特殊清掃「雷」を更新いたしました。
雷
空は夏から秋へと変わりつつある。
日中はまだ暑さが残っているものの、朝晩は少しずつ過ごしやすくなってきた。吹く風にも、ほんの少し秋の気配が混じっている。
とはいえ、季節の変わり目というのは、なかなか素直ではない。
夏は夏で「まだ帰りたくない」と粘り、秋は秋で「そろそろ交代してください」と遠慮がちに迫っている。まるで土俵の上で、夏と秋が押し相撲をしているようなものだ。
そんな時季は大気も不安定になる。
あちこちで雷が鳴り、突然の雨が降る。落雷によって命を落とす人もいるのだから、雷は決して侮れない。特に、朝の雷には注意が必要だとも聞く。
夏が秋に寄り切られるまでは、しばらくこんな空模様が続くのだろう。
ところで、世の中には空から落ちてくる雷だけではなく、人間が落とすべき雷というものもある。
最近は、そんな雷の必要性を感じることが少なくない。
ある家で、故人の遺体処置をしていたときのこと。
遺族の中に、二十歳前後と思われる男性が二人いた。
二人は私の作業を遠巻きに、もの珍しそうに眺めながら話をしていた。
周囲は静かだった。
その分、二人の話し声はよく響く。本人たちが思っている以上に、周りの人間には聞こえていたはずだ。
いや、聞こえていたはずというより、聞こえないほうが難しい。
「お前、仕事を探してんだろ? この仕事やったら?」
「ふざけんなよぉ、やれるわけねぇだろ!」
「それにしても、よくやるよなぁ」
「だよなぁ」
……なるほど。
どうやら私の仕事は、彼らにとって、できれば関わりたくない仕事らしい。
もちろん、仕事に対する好き嫌いや向き不向きは人それぞれだ。遺体を扱う仕事に抵抗を感じる人がいても、それ自体を責めるつもりはない。
実際、私だって、どんな仕事でも喜んでできるわけではない。世の中には「その仕事はちょっと勘弁してほしい」と思うものがいくつもある。
人間なのだから、苦手なものくらいあって当然だ。
ただ、思うことと、それを口に出すことは別の話である。
しかも、そこは故人を囲んで遺族が集まっている場所だ。
親族の誰かが亡くなり、悲しみや戸惑いを抱えながら過ごしている人もいる。その中で、故人の身体を前にして作業している人間を、面白半分に眺めながら聞こえよがしに話す。
これでは、仕事への感想というより、場所と状況を考える想像力が少々お休みになっていると言わざるを得ない。
もっとも、想像力というものは、充電式なのかもしれない。
若い二人は、まだ充電器を見つけていなかったようだ。
私は聞こえていないふりをして、作業を続けた。
遺族の中には、二人の親と思われる人もいた。
また、ほかの遺族たちも、当然ながら二人の会話に気づいていた。
私は誰とも目を合わせないようにしながら、さりげなく周囲の様子をうかがった。
気まずそうに下を向いている人。
隣の人とヒソヒソ話をしている人。
ニヤニヤしながら、隣の人とつつき合っている人。
そして、何も聞こえていないかのように振る舞っている人。
反応はさまざまだった。
おそらく、ほとんどの人が、あの二人の言動を快く思ってはいなかったのだろう。
実際、遺族の誰かが親らしき人に合図を送っていた。
「子供たちを何とかしてくれ」
言葉にはしなくても、そんな意味だったのではないかと思う。
ところが、合図を受けた親は困ったような顔をするばかりで、子供たちを制止しようとはしなかった。
注意するのが面倒だったのか。
周囲に迷惑をかけていることに気づいていなかったのか。
それとも、普段からあのような調子で、今さら何を言っても無駄だと思っていたのか。
本当のところは分からない。
親にも親の事情があるのだろうし、私が見たわずかな場面だけで、その親子のすべてを判断するつもりもない。
ただ、その場に漂っていた気まずさだけは、はっきりと感じ取れた。
故人の死を悼む空気が薄れ、誰もが気持ちの置きどころを失っている。
誰かが注意すれば済む話なのに、誰もがその役目を避けている。
二人の若者が好き勝手に話し、その周囲にいる大人たちが、そろって「聞こえていません」という芝居を演じている。
何とも不思議な光景だった。
