特殊清掃「『生き残れ!』【後編】」を更新いたしました。
「生き残れ!」【後編】
「ないのは、お金だけですね」
さっきまで私を借金取りだと思い込み、今にも殴りかかってきそうだった男性は、まるで別人のように静かになっていた。
暗闇の中、玄関先のコンクリートに腰を下ろす。
私も少し距離を置いて立ったまま話を聞くことにした。
座るほど、この場に馴染んでしまう気がしたからだ。
猫たちは相変わらず周囲にいる。
さっきまで「敵襲!」と言わんばかりにこちらを見ていたくせに、今では「人間同士で勝手にやってくれ」という顔で毛づくろいを始めている。
あれだけ緊張させておいて、自由な連中である。
男性はぽつりぽつりと話し始めた。
「仕事がなくなってさ……。」
「はい。」
「借金だけ残って……。」
「はい。」
「家賃も払えない。」
「はい。」
「取り立ては来るし……もう疲れた。」
聞けば聞くほど、状況はかなり深刻だった。
仕事なし。
収入なし。
借金あり。
家賃滞納。
しかも電気もガスも止まりかけているという。
「そりゃ、借金取りが来たと思いますよね。」
そう言うと、男性は力なく笑った。
「悪かったな。」
「いえ、命があったので大丈夫です。」
「そんなに怖かったか?」
「正直に言います?」
「言ってみろ。」
「腐乱死体より怖かったです。」
一瞬、男性はきょとんとした。
そして、
「ハハハ!」
と、その日初めて声を出して笑った。
私は心の中でガッツポーズをした。
人間、笑えるうちは何とかなる。
少なくとも、そう信じたい。
ところが、その笑顔は長く続かなかった。
男性は急に真顔になり、遠くを見るような目で言った。
「でもな……。」
「はい。」
「もう死ぬしかねぇんだ。」
その一言は、思った以上に重かった。
ドラマのセリフのように聞こえるかもしれない。
でも現実には、こういう言葉は驚くほど静かに出てくる。
泣き叫ぶわけでもない。
大げさな身振りもない。
ただ、諦めきった声で、
「死ぬしかない。」
そう言う。
私は何と返せばいいのか、一瞬考えた。
「そんなこと言わないでください。」
違う。
「きっと何とかなります。」
それも違う。
そんな言葉は、この人自身が一番聞き飽きているだろう。
そこで私は、いつもの悪い癖が出た。
思ったことを、そのまま口にしてしまう。
「生命保険って入ってます?」
男性は目を丸くした。
「……は?」
「生命保険です。」
「入ってない。」
「年金は?」
「払ってない。」
「貯金は?」
「あるわけねぇ。」
「不動産は?」
「この家、借家だ。」
「株とか投資とか。」
「そんな金があったら借金しねぇ。」
私は腕を組んで、
「なるほど。」
と大きくうなずいた。
男性は不思議そうな顔をしている。
そして私は言った。
「じゃあ、死んでも一円にもならないですね。」
男性は口を半開きにした。
「……。」
「……。」
沈黙。
数秒後。
「お前なぁ!」
男性は苦笑いしながら頭を抱えた。
「普通そういうこと言うか?」
「いや、事実ですから。」
「事実だけど!」
「保険もない。」
「ない。」
「財産もない。」
「ない。」
「年金もない。」
「ない。」
「だったら死んでも借金は減らないし、誰も得しませんよ。」
男性は黙った。
私は続けた。
「せっかく何十年も生きてきたのに、自分の命の値段がゼロ円なんて、悔しくないですか?」
今思えば、ずいぶん失礼な言い方だった。
カウンセラーなら絶対に言わない。
研修でも止められる。
特殊清掃員だから言えたのか、単なる空気が読めない人間だったのか、自分でもよく分からない。
でも、その時は変にきれいな言葉を並べる気になれなかった。
男性は怒るでもなく、ため息をついた。
「そんなこと言われたって、どうしようもないだろ。」
「そうですね。」
「仕事もない。」
「はい。」
「金もない。」
「はい。」
「借金だけある。」
「はい。」
「だったら、どうすりゃいい?」
それは私が答えられる質問ではない。
私は弁護士ではない。
税理士でもない。
生活相談員でもない。
ましてや人生の先生でもない。
