特殊清掃「輪廻転死?」を更新いたしました。
輪廻転死?
三年続いた死――特殊清掃人が向き合った「祟り」と「残された人の心」
遺品整理の仕事をしていると、時々、自分の本来の仕事が何なのか分からなくなる瞬間がある。
もちろん、依頼内容としては明確だ。
家具を整理する。
衣類を片付ける。
故人が残した品々を仕分ける。
必要なものを遺族へ渡し、不要なものを処分する。
そして、希望があれば遺品供養を行う。
それが私の仕事である。
しかし、現場に向かうと、そこには必ず「物」だけではなく、「人の感情」が残されている。
悲しみ。
後悔。
寂しさ。
怒り。
戸惑い。
そして、ときには恐怖。
遺品整理とは、単純な片付け業ではない。
そこに残されているのは、故人が生きてきた時間そのものだからだ。
今回の現場も、最初はいつもと同じ遺品整理の依頼だと思っていた。
亡くなった方は病院で息を引き取ったとのことだった。
つまり、自宅で長期間発見されなかった孤独死や、腐敗した状態で発見された現場ではない。
現場状況としては、精神的な負担が大きい特殊清掃案件ではないだろう。
そう判断し、私はすぐに車を走らせた。
依頼者は中年の女性だった。
玄関先で出迎えてくれたその女性は、どこか元気がなかった。
声にも力がない。
表情も暗い。
しかし、その時の私は特別深く考えなかった。
「ご主人を亡くされたばかりなのだから、当然だろう」
そう思った。
大切な人を失った直後に、明るく振る舞える人などそう多くはいない。
私は月並みではあるが、お悔やみの言葉を伝えた。
「この度はご愁傷様です」
何度も言ってきた言葉ではある。
だが、何度口にしても軽く言っていい言葉ではない。
相手にとっては、一生忘れることのできない出来事なのだから。
その後、私は現場を確認し、遺品の量や作業内容を見ながら見積もりを作成した。
今では、いわゆる「死」が絡まない普通の片付け案件よりも、特殊清掃や孤独死現場の方が多くなった。
そのせいなのか、逆に一般的な遺品整理の方が難しく感じることもある。
腐敗した部屋なら、やるべきことは明確だ。
臭気を取り除く。
汚染を除去する。
故人の尊厳を守る。
しかし、普通の遺品整理の場合、目に見えない部分への配慮が必要になる。
残された家族が何を思っているのか。
何を恐れているのか。
何を手放せずにいるのか。
そこを読み取らなければならない。
今回の女性も、最初から何かを抱えているように見えた。
特に気になったのは、遺品供養についてだった。
通常、遺品供養を希望される方は少なくない。
故人が大切にしていた物だから。
そのまま捨てることに抵抗があるから。
気持ちの整理をつけるため。
理由は人それぞれだ。
しかし、この女性の場合は少し違った。
「本当に大丈夫でしょうか」
「ちゃんと供養しないと何か起こりませんか」
何度も、何度も確認してくる。
その言葉の裏側に、単なる心配ではない強い不安を感じた。
私は作業内容の説明をしながら、少しずつ話を聞いてみることにした。
すると、女性はぽつりぽつりと話し始めた。
「実は……主人が亡くなる前にも、この家では人が亡くなっているんです」
その言葉に、私は少し耳を傾けた。
詳しく聞くと、この家では三年連続で身近な人が亡くなっているという。
一人目。
二人目。
そして今回、ご主人。
偶然とは分かっていても、短期間に続けば、人はそこに意味を求めてしまう。
女性が一番恐れていたのは、まさにそこだった。
「来年は……私の番なんじゃないかと思ってしまって」
そう言った。
冗談ではない。
本気で怯えている顔だった。
「この家に住み続けて大丈夫なんでしょうか」
「この家に何かあるんじゃないでしょうか」
「どうすればいいんでしょう」
その問いに、私はすぐ答えることができなかった。
なぜなら、彼女が求めている答えは、単なる住宅環境の話ではなかったからだ。
彼女が知りたいのは、
「この家は危険なのか」
ではなく、
「私は死ぬのか」
ということだった。
人間にとって、死ほど大きな恐怖はない。
そして、その恐怖に理由を与えたいと思うのも、人間の自然な心理なのだと思う。
偶然、三年続けて身近な人が亡くなった。
その偶然を「偶然」として受け止めるには、心が疲れすぎていたのだろう。
だから、
「何か原因があるはずだ」
「何か理由があるはずだ」
そう考えてしまう。
そして、その理由として「祟り」という存在が浮かんできたのだと思う。
家の中を見ると、その不安の大きさが分かった。
神棚や仏壇だけではない。
風水関連の置物。
よく分からない札。
厄除けと思われるもの。
清めの塩。
清酒。
家のあちらこちらに、不安を打ち消すためのものが置かれていた。
もちろん、それらを否定するつもりはない。