しかも、舞台の中央にいる二人だけが、自分たちの演技が周囲に丸見えであることに気づいていない。
いや、演技ですらないのかもしれない。
本人たちは普通に会話をしているだけなのだから。
だとすれば、なおさら困った話である。
このような場面には、これまでにも何度か遭遇してきた。
そのたびに、いろいろなことを考えさせられる。
不快に感じることもあれば、悲しくなることもある。時には腹が立つことだってある。
そして、今回の場合は、残念な気持ちになった。
若い二人の発言については、正直なところ、それほど気にならなかった。
この仕事をしていれば、好奇の目で見られることもあるし、心ない言葉を聞くこともある。
人が何を好み、何を嫌うかは自由だ。
私自身だって、誰かの仕事を見て「自分には無理だな」と思うことはある。
立派な人間のような顔をして、他人の言動を批判できるほど、私はできた人間ではない。
自分の中にも、いろいろな葛藤や矛盾がある。
人に偉そうなことを言えるほど、毎日きちんと生きているわけでもない。
だからこそ、若者二人の言葉だけを取り上げて、最近の若者はどうだとか、今どきの若い者は礼儀を知らないとか、そんな大きな話にするつもりはない。
若者の無作法を嘆くのは簡単だ。
しかし、若者が無作法なら、大人は全員お手本になれているのだろうか。
そこが問題なのである。
今回、私が残念に思ったのは、若者二人の陰に隠れて、モジモジしている大人たちの姿だった。
言いたいことがあるのに言えない大人。
言うべきことを言わず、言わなくてもいいことを言う大人。
その場の空気が悪くなるのを恐れて、必要な一言を飲み込んでしまう大人。
そして、目の前で起きていることを見なかったことにして、何事もなかったかのようにやり過ごそうとする大人。
もちろん、何でもかんでも口を出せばいいというものではない。
世の中には、黙っていたほうがいい場面もあるし、あえて見守ることが必要な場合もある。
相手の事情を知らずに正義を振りかざせば、ただの迷惑な人になることだってある。
私だって、いつも正しい判断ができるわけではない。
しかし、明らかに誰かが困っている場面で、周囲の人間が全員そろって知らん顔をするのは、少し違うのではないだろうか。
その場にいた大人たちは、若者二人に何かを教える機会を、知らず知らずのうちに手放していたように思う。
注意をすることが正解だったかどうかは分からない。
ただ、何もしないことが必ずしも大人の対応とは限らないのである。
礼儀やマナーというと、堅苦しいもの、古くさいもの、あるいは人に気に入られるための作法だと思われることがある。
頭を下げる。
挨拶をする。
言葉遣いに気をつける。
場に応じた振る舞いをする。
確かに、こうしたことには面倒くさい部分もある。
相手によって態度を変えなければならない場面もあるし、納得できない相手にまで愛想よくしなければならないこともある。
「どうして、こんなことまで気を遣わなければならないのか」
そう思う気持ちも分からなくはない。
しかし、礼儀やマナーは、単に相手に媚びるためのものではない。
自分と相手が、無用なトラブルを起こさずに過ごすための知恵でもある。
つまり、礼儀・マナーと世渡りのテクニックは、案外、相関するものなのだ。
例えば、取引先の人に失礼なことを言えば、仕事がやりにくくなるかもしれない。
店員に横柄な態度を取れば、相手に嫌な思いをさせるだけでなく、自分自身も周囲から敬遠されるかもしれない。
葬儀の場で不適切な発言をすれば、遺族や親族との関係に、余計なわだかまりを残すこともあるだろう。
もちろん、礼儀正しくしていれば何でもうまくいく、というほど世の中は甘くない。
礼儀正しい人が損をすることもあれば、無礼な人が得をしているように見えることもある。
世の中は、道徳の教科書ほど分かりやすくできていない。
それでも、相手の立場やその場の状況を考えて振る舞うことは、自分自身を守ることにもつながる。
ところが、多くの人は礼儀と世渡りを相反するもののように考えているのではないだろうか。
本音を言うことが正直さであり、気を遣うことは偽善だ。
相手に遠慮しないことが自分らしさであり、場の空気を読むことは窮屈さだ。
