特殊清掃「ラブレター」を更新いたしました。
ラブレター
別れの柩に手紙を入れる人は多い。
故人に宛てたものがほとんどだろうが、すでにアノ世へ先立った人へ、言葉を託したものもあるのかもしれない。
生きている間には、照れ臭くて言えなかったこと。
毎日の生活に追われて、つい言いそびれてしまったこと。
「今さら言うのもなぁ」と、妙な意地を張ってしまったこと。
そんなものが、死という大きな区切りを前にすると、不思議なくらい素直な言葉になって出てくる。
「ありがとう」
「大好きだった」
「もっと話をすればよかった」
「ごめんなさい」
「本当は大切に思っていた」
普段なら、口にするだけで顔が赤くなりそうな言葉ばかりである。
そして、そんな場面に立ち会うたびに思う。
「できることなら、生きているうちに、そういう想いを伝えられればよかったのに……」
人間、一度死んでしまうと、かなり話が難しくなる。
電話をしても出ない。
LINEを送っても既読にならない。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」と思っても、もう聞けない。
当たり前の話なのだが、当たり前すぎることほど、普段は忘れている。
一緒に生きていられる時間には限りがある。
だから、本当は照れている場合じゃない。
……とは言うものの、私自身がそんなに立派に実践しているわけではない。
「感謝しているよ」なんて、家族に面と向かって言ったことがあるかと聞かれれば、かなり怪しい。
たぶん、言った記憶がない。
言おうと思ったことはある。
しかし、いざ本人を目の前にすると、
「……まあ、元気でいてくれ」
くらいになってしまう。
日本人の照れ性は、なかなか手強い。
その点、アメリカ人などを見ていると羨ましくなる。
「I love you!」
などと、映画では当たり前のように言っている。
こっちは「愛してる」どころか、「ありがとう」の一言を言うにも少し腰が引ける。
日本人にとって「臭い」と思われがちなセリフを、あれだけ堂々と言えるのはたいしたものだと思う。
もっとも、アメリカ人が全員あんなに情熱的なのかどうかは知らない。
映画を見て「アメリカ人はみんなこうなんだ」と思っているなら、私の国際理解も相当いい加減である。
私は、葬式にはイヤというほど関わっている。
しかし、結婚式には縁がない。
何年かに一度、誰かの結婚式に招かれるくらいだ。
葬式ばかり経験していると、結婚式がとても新鮮に感じる。
会場には花があり、笑顔があり、料理があり、写真を撮る人がいて、みんな妙に幸せそうな顔をしている。
普段なら他人の幸せを見て、多少なりとも嫉妬する私でさえ、結婚式のあの幸福感に満ちた空気は好きだ。
たぶん、人間というものは、他人の幸せを素直に喜べる瞬間が少しくらいあったほうがいい。
……できれば、結婚式場の外に出ても、その精神を維持していただきたい。
結婚式では、普段なら照れ臭くて言えないようなセリフが、これでもかというくらい登場する。
新郎が新婦に向かって愛を語る。
新婦が新郎に感謝を伝える。
そして、親に宛てた手紙を読む。
「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう」
ここで泣く。
本人も泣く。
親も泣く。
友人も泣く。
司会者も少し泣いているように見える。
会場全体が泣く。
私はこういう場面が嫌いではない。
むしろ好きだ。
「普段言えないことを、こういう機会に言う」というのは、とてもいいことだと思う。
ただ、少しだけ気になることもある。
結婚式が終わって数日もすると、いつものノリに戻る。
「お父さん、また勝手に冷蔵庫のもの食べたでしょ!」
「あなた、靴下そこに脱ぎっぱなしにしないで!」
「うるさい!」
「こっちがうるさい!」
……あの感動的な手紙は、いったいどこへ行ったのだろう。
あの日の涙は何だったのだろう。
結婚式当日のテンションと、三日後の生活との落差がすごい。
もちろん、それが悪いわけではない。
むしろ、そうやって喧嘩できること自体が、生きている証なのだろう。
人間は、毎日感謝しながら生きるほど聖人君子ではない。
好きな人ほど腹が立つ。
近い人ほど遠慮がなくなる。
愛しているからこそ、「なんで分かってくれないんだ」と思う。
だからこそ、結婚式の日だけではなく、普段の生活の中でも、ほんの少しだけ「あの日の気持ち」を思い出せればいいのだと思う。
心当たりのある人、結構いるでしょ?