信仰や風習は、人の心を支えることもある。
苦しい時に何かを信じることで救われる人もいる。
ただ、この女性の場合、それらが「安心」のためではなく、「恐怖から逃れるため」のものになっているように感じた。
どれだけ置物を増やしても。
どれだけ札を貼っても。
どれだけ塩を置いても。
心の中にある恐怖が消えなければ、人は安心できない。
私は、この女性に何を言えばいいのか考えた。
正直に言えば、私は霊能者でもない。
霊が見えるわけでもない。
祓えるわけでもない。
私の仕事は、亡くなった方を丁寧に扱い、残された物を整理することだ。
「大丈夫です。霊なんていません」
そう断言する資格もない。
逆に、
「何かいるかもしれません」
などと言えば、この女性の恐怖をさらに大きくしてしまう。
この人が必要としているのは、恐怖を煽る言葉ではない。
心の重荷を少しでも軽くする言葉だった。
そこで私は、自分なりの答えを出すことにした。
それは――
「嘘も方便」
というものだった。
そう決めたとはいえ、簡単なことではなかった。
私は別に、人を騙して商売をしているわけではない。
むしろ、この仕事を始めてから、人に対して誠実であることだけは誰よりも大切にしてきたつもりだ。
亡くなった方に対しても。
遺族に対しても。
そして、これから生きていく人に対しても。
だからこそ、この時の判断には少し迷いがあった。
この女性に必要なのは、本当のことを言うことなのか。
それとも、今この瞬間だけでも心を軽くする言葉なのか。
私は考えた。
もし私が、
「そんなものは全部気のせいです」
と言ったらどうだろう。
確かに理屈では正しいかもしれない。
三年続けて身内が亡くなることは、確率的には珍しいことではない。
人は年齢を重ねれば亡くなる。
病気になることもある。
事故に遭うこともある。
家族が続けて亡くなることだって、現実には起こる。
しかし、悲しみに沈んでいる人に、ただ正論をぶつけても届かないことがある。
人間は、頭だけで生きているわけではないからだ。
心が追いついていない時に、正しい説明だけでは救われないこともある。
逆に、
「何か悪いものがいるのかもしれません」
などと言えば、彼女の恐怖をさらに大きくしてしまう。
それだけは絶対に避けなければならない。
だから私は、彼女の不安を取り除くための言葉を選ぶことにした。
私は、まず自分がこれまで見てきた現場の話をした。
孤独死の現場。
病院から戻ってきた故人の家。
突然家族を失った遺族。
長い闘病生活の末に亡くなった方。
数え切れないほどの「死」と向き合ってきた経験。
もちろん、詳細な話をするわけではない。
ただ、
「こういう仕事を長くやっていると、本当にいろんなご家庭があります」
ということを伝えた。
そして、
「一年の間に何度も葬儀を出す家もあります」
「数年続けて身近な人を亡くされる方もいます」
「でも、それだけで何か悪いものがあるということではありません」
と話した。
女性は黙って聞いていた。
その表情から、不安が完全になくなったわけではないことは分かった。
しかし、少しだけ耳を傾ける余裕が生まれているように感じた。
そこで、私はさらに続けた。
「実は……」
ここからが、私の少し意地悪な部分だった。
「自分はこの仕事を長くやっているので、普通の人よりそういうものを感じやすいんです」
そう言った。
もちろん、嘘である。
私は霊感などない。
霊を見ることもできない。
何かを感じ取る能力など持ち合わせていない。
ただ、あえてそういう雰囲気を出した。
そして、少し目を閉じて、考えるような仕草をした。
「……この家からは、嫌な感じはしません」
「祟りのようなものは感じません」
「亡くなった方が、残された家族を苦しめているようには思えません」
「続いた死は、偶然だと思います」
そう伝えた。
今考えても、少し複雑な気持ちになる。
私は霊能者ではない。
だから、本来なら「感じる」なんて言ってはいけないのかもしれない。
でも、その時の私が向き合っていたのは、霊ではなかった。
目の前にいる、一人の生きている人間だった。
ご主人を亡くし。
家族を失い。
「次は自分なのではないか」
という恐怖に押しつぶされそうになっている人だった。
私は霊を否定したかったわけではない。
信じている人の気持ちを馬鹿にしたかったわけでもない。
ただ、
「あなたはこれからも生きていいんですよ」
と伝えたかった。
それだけだった。
女性は、しばらく黙った後、
「……そうですか」
と小さく言った。
そして、少し笑った。
本当に小さな笑顔だった。
でも、その表情を見た時、私は少し安心した。
少なくとも、この瞬間だけは、この人の心にあった重い荷物を少し持つことができたのかもしれない。
