特殊清掃「続・哀愁のマットレス」を更新いたしました。
続・哀愁のマットレス
以前投稿した「哀愁のマットレス」の続編である。
あのマットレスのことは、何度思い出しても、そのインパクトが風化しない。
普通、嫌な記憶というものは、時間の経過とともに少しずつ薄れていくものだと思う。
「あの時は大変だったなぁ」
くらいになって、やがて笑い話になる。
ところが、あのマットレスに関しては違った。
時間が経つほど、記憶の底から新しい何かが浮かび上がってくる。
「ああ、そういえば、あそこにも……」
「そうだ、あの時は……」
と思い出すたびに、余計なディテールまで鮮明になってくる。
記憶というのは不思議なものである。
忘れたいことほど、妙に保存状態がいい。
あの時、作業用の装備を整えていなかったことも災難だった。
しかし、今になって考えてみると、それ以上に致命的だったのは、心の準備をする時間がまったく与えられなかったことだったと思う。
人間、ある程度の覚悟があれば、意外といろんなことに耐えられる。
「今日は相当ひどい現場だぞ」
と事前に言われていれば、
「よし、やってやろうじゃないか」
と、多少は気持ちを作ることができる。
ところが、何の予告もなく、いきなり想定外のものが目の前に現れると、心が追いつかない。
そして、その後の私を待ち受けていたのが、まさかの「ウジとの戦い」だった。
腐敗液が滴り落ちるマットレスを、暗い気持ちでトラックの荷台に積み込んだ私は、ほとんど逃げるように現場を離れた。
「とりあえず、ここから離れよう」
そう思った。
しかし、仕事というものは残酷である。
逃げた先にも仕事が待っている。
今度は、このマットレスを解体して分別しなければならない。
しかも、屋外で解体できるような代物ではない。
結局、トラックの荷台にこもって作業するしかなかった。
季節は晩春。
天気は晴天。
普通なら、気持ちのいい一日である。
しかし、この日の私は晴天をまったく喜べなかった。
太陽が、容赦なくトラックの荷台を温めていく。
外気温が上がる。
荷台の温度も上がる。
そして、マットレスから漂う臭気も、なぜか元気になる。
まるで太陽が、
「さあ、もっと頑張って臭ってみよう!」
と、腐敗臭を応援しているかのようだった。
私は悪臭で充満した車内で、汚水を頭からかぶったかのように汗をかきながら、ベッドマットを解体していった。
暑い。
臭い。
気持ち悪い。
そして何より、逃げ場がない。
「これ、仕事じゃなかったら絶対にやらないな」
そんなことを考えながら、カッターナイフを握った。
ベッドマットは、分解してしまえば大きく二つに分けることができる。
布類と金属類。
理屈だけなら簡単だ。
布を剥がし、金属を取り出して、それぞれ分別すればいい。
問題は、その「布を剥がす」という作業だった。
大型のカッターナイフを使い、布を切り裂きながら、金具から少しずつ布を剥がしていく。
ザクッ。
ザクッ。
汗が落ちる。
臭いが鼻を突く。
そして、また布を切る。
ザクッ。
すると――
ボトッ。
何かが落ちた。
「ん?」
最初は何が落ちたのか分からなかった。
白っぽい塊だった。
「何だこりゃ?」
近づいて、よく見てみる。
すると、それが何なのか分かった。
大量に湧いたウジだった。
「うわ……」
声にならない声が出た。
まだ生まれて間もない、小さなウジ。
それが大量に身を寄せ合い、白い塊のようになっていた。
それまで私は、ウジというものを一匹ずつ認識していた。
ところが、この時ばかりは違った。
一匹、二匹というレベルではない。
「群れ」なのである。
いや、群れという表現でも足りない。
白い生命体の集合体。
それが、マットレスの内部からボトボトと落下してくる。
私は一瞬、思考停止した。
