特殊清掃「苦々しい」を更新いたしました。
苦々しい
人が亡くなる現場に立ち会う仕事をしていると、悲しみについて考えさせられることが多い。
ただ、いつも崇高なことを考えているわけではない。
むしろ、仕事をしている最中は「きれいにしなければ」「ここも処置しなければ」「このままではご家族に顔向けできない」と、かなり現実的なことばかり考えている。
だから、あとになって振り返ると、自分の中にある感情の俗っぽさに苦笑することがある。
今回の話も、そんな「苦々しい」記憶の一つである。
ある若者が、マンションから身を投げて亡くなった。
高いところから落下したため、途中の構造物に衝突し、周囲にも大きな痕跡が残っていた。
血液などが乾いてしまうと、簡単には落ちない。
しかも、汚れた場所が高い壁や手の届きにくい場所だったりすると、作業は一気に難しくなる。
私は仕事だから、やるしかない。
けれど、そこに住んでいた人からすれば、何の関係もない自分の家が、ある日突然、見ず知らずの人の最期の痕跡で汚されてしまったわけである。
それを考えると、なんとも気の毒になる。
そして、こんな現場に遭遇するたびに、私は心の中で、
「せめて自分の家の中だけで完結させてくれればいいのにな」
などと思ってしまう。
亡くなった人を責めるような考えだ。
もちろん、そんなことを口にするつもりはない。
でも、人間というのは、どこまでも立派ではいられない。
悲惨な現場に直面していても、頭の片隅には「この壁、どうやってきれいにしよう」という、ものすごく現実的な問題が浮かんでくる。
それが仕事というものなのかもしれない。
遺体の損傷も大きかった。
私は、できる限り外見を整えるように処置をした。
もちろん、元通りにできるわけではない。
それでも、ご家族が最後に対面したとき、「少しでも穏やかな姿であってほしい」と思う。
頭部に大きな損傷がある場合などは、できる範囲で整え、包帯などで処置する。
決して特別なことではない。
同じような状況では、同じような処置をする。
淡々と仕事をするしかない。
そこに至るまでに、本人が何を考えていたのか。
なぜそんな選択をしたのか。
私には分からない。
分からないまま、ただ目の前の仕事をする。
それが自分の役割だからだ。
ご遺族は泣いていた。
当然である。
そんな中、遺族の男性が突然、感情を爆発させた。
「バカタレが!」
そう叫びながら、故人に手を上げたのである。
あまりにも突然だったので、最初の一度は止めることができなかった。
二度目になりそうなところで、さすがに私も間に入った。
男性の怒りは尋常ではなかった。
悲しみ、悔しさ、怒り、後悔。
いろいろな感情が、ひとつの塊になっていたのだと思う。
周囲のご家族は誰も止めなかった。
男性の気持ちを理解していたのかもしれない。
それとも、あまりの出来事に、どうしていいか分からなかったのかもしれない。
私には分からない。
ただ、私はその男性を止めた。
「せっかく処置したのだから、もう触らないでください」
そんな意味のことを伝えたと思う。
今になって考えると、なんとも自分らしい。
「故人の尊厳を守らなければ」
という立派な理由だけではなかった。
せっかく整えたものを、もう一度崩されたら困る。
また処置し直さなければならない。
自分の仕事が増える。
もちろん、ご家族の前でそんなことを言えるはずはない。
けれど、自分の心の中では、そんな現実的な計算も確かにあった。
人間は、どんな場面でも聖人にはなれない。
悲しみの前でも、仕事は仕事。
そして私は、どこまでも仕事人間だった。
そのことが、少し苦々しかった。
もう一つ、忘れられないご家族がいる。
ある中年男性が亡くなった。
ご自宅へ伺うと、奥さんがいた。
ところが、その女性が妙に明るい。
よく喋る。
元気である。
あまりに普段通りなので、私は少し戸惑った。
人が亡くなった直後なのだから、もう少し沈んでいても不思議ではない。
もちろん、人の悲しみ方に決まりなどない。
泣き崩れる人もいれば、黙り込む人もいる。
反対に、よく喋ることで自分を保つ人だっている。
頭では分かっている。
それでも、私には少し不思議だった。
話を聞くと、その女性は数年前に一人息子を亡くしていた。
そして今回、夫まで亡くした。
これで一人になってしまったのである。
「それは寂しいだろうな」
そう思う。
ところが、本人は驚くほど明るい。
「人が死んだからといって、わざわざ暗くする必要もない」
そんな考え方なのかもしれない。
あるいは、悲しみを悲しみのまま受け止めていたら、自分まで倒れてしまうから、あえて明るくしているのかもしれない。
その真相は分からない。
故人には一張羅のスーツを着せた。
最後くらいは、きちんとした格好で旅立ってもらおうということだろう。
そして、故人を柩に納めたところで、突然、
「あっ、忘れ物!」
と女性が叫んだ。
どうやら副葬品を入れたいらしい。
「ちょっと待ってください」
そう言って、部屋の中を探し始めた。
私は畳の上で待つことにした。
大切な物なのだろう。
急かす必要もない。
ところが、なかなか戻ってこない。
「あれぇ、おかしいなぁ」
「ないなぁ」