ただ、特殊清掃員だ。
死んだ後の部屋は片付けられる。
でも、生きている人の人生は片付けられない。
それでも、黙って帰るのも違う気がした。
ふと足元を見る。
いつの間にか一匹のキジトラ猫が私の靴の横に座っていた。
男性はその猫を見て、小さく笑った。
「こいつらだけは腹が減ると、ちゃんと文句言うんだ。」
「全部飼ってるんですか?」
「勝手に集まってきた。」
「猫にも口コミがあるんですね。」
「たぶんな。」
「人気店みたいですね。」
「人気なのはエサだけだ。」
少しだけ、また笑った。
その笑顔を見て私は思った。
この人は、本当は死にたいわけじゃない。
どうやって生きればいいのか分からなくなっているだけなんだ。
特殊清掃の現場では、「死」が目の前にあることが多い。
だからこそ感じる。
本当に死ぬと決めた人は、案外何も言わない。
「死ぬ。」
と何度も口にする人は、その言葉を誰かに止めてほしいと思っていることが少なくない。
もちろん、そう決めつけることはできない。
だからこそ軽く扱ってはいけない。
でも私は、この男性の「死ぬしかない」という言葉の奥に、
「誰か、どうしたらいいか教えてくれ。」
そんな小さな声が混じっているような気がした。
その時の私は、そんな声に答えられる知識も資格も持っていなかった。
持っていたのは、現場でいろいろな人生を見てきた経験だけだった。
「じゃあ、ないのはお金だけですね」
その日は、結局見積りどころではなかった。
というより、見積りをする雰囲気ではなかった。
現場には人が住んでいる。
しかも、その人は私を借金取りと勘違いして飛び出してきたばかりである。
「では、お邪魔します。間取りだけ見せてください。」
などと言える空気ではない。
言った瞬間に、また棒切れを握ることになる。
いや、今度は相手が握るかもしれない。
私は男性に軽く頭を下げ、その場を後にした。
猫たちは相変わらず無言だった。
帰り道も墓地を通った。
行きは幽霊が怖かった。
帰りは人間のほうが怖かった。
特殊清掃員を長くやっていると、
「この世で一番怖いのは生きている人間だ。」
という言葉を耳にすることがある。
私はその意味を、改めて実感しながら雑木林を歩いていた。
翌日。
私は依頼者に電話をかけた。
すると、依頼してきた人物は、やはりその家の大家だった。
事情を聞いて、すべての点と点がつながった。
家賃は長期間滞納。
家はゴミだらけ。
猫も増え続けている。
近隣住民から苦情も来ている。
退去してもらいたい。
でも、自分では言いにくい。
そこで思いついたのが、
「特殊清掃業者に見積りへ行かせよう。」
という作戦だったらしい。
私は思わず言った。
「いやいやいや……。」
電話口で苦笑いする。
「事情くらい教えてくださいよ。」
大家は悪びれる様子もなく言った。
「だから見積りをお願いしたんです。」
「お願いって……。」
「鍵は開いてるって言いましたよね。」
「開いてましたけど、中に人がいました。」
「え?」
「しかも私、借金取りと間違われて殺されかけました。」
少し盛った。
いや、「殺されかけた」は言い過ぎかもしれない。
でも、あの時の恐怖を思い出せば、半分くらいは本当である。
大家は一瞬黙ったあと、
「じゃあ、今度は明るいうちに行ってください。」
と、さらりと言った。
思わず携帯電話を見つめてしまった。
違う。
そうじゃない。
問題は時間帯ではない。
私は深呼吸して言った。
「見積りは、ご依頼者様に立ち会っていただくのが原則なんです。」
「はい。」
「次は大家さんも一緒に行きましょう。」
「……。」
数秒の沈黙。
「それは、ちょっと。」
断るんかい。
心の中で盛大にツッコミを入れた。
現場へ行けと言った本人が、一番行きたくないらしい。
その気持ちは分からなくもない。
分からなくもないが、私だって行きたくない。
結局、その話はそこで終わった。
普通なら、私も断っていただろう。
「申し訳ありませんが、お受けできません。」
そう言って終わる案件だった。
でも、一つだけ気になっていた。