その後、私はさらに話を続けた。
「この仕事をしていると、死というものを毎日のように考えます」
「でも、だからこそ、生きている時間がどれだけ大切なのか分かるんです」
そんな話をした。
実際、私はこの仕事をしていて、毎日楽しいことばかりではない。
辛いこともある。
精神的にきつい現場もある。
誰にも言えないような苦しさを抱えることもある。
人の死に関わる仕事だから、当然だ。
しかし、それでも私はこの仕事を続けている。
なぜなら、亡くなった方を最後に送り出す役割は、誰かがやらなければならないからだ。
世の中には、死を遠ざけたいという気持ちがある。
できれば見たくない。
考えたくない。
関わりたくない。
それは自然なことだと思う。
しかし、人間は必ず死ぬ。
だからこそ、誰かが向き合わなければならない。
私はたまたま、その役割を仕事にしているだけなのだ。
遺体に触れる時、私は必ず心の中で声をかける。
「失礼します」
「これから綺麗にしますね」
「ありがとうございました」
声に出すこともある。
もちろん、返事が返ってくるわけではない。
何かを感じるわけでもない。
ただ、自分自身がそうしたいからやっている。
亡くなった瞬間、その人が「物」になるわけではない。
そこには確かに人生があった。
誰かを愛した時間があり。
誰かに愛された時間があり。
笑った日もあり。
苦しんだ日もあった。
その人が最後に残した身体を、単なる作業対象として扱うことだけはしたくない。
これは霊を信じるかどうかとは別の話だと思っている。
魂があるのか。
死後の世界があるのか。
私は分からない。
でも、その人が生きていたという事実は消えない。
それだけは確かだ。
ちなみに、よく聞かれることがある。
「怖くないんですか?」
「霊を見たことはありますか?」
「変な経験をしたことはありませんか?」
答えは、ほとんどの場合、
「ありません」
である。
私は霊感など持っていない。
幽霊を見たこともない。
不思議な体験をしたこともない。
もしかしたら、実は大量の霊に囲まれているのに気づいていないだけなのかもしれない。
あるいは、私の方が怖がられて、霊の方から近づいてこないのかもしれない。
そんな冗談を言うこともある。
守護霊でも悪霊でも、来るなら来い。
こちらは仕事で毎日のように死と向き合っている。
霊の存在を気にしていたら、とてもではないが続けられない。
ただ、不思議なことに、心霊写真だけは昔から苦手だ。
中学生の頃からそうだった。
絶対に見ない。
あれだけは今でも嫌である。
自分でも理由はよく分からない。
普段、遺体を扱っている人間が、写真一枚を怖がる。
我ながら矛盾していると思う。
でも、人間なんてそんなものなのかもしれない。
理屈では説明できない感情は、誰にでもある。
だから、霊を信じる人の気持ちも完全に否定することはできない。
ただ、私にとって大切なのは、霊がいるかいないかではない。
目の前にいる人間をどう支えるか。
亡くなった人をどう扱うか。
そこだけである。
私は、霊の存在について語る資格がある人間ではないと思っている。
見えるわけでもない。
聞こえるわけでもない。
特別な能力があるわけでもない。
だから、「霊は絶対にいる」とも言えないし、「絶対にいない」と断言するつもりもない。
世の中には、科学では説明できないことがあると言う人もいる。
逆に、すべては心理的なものだと言う人もいる。
どちらが正しいのか、私には分からない。
そして正直なところ、そこに答えを求める必要も感じていない。
なぜなら、私が毎日向き合っているものは、霊ではなく「人」だからだ。
亡くなった人。
残された家族。
そして、死を前にして不安や悲しみを抱える生きている人。
私の仕事の中心にあるのは、そこなのである。
遺品整理という仕事をしていると、いろいろな考え方の人に出会う。
故人の物をすべて残したいという人。
逆に、見るのも辛いから早く片付けたいという人。
写真一枚を手放せず、何時間も悩む人。
高価な物には興味がなくても、古い手紙だけは絶対に残したいという人。
人によって、大切なものは違う。
第三者から見れば価値のないように見える物でも、その人にとっては人生の一部だったりする。
古びた財布。
少し黄ばんだシャツ。
使い込まれた時計。
傷だらけの家具。
それらは単なる「物」ではない。
そこには、その人が生きてきた時間が詰まっている。
だから私は、遺品を扱う時には必ず考える。
「この人は、どんな人生を歩んできたんだろう」
「どんな思いで、この物を大切にしていたんだろう」
もちろん、答えが返ってくることはない。
でも、その想像をすること自体が、故人への礼だと思っている。