そんな声だけが聞こえてくる。
私は正座したまま待っていた。
五分。
十分。
だんだん足が痺れてくる。
人の死を前にして、さすがに「足が痛いな」と思うのもどうかと思ったが、身体というのは正直である。
悲しみとは関係なく、足は痺れる。
とうとう我慢できなくなり、私は立ち上がった。
立ち上がったついでに、女性へ声を掛けた。
「何を探しているんですか?」
すると女性は、まだ一生懸命に探していた。
結局、かなり時間をかけても見つからなかった。
そこで私は尋ねた。
「ところで、その物って、何なんですか?」
女性は答えた。
「息子が亡くなったとき、柩にスーツとワイシャツを入れてあげたんです。でも、ネクタイとベルトを入れるのを忘れてしまって。それで、せっかくだから、お父さんに持って行ってもらおうと思って」
私は一瞬、言葉を失った。
「せっかくだから」
夫を亡くした日に、その夫へ、亡くなった息子の忘れ物を持たせようとしている。
なんというか、すごい。
悲しみというものは、ときどき妙なところで生活感を見せる。
そして私は、さらに尋ねた。
「そのネクタイとベルトって、どんな物ですか?」
女性が特徴を説明した。
私は、その説明に心当たりがあった。
故人が身につけている物と、どうも一致する。
まさかと思い、私は控えめに故人を指した。
「あの……これじゃないですか?」
女性が故人を見る。
「あっ!」
そして、
「これ! これ! これ!」
と声を上げた。
さらに故人に向かって、
「お父さん、○○のを勝手に着けちゃダメじゃないの!」
と、まるで生前と同じようにツッコミを入れた。
私は、笑っていいのか、驚くべきなのか、判断に困った。
結局、女性と一緒に苦笑いするしかなかった。
なんとも不思議な光景だった。
でも、今思えば、その明るさが、その女性にとっての悲しみとの付き合い方だったのかもしれない。
息子を亡くした。
そして今度は夫を亡くした。
それでも、ネクタイとベルトを探し、見つけたと思ったら、
「お父さん、勝手に使っちゃダメ」
と叱る。
悲しみの中にも、いつもの夫婦の関係が残っていたのだろう。
もしかすると、それこそが、その女性にとっての「普通」だったのかもしれない。
私はその姿を見て、少しだけ救われたような気持ちになった。
……と言えば、きれいにまとまる。
ところが、私の頭に浮かんだのは、またしてもあまり立派ではない考えだった。
「お金って、人を変えることもあるよな」
そんな考えが、ふっと浮かんだ。
もちろん、根拠はない。
女性が何を考えていたのか、私には分からない。
生命保険があるのかないのか、それすら知らない。
それなのに、勝手にそんなことを考えてしまった。
我ながら、なんというひねくれ者だろうと思う。
人の悲しみを見て、
「きっと何か事情があるのだろう」
と素直に受け止めることもできず、余計な想像をしてしまう。
それもまた、自分の中にある「苦々しさ」なのだと思う。
人の死に立ち会う仕事をしていると、もっと人間的に、もっと優しく、もっと達観していくのかと思っていた。
実際には、そうでもない。
死を目の前にしても腹は減るし、足は痺れる。
きれいに処置したものを触られれば、「また仕事が増える」と思う。
遺族の悲しみを見ながらも、「この人は何を考えているんだろう」と余計なことを考える。
そして、ときには、笑っていいのか分からない場面で、一緒に苦笑いしてしまう。
それでも、仕事はする。
できる限りきれいにする。
できる限り穏やかな姿に整える。
ご家族が最後に顔を見るとき、少しでも後悔が少なくなるようにする。
それが私の仕事なのだと思う。
別に、立派な人間になる必要はない。
聖人になる必要もない。
自分の中にある冷たさや、俗っぽさや、意地の悪い想像を全部消すこともできない。
むしろ、そういうものがあるからこそ、自分が何をしているのかを見失わずに済むのかもしれない。
ただ、人の死を前にしたときくらいは、自分の心に浮かんだ「苦々しいこと」を、そのまま人にぶつけないようにしたい。
心の中で思うだけなら、まあいい。
足が痺れたら、痺れたと思えばいい。
仕事が増えると思ったなら、そう思えばいい。
ネクタイとベルトを見て、思わず苦笑いしてしまってもいい。
人間なのだから。
そして、最後に残るのは、案外そんな小さな感情なのかもしれない。
人の死は、とても大きな出来事だ。
けれど、その周りでは、ネクタイがどうとか、ベルトがどうとか、畳で足が痺れただとか、壁の汚れが落ちにくいだとか、そんな小さな現実が同時に動いている。
その現実から逃げずに、淡々と仕事をする。
悲しみを美談にしすぎず、故人を必要以上に神聖視もしない。
遺族を勝手に善人にも悪人にもしない。
ただ、その人たちがその人たちなりに死と向き合っている姿を見て、自分も自分なりに仕事をする。
それくらいでいいのだと思う。
そして今日も私は、自分の中にある、ちょっと冷たくて、ちょっと現実的で、ときどき意地の悪い部分を眺めながら思う。
――我ながら、苦々しい人間だな、と。
でも、その苦々しさを抱えたままでも、人の最後を少しでも整えることはできる。
だったら、まあ、それでいいのかもしれない。