私も含めて。
たまには照れを捨てて、大事な人に大事な想いを伝えてみたらいい。
口で言うのに抵抗があるなら、手紙でもいい。
今ならメールでもLINEでもいい。
昔の人からすれば、手紙を書くのに便箋を用意して、筆記具を探して、切手を貼って、郵便ポストまで行かなければならなかった。
今はスマホを取り出して、数秒で送れる。
便利になった。
便利になったのだが、便利になったぶん、なぜか人間は言葉を大事にしなくなったような気もする。
「了解」
「OK」
「笑」
「スタンプ」
これだけで会話が成立してしまう。
そのうち、
「ありがとう」
もスタンプ一個で済ませる時代になるのだろうか。
いや、もうなっている。
便利である。
非常に便利である。
私など、文章を打っている途中で漢字が出てこなくなると、スマホに助けてもらっている。
読める。
意味も分かる。
でも、書けない。
昔は「手紙を書く」と言った。
最近は「手紙を打つ」のほうが実感に近い。
そのうち「手紙を書く」という言葉そのものが、古典になったりするかもしれない。
そして百年後くらいに、
「昔の日本人は、紙というものに文字を書いていたらしい」
などと博物館の解説員に説明される。
「へえー。面倒くさそう」
……そう思われるかもしれない。
そんなことを考えていた頃、ある老婆が亡くなった。
子供は長女と長男の二人。
二人ともすでに中年になっていた。
それぞれの家族も集まり、遺族として葬儀の準備をしていた。
柩の中には、故人が大切にしていたものが少しずつ納められていた。
その中に、一枚の古ぼけた葉書があった。
長男は、その葉書を柩に納めるかどうか迷っていた。
長女もしきりに相談を受けていたが、なかなか決断できない。
二人とも、どうしたものかと迷っていた。
それは、六十余年前に亡き夫が故人宛に書いたものらしかった。
戦地から送られた手紙だった。
今なら国際郵便になるのだろう。
いや、当時はそんな便利な言葉で片付けられるものではなかったのかもしれない。
手紙を書いて、届ける。
それだけのことが、今とは比べものにならないほど遠い行為だったはずだ。
その手紙を出して間もなく、夫は戦死したらしい。
二人の子供たちはまだ幼く、父親の顔もはっきりとは覚えていないという。
私は、野次馬根性から、その手紙を読んでみたくなった。
正直に言えば、かなり興味があった。
「読ませてほしい」
と言うほど図々しくはなれなかったので、黙って作業の手だけを動かしていた。
すると、私の興味深そうな視線に気づいたのか。
それとも、柩に入れるべきかどうか、第三者の意見を聞きたかったのか。
長女が、
「見て下さい」
と言って、その葉書を渡してくれた。
受け取った小さな紙片には、六十余年という時間と、一人の人間の命の重みがあった。
紙は黄ばんでいた。
文字もかなりかすれていた。
文章として読むことは、ほとんどできなかった。
それでも、そこに残っている筆跡から、若い夫が一生懸命に文字を書いたことだけは感じられた。
聞けば、内容は遺書のようなニュアンスを含んだものだったという。
妻と子供たちのことを案じ、これからの生活を励ますような内容だったらしい。
私は、その場では黙って葉書を見つめていた。
今の時代に生まれ育った私には、戦地から家族へ手紙を書くということが、どれほどのことだったのか想像することすら難しい。
「人間はいつ死ぬか分からない」
「自分の死について考えておいたほうがいい」
そんなことを、私は普段から偉そうに言っている。
しかし、それは結局、死との間に適当な距離を置いているから言えるだけなのかもしれない。
明日死ぬかもしれない。
そう思いながらも、明日の朝飯のことを考えている。
死について語りながら、病院の検査結果にはビクビクする。
「いつ死んでもいい」
などと言いながら、電車に乗れば席が空いていることを期待する。
人間なんて、そんなものである。
死を達観しているつもりでも、実際に死が目の前まで迫ってきたら、たぶん私は相当うろたえる。
だからこそ、戦地にいる人間が、家族のことを思いながら書いた一枚の葉書を前にすると、自分の言葉の軽さを思い知らされる。
ただし、ここで戦争を美化するつもりはない。
兵士の仕事を賞賛したいわけでもない。
戦争によって、人が人を殺し、人が愛する人から引き離されることが、悲惨であることに変わりはない。
その悲惨な状況の中でも、人間が誰かを想う。
そのことだけを、私は考えたかった。
この夫は、どんな気持ちでこの手紙を書いたのだろう。
当時の戦況を考えれば、日本に生きて帰れないことを覚悟していたとしても不思議ではない。
妻に何を書けばいいのか。
子供たちに何を残せばいいのか。
「必ず帰る」と書いたのか。
「元気でいてくれ」と書いたのか。
あるいは、書きながら自分でも、もう二度と会えないかもしれないと思っていたのか。
そして、妻はその手紙をどんな気持ちで受け取ったのだろう。
夫の生還を祈りながら、それでも生きて再会できない可能性を、どこかで感じていたのかもしれない。
想像すると、言葉に詰まる。
私は最初、
「故人が六十余年も大事にしていた手紙なのだから、柩に入れてあげたほうがいいのではないか」