今回の女性の家でも、最後にそのことを強く感じた。
ご主人が亡くなったことで、女性は悲しみだけではなく、恐怖まで背負ってしまっていた。
本来なら、
「夫を失った悲しみ」
だけで十分苦しいはずだった。
しかし、そこに、
「次は自分が死ぬかもしれない」
という恐怖が加わっていた。
人間は、悲しみが大きすぎる時、何か理由を探してしまう。
なぜ亡くなったのか。
なぜ自分なのか。
なぜこんなことが続くのか。
答えがないことほど、人は苦しむ。
だから、何か原因を見つけようとする。
それが時には「祟り」という形になることもある。
私は、それを笑うことはできない。
外から見れば、
「そんなこと気にしなくてもいい」
と思えるかもしれない。
でも、その人にとっては現実に感じている恐怖なのだ。
だから必要なのは、恐怖を否定することではない。
その人が再び前を向けるようにすることだ。
あの女性に伝えた言葉が、本当に正しかったのかは分からない。
霊感があるように振る舞ったことを、今でも完全に正当化できるわけではない。
「嘘をついた」と言えば、確かにその通りだ。
私は霊が見えない。
何かを感じたわけでもない。
それでも、あの時はそうするしかなかった。
なぜなら、私が守りたかったのは「真実」ではなく、その人の「心」だったからだ。
もちろん、何でも嘘で済ませていいわけではない。
人を騙して安心させることと、人を救うために言葉を選ぶことは違う。
そこを間違えてはいけないと思う。
しかし、人間同士の関わりには、単純な正解だけでは割り切れない場面がある。
医師が患者にかける言葉。
家族が悲しんでいる人にかける言葉。
友人が苦しんでいる人にかける言葉。
そこには、ただ事実を伝えるだけでは足りない何かがある。
私は、その時できる範囲で、その女性の心を支えたかった。
ただ、それだけだった。
この仕事を長く続けていると、死というものが特別なものではなくなる。
誤解されることがある。
「死体を毎日見ていたら、感覚が麻痺するんじゃないか」
と言われることがある。
確かに、初めて現場に入った頃とは違う。
最初の頃は、緊張もした。
怖さもあった。
何とも言えない感情になることもあった。
しかし、慣れたという表現は少し違う。
死に慣れたのではなく、死を受け入れる方法を覚えたのだと思う。
目の前にいるのは、ただの遺体ではない。
誰かの父親だった人。
誰かの母親だった人。
誰かの夫だった人。
誰かの妻だった人。
誰かの大切な人だった人。
そこを忘れてしまったら、この仕事を続ける意味はない。
私は、腐敗現場に一人で入ることもある。
霊安室で故人と向き合うこともある。
搬送車の中で、故人と二人きりになることもある。
以前、夜中の山道を遺体と二人で走ったこともある。
周囲からすれば、
「怖くないのか」
と思うだろう。
でも、私が怖いと思うのは、幽霊ではない。
人が亡くなった後、その人の尊厳が失われてしまうこと。
誰にも気づかれず、誰にも見送られず、ただ時間だけが過ぎてしまうこと。
そちらの方が、ずっと怖い。
だから私は、この仕事をしている。
誰かが最後に、その人を人として扱わなければならないからだ。
最初に出会ったあの女性が、その後どう過ごしているのかは分からない。
あの日の会話で、本当に心の重荷が消えたのかも分からない。
もしかすると、時間が経てばまた不安になる日が来るかもしれない。
それでも、あの日少しでも笑顔を取り戻してくれたこと。
それだけで、私は良かったと思っている。
亡くなったご主人が、本当に何かを見守っているのか。
それは私には分からない。
でも、もし仮に、亡くなった人が残された家族を思う気持ちがあるのだとしたら。
きっと、
「自分のことで苦しまないでほしい」
と思うのではないだろうか。
残された人には、生きてほしい。
笑ってほしい。
自分の分まで人生を歩んでほしい。
私はそう思う。
霊がいるのか。
いないのか。
それを考えること自体は、人それぞれ自由だと思う。
信じる人を否定するつもりもない。
信じない人を否定するつもりもない。
ただ、私が大切にしていることは一つだけ。
亡くなった人にも。
生きている人にも。
礼を尽くすこと。
それだけである。
霊が見えるかどうかではない。
特別な力があるかどうかでもない。
目の前にいる人を大切にできるかどうか。
それが、人として一番大切なことだと思っている。
私はこれからも、たくさんの死と向き合うだろう。
辛い現場もある。
苦しい経験もある。
それでも、一体でも多くの故人を丁寧に扱いたい。
その人が生きてきた証を、最後まで尊重したい。
霊にも、人にも。
礼を尽くして。
それが、私がこの仕事を続ける理由である。