そんなふうに考えてしまう。
しかし、本音をすべて口に出すことと、正直に生きることは同じではない。
思ったことを何でも言う人は、正直者というより、単に発言の後始末を考えていないだけかもしれない。
包丁だって、食材を切るために使えば便利だが、振り回せば危ない。
言葉も同じだ。
使い方によっては人を助けるし、使い方によっては人を傷つける。
しかも、包丁なら危険だと分かりやすいが、言葉は本人が刃物を振り回している自覚すらない場合がある。
なかなか厄介な道具である。
今回の親子を見ていて、もう一つ気になったことがある。
それは、親子の関係についてだ。
近頃は、親と子が友達のような関係であることを、好ましいものとして捉える風潮があるように感じる。
親子で何でも話せる。
親に何でも相談できる。
親子で冗談を言い合い、気兼ねなく過ごせる。
それ自体は、決して悪いことではない。
むしろ、親子の間に信頼関係があり、子供が安心して本音を話せるのは、素晴らしいことだと思う。
ただし、仲がいいことと、上下のけじめがないことは別の話である。
友達のように話せる関係と、親が親としての役割を放棄してしまうことも違う。
私は、親子関係には、やはり一定の縦の関係が必要だと思っている。
ここでいう縦の関係とは、親が偉くて子供は黙って従え、という意味ではない。
親の言うことは何でも正しい、という話でもない。
親だって間違えるし、子供のほうが正しいこともある。
年齢を重ねたからといって、人格まで自動的に立派になるわけではないのだから、そこは勘違いしてはいけない。
ただ、親には子供を育て、社会の中で生きていくために必要なことを教える責任がある。
子供が間違ったことをしたときには、間違っていると伝える。
人に迷惑をかけたときには、相手の立場を考えさせる。
自分の言動に責任を持つことを教える。
それは、子供に嫌われないために親が避けて通れる仕事ではない。
親は子供の機嫌を取る係ではないのである。
もちろん、子供を力ずくで従わせればいいというものでもない。
恐怖で支配すれば、子供は表面上だけ従い、親の目が届かないところで別の顔を見せるようになるかもしれない。
大切なのは、厳しさと信頼の両方を持つことだと思う。
普段は一緒に笑い、冗談を言い合う。
しかし、いけないことはいけないと伝える。
子供の言い分にも耳を傾ける。
それでも必要な場面では、親として譲らない。
そういう関係があってもいいのではないだろうか。
親と子が友達のように仲良くするのは結構なことだ。
ただ、友達のように仲がいいからといって、親が親であることまでやめてしまっては困る。
親子の距離が近いことと、親子の役割が曖昧になることは、似ているようで違うのだ。
では、親は子供に何を教えればいいのだろう。
勉強ができることか。
いい学校に入ることか。
いい会社に就職することか。
もちろん、それらも人生の選択肢を広げるための大切な要素ではある。
しかし、どれほど勉強ができても、どれほど仕事ができても、他人への配慮がまったくなければ、周囲と気持ちよく付き合っていくのは難しい。
反対に、勉強が得意でなくても、相手の立場を考え、自分の言動に責任を持てる人は、いろいろな場所で信頼を得られるだろう。
だからこそ、礼儀やマナー、人への接し方を教えることは、親の大切な役割の一つだと思う。
ただし、しつけとは、子供を親の思いどおりに動かすことではない。
親の顔色をうかがい、怒られないように行動する子供を育てることでもない。
自分で考え、相手の気持ちや周囲の状況を想像し、必要なときには自分の行動を修正できるようにすること。
それが、しつけの大切な目的ではないだろうか。
今回の若者二人も、誰かから「そんなことを言うな」と注意されれば、その場では黙ったかもしれない。
しかし、ただ怒られて黙ることと、自分の言動が周囲にどんな影響を与えたかを理解することは違う。
本当に身につけてほしいのは、誰かに監視されているから礼儀正しくすることではない。
誰も見ていなくても、ここではこう振る舞うべきだと考えられることだ。
そして、それを教えるのは、学校や社会だけではない。