「……これ、どういうシステムなんだ?」
そんなことを考えている場合ではない。
次々と落ちてくる。
まるでマットレスの中に、別の世界が形成されていたかのようだった。
まだ幼いウジたちは、いきなり襲ってきた大地震に驚いて、仲間同士で身を寄せ合っていたのだろうか。
それとも、大量に生まれ過ぎてしまい、
「すみません、ここ空いてますか?」
などと言っている場合ではなく、とにかく密集するしかなかったのだろうか。
こちらはこちらで、
「いやいや、そこに住んでいただいては困るんですよ」
と言いたい。
しかし、相手は相手で、こちらの都合など知ったことではない。
そもそも、会話が成立しない。
そして、そんな白い塊が次々と垂れ落ちてくるものだから、私は慌てた。
彼らの逃亡を許してしまえば、後々とんでもないことになる。
この狭い荷台から、さらに外へ逃げ出されたら、こちらの負けである。
マットレスを一枚処理するはずが、
「ウジの町内会を新設する」
という、まったく予定していなかった事業に発展してしまう。
申し訳ないが、それだけは阻止しなければならない。
私は心を鬼にした。
そして、彼らを掻き集めた。
「ごめんな」
と言っても仕方がない。
相手はウジである。
私も仕事である。
情けをかけている場合ではない。
殺虫剤を手に取り、容赦なく吹きかける。
すると、白い塊の中から、さらにウジが溶け出すように這い出してくる。
「まだいるのか!」
一体どれだけいるんだ。
こちらが一つ片付けたと思ったら、次が出てくる。
次を片付けたら、また出てくる。
まるで地下帝国である。
「いったい、どこまで続いているんだ……」
私は次第に、マットレスを解体しているのか、ウジの発掘調査をしているのか分からなくなってきた。
しかも、ウジというやつは身の危険を感じると、意外なほど逃げ足が速い。
「ウジって足があるのか?」
ふと疑問に思う。
調べれば分かるのだろうが、そんなことを調べている暇はない。
とにかく動く。
しかも小さい。
小さいくせに、逃げる。
隙間に入る。
角に逃げる。
物陰に潜る。
「お前ら、そんなところに入れるのかよ!」
と思うような場所にも入り込んでいく。
こちらは一匹ずつ追いかけるしかない。
相手は圧倒的多数。
こちらは一人。
戦力差があり過ぎる。
普通なら、ここで戦略を立てるところだ。
しかし、ウジ相手に戦略も何もない。
ただひたすら、一匹ずつ始末していく。
気がつけば、完全な消耗戦になっていた。
これはもう、作業ではない。
戦争である。
しかも、正規軍同士の華々しい戦争ではない。
泥沼のゲリラ戦だ。
こちらが一匹捕まえている間に、別の場所から三匹逃げる。
三匹を追いかけている間に、また別の場所から何匹か現れる。
「お前ら、連携してるだろ!」
と思わず疑いたくなる。
もちろん、そんな知能があるわけではない。
たぶん。
こちらが勝手にそう感じているだけなのだろう。
それでも、あの時の私には、ウジたちがかなり組織的に動いているように見えた。
そして、狭い荷台に無数のウジが這い回っているわけだから、ウジを踏まないでは作業にならない。
これもまた、精神的にはかなり嫌なものだった。
成長したウジを踏むと、プチッという感触がある。
ところが、今回の幼いウジたちは身体が小さい。
踏んでも、ほとんど感触がない。
それがかえって怖い。
「今、踏んだよな?」
と思って足元を見る。
いる。
いない。
いる。
分からない。
なんとも嫌な状況である。
不本意ながら、たくさんのウジを踏み潰してしまった。
できるだけ踏みたくなかった。
踏み潰したウジは、さらに始末しにくくなる。
だから避けたい。
しかし、避けていたら作業が進まない。
結局、
「すまん!」
と心の中で一言だけ謝り、作業を続けるしかなかった。