と、自分なりの考えを伝えた。
ところが、その後、故人の安らかな顔を見ているうちに、その考えが急にしっくりこなくなった。
そして、すぐに言葉を撤回した。
「天国で二人が再会しているのなら、もうこの手紙は必要ないのではないか」
「むしろ、この手紙がこの世に残った人の心の支えになるのなら、大事に持っておいたほうがいいのではないか」
そんなことを伝えた。
結局、その後の通夜や告別式で、二人の子供たちがその手紙を柩に納めたのかどうかは、私は知らない。
それでいいのだと思う。
正解がある話ではない。
手紙一枚をどうするか。
それは、そこに生きてきた家族にしか決められない。
ただ、私にはその葉書が、とても不思議な存在に思えた。
夫が戦地から送ったその手紙は、それまでは大事な妻のために生きていた。
そして妻が亡くなったあと、その手紙は今度は大事な子供たちのために生きることができる。
もし子供たちがその葉書を残しておけば、さらにその子供たちへと渡っていくかもしれない。
一枚の紙が、何十年もかけて人から人へ、記憶から記憶へ渡っていく。
書いた本人は、とっくにいない。
受け取った人も、もういない。
それでも、そこに残された文字には、書いた人の時間が残っている。
ひょっとすると、手紙というものは、相手に届いた瞬間に役目を終えるものではないのかもしれない。
何十年後か、あるいは何百年後かに、誰かがそれを読んだとき、もう一度だけ生き返る。
そう考えると、少しだけ不思議で、少しだけ温かい。
愛というものが本当にあるのかどうか、私にはよく分からない。
「愛とは何か」などと聞かれても、たぶん上手に答えられない。
だが、六十余年前に書かれた一枚の葉書を見ていると、少なくとも「誰かを想った時間」は、簡単には消えないのだと思う。
書き手の命が消えても、想いまで一緒に消えるとは限らない。
受け取る人がいるかぎり、記憶されるかぎり、言葉は残る。
そう考えると、手紙というのは、紙に書いたラブレターであると同時に、小さなタイムカプセルなのかもしれない。
だったら私も、たまには誰かに手紙を書いてみようかと思う。
「いつもありがとう」
くらいなら書けるかもしれない。
……いや、実際に便箋を前にしたら、たぶん十分くらい悩む。
「いつもお世話になっています」
から始めてしまうかもしれない。
それではラブレターではなく、取引先への挨拶状である。
「拝啓 春暖の候」
などと書き始めたら、もう完全に方向を間違えている。
それでもいい。
完璧な愛の言葉でなくてもいい。
気の利いた文章でなくてもいい。
誤字脱字があってもいい。
最近の私は、読めるけど書けない漢字が増えているから、いっそ全部ひらがなでもいい。
いや、ひらがなばかりだと、それはそれで幼稚園児のラブレターみたいになる。
それなら絵文字でもいい。
そのうち絵文字や顔文字が辞書に載るようになるかもしれない。
「🙂=相手に好意を持っているが、あまり重く受け取られたくないときに使用」
なんて国語辞典に載ったら、私はもうついていけない。
でも、時代がどう変わっても、「誰かに何かを伝えたい」という気持ちだけは、たぶん変わらない。
メールでもいい。
LINEでもいい。
手紙でもいい。
直接言ってもいい。
「ありがとう」
「元気でいてね」
「好きだよ」
「大切に思っているよ」
そんな言葉を、死んでからではなく、生きているうちに伝えられれば、それに越したことはない。
もちろん、毎日そんなことを言っていたら、今度は言われる側がうっとうしいかもしれない。
「分かったから、もう寝なさい」
と言われる可能性もある。
それもまた、悪くない。
言葉にして、相手が笑う。
照れる。
困る。
場合によっては、ちょっと嫌な顔をされる。
それでも、言わないよりはいいのかもしれない。
人間は、死んだあとにいくら立派な言葉を並べても、その本人には届かない。
だから、生きているうちに。
伝えられるうちに。
恥ずかしければ、手紙でもいい。
短くてもいい。
下手でもいい。
たった一言でもいい。
そして、いつか自分がいなくなったあと、その言葉が誰かの中に残ってくれたら、それだけで十分なのだと思う。
遺言ばかり書いていると、どうにも辛気臭くなる。
だから私も、たまには誰かにラブレターを書いてみようかなと思う。
……ただし、送る前に読み返して恥ずかしくなり、保存したまま送信ボタンを押せない可能性は高い。
それでもいい。
送信できなくても、書こうと思った時間は、自分の中に残る。
そして、もし勇気が出て送れたなら。
相手が少しでもHappyになってくれれば、それでいい。
人生なんて、結局そういう些細なことの積み重ねなのかもしれない。
大げさな愛の言葉じゃなくてもいい。
一枚の古びた葉書が六十余年を越えて人の心を動かしたように、たった一言の「ありがとう」が、思っている以上に長く生きることだってある。
だから私は、今日のところはスマホを置いて、紙とペンを探してみようと思う。
……漢字が思い出せなかったら、ひらがなで書く。
それでも足りなかったら、絵文字にする。
最後は、
「❤️」
だけになるかもしれない。
それでもまあ、ラブレターには違いない。





