、最後まで仲良しでいなければならないわけでもない。
夫婦には夫婦にしか分からない事情がある。
外から見れば仲の良い夫婦でも、家の中では分からない。
逆に、外では文句ばかり言っている夫婦が、実は誰よりも強い絆で結ばれていることだってある。
だから、他人が簡単に「いい夫婦ですね」などと評価するものでもないのだろう。
ただ、それでも一つだけ思うことがある。
亡くなったパートナーには、天国に行ってほしい。
そして、もし本当に天国があるのなら、いつかそこで再会できたらいい。
そう願う人は、きっと少なくないのではないだろうか。
私の経験では、パートナーに先立たれた人の中には、
「生きているうちに、もっと相手のことを大切にすればよかった」
という後悔を口にする人が少なくなかった。
もっと優しくすればよかった。
もっと話を聞けばよかった。
もっと一緒に出掛ければよかった。
もっと「ありがとう」と言えばよかった。
もっと好きだと言えばよかった。
でも、生きていると、そんなことを考える余裕がない。
朝起きて、仕事へ行く。
お金を稼ぐ。
家賃や住宅ローンを払う。
子供を育てる。
親の面倒を見る。
税金を払い、保険料を払い、電気代を払い、スマホ代を払い……。
こうして書いてみると、人生というのは、ずいぶん「支払い」に忙しい(笑)。
そのうえ、人間関係にも気を遣う。
職場では嫌な人にも頭を下げる。
家に帰れば、家族の問題が待っている。
疲れていれば、パートナーに優しくするどころか、
「今それ言う?」
なんて言ってしまう。
そして翌朝になれば、また同じ一日が始まる。
そんな毎日を何年も繰り返しているうちに、「大切な人を大切にする」という、ものすごく単純なことを後回しにしてしまう。
別に愛していないわけではない。
むしろ、大切だからこそ安心してしまう。
「この人は明日もいる」
と思っている。
それが一番危ないのかもしれない。
明日もいる。
来年もいる。
十年後もいる。
そんな保証は、どこにもない。
あのお爺さんも、まさか妻の葬儀から一週間後に自分が亡くなるとは、周囲には思われていなかっただろう。
あのお婆さんも、隣で寝ている夫が突然いなくなる日が来るなんて、きっと考えたこともなかったはずだ。
私たちも同じだ。
今、隣にいる人がずっと隣にいるとは限らない。
だからといって、毎日神妙な顔で、
「もし明日死んだらどうしよう……」
などと考えながら生きる必要はない。
そんな人生では疲れてしまう。
大切なのは、たまに立ち止まることなのだと思う。
仕事を少し離れて。
スマホを置いて。
テレビを消して。
ほんの少しだけ小休止してみる。
そして、結婚したばかりの頃を思い出してみる。
あの頃、自分は相手のどこが好きだったのか。
何を一緒にしたかったのか。
なぜ、この人と人生を歩もうと思ったのか。
もちろん、思い出した結果、
「……なんで結婚したんだっけ?」
となっても、それはそれでいい(笑)。
そこから始めればいい。
今さら新婚時代のように手をつないで歩け、なんて言うつもりもない。
急に花束を買って帰ったら、
「何か悪いことした?」
と疑われる可能性だってある。
下手をすると、
「何を隠してるの?」
と、余計な捜査が始まるかもしれない。
だから、もっと小さなことでいい。
「ありがとう」と言う。
「お疲れさん」と声を掛ける。
相手の話を少しだけ聞く。
一緒に飯を食う。
くだらないことで笑う。
たまには相手の好きなものに付き合う。
そして、喧嘩したら、できればその日のうちに仲直りする。
……まあ、これは私自身にも言えることなのだけれど。
偉そうなことを書いているが、私だって完璧な人間ではない。
むしろ、「こうすればいい」と分かっていても、できないのが人間なのだろう。
だから、これは誰かへの説教ではない。
自分自身への確認でもある。
いつか、
「もっと大切にすればよかった」
と後悔しないために。
もし、今あなたの隣にパートナーがいるのなら、その人は「いて当たり前」の存在ではない。
長い人生の中で、たまたま同じ時代に生まれ、たまたま出会い、いろいろあった末に、今、同じ時間を生きている。
そう考えると、夫婦というのは結構すごい関係なのかもしれない。
好きになったり、嫌いになったり。
感謝したり、腹を立てたり。
笑ったり、泣いたり。
それでも、また翌朝には同じ家で顔を合わせる。
そんなことを何十年も続ける。
考えてみれば、壮大な共同生活である。
来世のことは分からない。
天国があるのかも分からない。
生まれ変わるのかどうかも分からない。
だから、「来世でも一緒になろう」なんて約束をする必要はないと思う。
それよりも、今ここにいる相手を、今の人生で少しだけ大切にする。
「ありがとう」と言えるうちに言う。
「好きだ」と思ったら、恥ずかしくても言ってみる。
……ただし、長年そんなことを言っていない夫が突然、
「愛してるよ」
などと言ったら、妻から病院を勧められる可能性もある。
その場合は、まずは
「今日の飯、うまかったよ」
くらいから始めるのが安全かもしれない(笑)。
いつか来る別れの日を恐れるのではなく、その日までの時間を少しだけ大切にする。
それだけでいいのだと思う。
そして人生の最後に、
「この人と一緒に生きてきて、まあ、悪くなかったな」
と思えたなら。
もし死んだ後に本当に再会できるのなら、
「また会ったな」
と笑えたなら。
それだけで十分なのではないだろうか。
「生まれ変わっても、また一緒になりたい」
そう思える夫婦になれたら、それはもちろん素敵だ。
でも、そこまで立派な夫婦でなくてもいい。
喧嘩もした。
文句も言った。
何度も腹を立てた。
それでも最後には、
「いろいろあったけど、一緒に生きてきたな」
と言える。
そんな関係でも十分に素敵だと思う。
だから、もし今、パートナーに対して少しだけ優しくできそうなら。
大げさなことをする必要はない。
「おはよう」
でもいい。
「お疲れさん」
でもいい。
「ありがとう」
なら、もっといい。
そして、もし少し勇気があるなら、
「これからもよろしく」
と言ってみる。
相手から、
「急にどうしたの?」
と怪しまれるかもしれない。
そのときは、
「いや、なんとなく」
でいい(笑)。
人生は、いつ何が起こるか分からない。
だからこそ、まだ言えるうちに言っておきたい。
まだ一緒に食事ができるうちに、一緒に笑っておきたい。
まだ隣にいるうちに、隣にいることのありがたさを、ほんの少しだけ感じておきたい。
いつか、どちらかが先に旅立つ。
そのとき残された人が、
「もっと愛しておけばよかった」
と後悔するのではなく、
「まあ、いろいろあったけど……一緒に生きてきてよかったな」
と思えたらいい。
そして、もし天国という場所が本当にあるのなら。
先に逝った人が、後から来るパートナーを見つけて、
「お、やっと来たか」
と笑って迎えてくれたらいい。
「待っていてくれ」
と言ったあのお爺さんと、
「もう、遅いわよ」
と言いながら待っているお婆さん。
そんな夫婦が天国のどこかにいるのだとしたら、それはそれで悪くない。
……ただし、向こうでも夫婦喧嘩をしている可能性は十分にある。
何十年も連れ添った二人なのだから、死んだからといって急に仲良しになる保証はない。
「あなた、また遅かったじゃない!」
「いや、病院にいたから……」
なんて言いながら、結局また一緒に歩いている。
私は、そんな二人のほうが、なんだか夫婦らしくていいような気がする。