そうしているうちに、私の中で何かが変わっていった。
最初は一匹見るだけで鳥肌が立っていたのに、いつの間にか、
「そこにいるな」
くらいになっていた。
人間というのは、慣れる生き物である。
もっとも、慣れたから平気になったわけではない。
「気持ち悪いけど、もういちいち驚いていられない」
という、ある意味での諦めである。
恐怖心を克服したというより、恐怖心を横に置いて仕事をする技術を身につけた。
成長したのか、鈍くなったのか。
そのあたりは微妙なところである。
結局のところ、ゲリラ戦をかいくぐり、逃げ切ったヤツもいるだろう。
私が見つけられなかっただけかもしれない。
いや、きっといる。
どこかで生き延びた者がいる。
だが、もう追い切れなかった。
彼らの頑張りに免じて許してやった――
ということにしておこう。
本当のところは、
「もう無理」
である。
作業が一段落ついた頃には、身体も疲れていたが、頭もかなり疲れていた。
汗だくになりながら、私はしばらくぼんやりした。
そして、ふと思った。
「今までも、随分とウジと戦ってきたなぁ」
最初の頃は、本当に嫌だった。
死体に出会う前の自分が、ちょっと懐かしい。
あの頃の私は、ウジ一匹見ただけで鳥肌を立てていた。
今では、何十匹、何百匹いるのか分からないような状況でも、とりあえず作業を続けている。
慣れとは恐ろしい。
そして、ふと考える。
「この先、あとどれくらいウジと戦うんだろうなぁ」
仕事をしていれば、これからもいろんな現場に出会うだろう。
また別のマットレスが来るかもしれない。
また別の何かが湧いているかもしれない。
あるいは、今回よりもっとすごいものが待っているかもしれない。
そう考えると、ちょっと気が遠くなる。
しかし、不思議なことに、そんなことを考えている自分に少し笑ってしまった。
昔の自分なら、
「ウジ一匹でも無理!」
と言っていたはずなのだ。
それが今では、
「まあ、いるよね」
くらいになっている。
人間、変われば変わるものである。
ただし、強くなったのかと言われると、そうでもない。
単純に、逃げられない状況で仕事をしているうちに、逃げないことに慣れてしまっただけなのかもしれない。
そして、ようやく作業を終えた。
私は汚れた靴を脱いだ。
「はぁ……」
全身の力が抜ける。
やっと終わった。
そう思った。
ところが。
靴を脱いだ瞬間、何かが目に入った。
「……ん?」
靴の中。
そこに、いた。
「靴の中にまで逃げ込むとは……」
思わず笑ってしまった。
いや、笑うしかなかった。
ずっと周囲にいるウジばかりを追いかけていた。
あっちへ逃げた。
こっちへ逃げた。
隙間に入った。
角に潜った。
一匹でも逃がすまいと、周囲ばかりに気を取られていた。
その結果、自分の足元が完全に盲点になっていた。
まさか最後に、自分の靴の中から出てくるとは。
そこで、ふと思った。
これは、ウジだけの話ではないのかもしれない。
周りばかり気にして、自分の足元を見ていない。
遠くばかりを見て、今いる場所を見ていない。
何かを追いかけることに夢中になって、すぐそばにあるものを見落としてしまう。
それは、仕事だけではなく、生き方そのものにも言えることなのかもしれない。
……などと、ちょっと格好いいことを考えてみた。
しかし、直後に思った。
「いや、でも靴の中にウジがいるのは普通に嫌だな」
人生の教訓にするには、ちょっと生々し過ぎる。
結局、私は最後までウジに振り回されていた。
周囲を警戒していたら、足元をやられた。
敵は外にいると思っていたら、いつの間にか靴の中にまで入り込まれていた。
まったく油断も隙もない。
というわけで、この日の戦いを締めくくる言葉は、これしかない。
ウジに完敗。
いや、
ウジに乾杯。