家庭での何気ない会話や、親自身の日頃の振る舞いも、大きな意味を持っている。
子供に「人には優しくしなさい」と言いながら、親が店員に横柄な態度を取っていたら、子供はどちらを手本にするだろう。
「人の悪口を言ってはいけない」と教えながら、家では誰かの悪口ばかり言っていたら、説得力はどこにあるのだろう。
子供は、親の言葉だけではなく、親の行動もよく見ている。
親の言うことを聞かせる前に、親自身が自分の言動を振り返る必要もある。
……などと偉そうに書いている私自身も、胸を張ってお手本になれるかと聞かれれば、少々困る。
自分のことは棚に上げて、他人の棚卸しばかりしていては、いずれ棚が足りなくなる。
だからこそ、これは他人に向けた説教というより、自分自身への戒めでもある。
人は、頭の中で何を考えようと自由だ。
腹の中で誰を苦手に思おうと、どんな仕事を嫌おうと、それを無理やり変えさせることはできない。
私だって、聖人君子ではない。
人に言えないようなことを考える日もあるし、できれば関わりたくないと思う相手だっている。
立派なことを書きながら、翌日には自分で書いた文章に反する行動を取っているかもしれない。
人間とは、なかなか一貫性のない生き物である。
ただ、頭の中で思うことと、実際に口に出すことには違いがある。
さらに、その言葉が相手に聞こえれば、もう単なる独り言では済まなくなる。
陰で言っているつもりでも、相手に聞こえてしまえば、それは陰口ではない。
本人が聞いていないと思っているだけの、公開発言である。
言葉が暴力になることもある。
だからといって、何でもかんでも口に出すな、いつでも周囲に気を遣え、と言いたいわけではない。
人間関係では、言うべきことを言わなければならない場面もある。
間違っていることを間違っていると伝える必要もある。
誰かが傷つけられているなら、黙って見過ごさないことも大切だ。
つまり、必要なのは、ただ口を閉じることではない。
言わなくていいことは控え、言うべきことは適切に伝える。
その区別を考えることなのだと思う。
ところが、今回の現場では、言わなくてもいいことを若者二人が口にし、言うべきかもしれないことを大人たちが飲み込んでいた。
何とも皮肉な光景である。
若者たちには、周囲への想像力が足りなかったのかもしれない。
大人たちには、必要な場面で一歩踏み出す勇気が足りなかったのかもしれない。
もちろん、あの場にいた人たちの事情を、私がすべて知っているわけではない。
誰かを責めて気持ちよくなりたいわけでもない。
ただ、あの気まずい空気を思い返すと、やはり考えてしまう。
親は子供に何を教えるのか。
大人は若者に何を示すのか。
そして、自分はその場にいたら、どう振る舞えただろうか。
もしかしたら、私だって何も言えず、聞こえないふりをしていたかもしれない。
そう考えると、あまり偉そうなことも言えないのだが。
それでも、こんな社会には、時には雷が必要なのではないかと思う。
もちろん、本物の雷ではない。
誰かに落雷してもらっては困る。感電は勘弁していただきたいし、家電製品も壊れてしまう。
必要なのは、間違ったことを間違っていると伝える雷だ。
人に迷惑をかけたら、きちんと注意する。
子供が無礼な振る舞いをしたら、親がその場で教える。
大人同士でも、必要なときには勇気を持って声をかける。
そんな当たり前のことを、当たり前にできる社会であってほしいと思う。
昔は、ちょっとしたことでも雷を落とす大人がいた。
近所の怖いおじさん、口うるさいおばさん、何かあるとすぐに注意してくる雷親父。
今の感覚では、余計なお世話だと感じることもあるだろう。
実際、理不尽に怒鳴るだけの人もいたし、年長者という立場を利用して威張る人もいた。
昔の雷親父が、全員立派だったなどと言うつもりはない。
雷だって、落とす場所を間違えればただの災害である。
だからこそ、必要なのは、むやみに怒鳴り散らす雷親父ではない。
普段は穏やかでも、いざというときには筋を通す。
相手を言い負かすためではなく、相手がこれから困らないように、必要なことを伝える。
そんな雷親父なのだと思う。
そして、雷を落とす側にも覚悟が必要だ。
自分は何を言ってもいいが、若者には礼儀を求める。
自分の無礼は冗談で済ませ、他人の無礼は許さない。
そんな都合のいい雷親父では、誰も耳を貸さないだろう。
雷を落とす前に、自分の頭の上にも避雷針を立てておく必要がある。
私も、まずはそこから始めなければならない。
夏と秋が押し相撲をしているような、季節の変わり目。
空模様が不安定になり、突然、雷が鳴る。
自然の世界では、季節が入れ替わるために、こうした不安定な時期があるのだろう。
人間の社会も、もしかしたら同じなのかもしれない。
昔ながらの厳しさが薄れ、新しい価値観が広がっていく。
親子関係も、人との付き合い方も、時代とともに変わっていく。
その変化には、良い面もあれば、そうでない面もある。
昔に戻ればすべて解決するわけではないし、新しいものなら何でも正しいわけでもない。
大切なのは、何を残し、何を変えていくのかを考えることだと思う。
親子の仲がいいのは結構。
子供の自主性を尊重するのも結構。
他人の価値観を頭ごなしに否定しないことも大切だ。
ただ、それらを理由に、必要な注意まで避けてしまうのは違うのではないだろうか。
優しさと甘やかしは違う。
厳しさと冷たさも違う。
自由と無責任も違う。
似ているようで違うものを、きちんと区別すること。
それもまた、大人が身につけておくべき礼儀であり、社会を生きていくための知恵なのだと思う。
あの日、私は故人の遺体を前に、いつもどおりの作業を続けていた。
若者二人の言葉よりも、周囲の大人たちが何も言わずにいる姿が、妙に心に残った。
あの二人がこれからどんな大人になっていくのか、私には分からない。
親たちが普段、どんなふうに子供と接しているのかも分からない。
だから、あの一場面だけですべてを決めつけるつもりはない。
ただ、あの場に必要だったのは、誰かを罵倒することでも、若者をさらし者にすることでもなかったはずだ。
ほんの一言、「ここでは、そういう話はやめなさい」。
それだけで、場の空気は変わったかもしれない。
大げさな説教も、長々とした人生訓も必要なかった。
必要なときに、必要なことを、きちんと伝える。
それができる大人が、もう少しいてもいいのではないだろうか。
さて、夏と秋の押し相撲は、いつになったら決着がつくのだろう。
そろそろ秋に軍配が上がってもよさそうなものだが、夏もなかなかしぶとい。
人間社会のほうも、もう少しすっきりした決着を見たいところである。
とはいえ、私自身も立派な人間になりきれているわけではない。
偉そうに雷親父の必要性を説いておきながら、自分が雷を落とすべき場面で、聞こえないふりをしてしまう可能性だってある。
だから、この話は他人への注文であると同時に、自分への注文でもある。
人に礼儀を求めるなら、自分も礼儀を忘れない。
子供に注意するなら、大人も自分を振り返る。
言うべきことを言うなら、相手を傷つけるためではなく、少しでも良い方向へ向かうために言う。
そんなことを、私自身も忘れずにいたいと思う。
そして、いつかまた、どこかで雷を落とすべき場面に出くわしたなら。
できれば、怒鳴り声ではなく、相手の心にちゃんと届く一言を落としたい。
もっとも、相手にまったく響かなかった場合は、どうしたものか。
そのときは、昔ながらの雷親父に登場してもらうしかないのかもしれない。
腹の底から響き渡る、デカいやつを一発。
ただし、落とす前には、こちらも一応、自分の頭の上を確認しておこう。
自分のほうに避雷針が立っていなければ、雷を落としたつもりが、自分に直撃することだってあるのだから。
夏が秋に寄り切られるまで、もうしばらくは不安定な空模様が続きそうだ。
人間社会にも、時には雷が必要なのだと思う。
もちろん、誰かを傷つけるための雷ではない。
自分も含めて、少しばかり目を覚ますための雷である。
さて、今日の私は、ちゃんと雷を落とせる大人だろうか。
それとも、落とすべき雷を胸の中にため込んだまま、また聞こえないふりをしてしまうのだろうか。
……どうやら、私の頭上にも、まだまだ不安定な空模様が広がっているようである。