あの男性である。
昨夜、
「死ぬしかない。」
と言った、あの顔が頭から離れなかった。
だから私は、仕事ではなく、半分お節介で再びあの家へ向かうことにした。
もちろん今度は昼間である。
夜の雑木林を二日連続で歩くほど、私は勇敢ではない。
昼間に見る景色は、不思議なくらい違っていた。
昨日はホラー映画の舞台だった雑木林も、今日はただの雑木林。
昨日は恐怖の象徴だった墓地も、昼間は静かな墓地。
そして、あれほど不気味だった猫たち。
昼間に見ると……
普通に可愛い。
縁側で昼寝をしている猫。
塀の上で伸びをしている猫。
日なたで毛づくろいをする猫。
昨日の「闇の軍団」はどこへ行ったのか。
結局、怖かったのは猫ではなく、私の想像力だったらしい。
猫のほうも、
「昨日の変な人がまた来た。」
くらいにしか思っていないようだった。
私は小さく笑いながら家へ近づいた。
手には一冊の本を持っていた。
『自己破産ガイドブック』
本屋で買ってきた。
法律の専門書ではない。
一般向けに書かれた、図解入りの分かりやすい本だ。
私自身も読んでみたが、
「自己破産にもいろいろ種類があるんだな。」
と勉強になったくらいである。
もちろん私は法律家ではない。
「これを読めば人生解決!」
などと言うつもりもない。
ただ、
「死ぬしかない。」
と思い込んでいる人に、
「そんな選択肢だけじゃないですよ。」
という材料くらいは渡せるかもしれない。
それだけだった。
男性は家にいた。
昨日とは違い、穏やかな表情だった。
「また来たのか。」
「はい。」
「今日は借金取りじゃないな。」
「昨日も違いました。」
男性は少し笑った。
私は紙袋から本を取り出した。
「これ、良かったら。」
男性は表紙を見つめる。
「自己破産?」
「読んでみてください。」
「そんなこと考えたこともなかった。」
「死ぬことばかり考えるよりは、読む価値ありますよ。」
男性は無言で本をめくり始めた。
私は昔、どこかで聞いた言葉を思い出した。
誰が言ったのかは覚えていない。
でも、その言葉だけは頭に残っていた。
「ちょっと聞いていいですか。」
「何だ。」
「目、見えます?」
「見える。」
「耳は聞こえます?」
「聞こえる。」
「話せます?」
「話せる。」
「手は動きます?」
「動く。」
「歩けます?」
「歩ける。」
男性は少し不思議そうな顔をした。
「何なんだ、それ。」
私は笑って言った。
「じゃあ、ないのはお金だけですね。」
男性は、一瞬ぽかんとした。
それから小さく吹き出した。
「そう言われると……そうだな。」
「人間、いつかは必ず死にます。」
私は続けた。
「これは金持ちでも貧乏でも同じです。」
男性は黙って聞いている。
「だったら、死ぬのは、やれることを全部やってからでも遅くないと思うんですよ。」
「自己破産もある。」
「生活を立て直す方法もある。」
「仕事を探す方法もある。」
「役所へ相談する方法もある。」
「猫のエサ代で困ったら、それも相談できるかもしれない。」
「全部ダメだったら、その時また考えればいいじゃないですか。」
私は決して励まそうとは思っていなかった。
偉そうなことを言える立場でもない。
ただ、特殊清掃員として何百もの現場を見てきて、一つだけ確信していることがあった。
人は、生きている限り、選択肢が増えることはあっても、死んでから増えることはない。
だから私は最後に一言だけ付け加えた。
「生きている人の仕事は、生きることです。」
男性は何も言わなかった。
ただ、本を膝の上に置き、庭で遊ぶ猫たちをじっと見つめていた。
その横顔は、前日より少しだけ穏やかに見えた。
特殊清掃員は、人の人生までは片付けられない
あの日からしばらくしても、大家から連絡は来なかった。
見積りの催促もない。
作業依頼もない。
「あの件、どうなりました?」
という電話もない。
何もない。
普通なら、「仕事が流れた」と考えるところだ。
でも私は、少し違う受け止め方をしている。
あの男性が本当に亡くなっていたら――。
大家から何らかの連絡は入っていたはずだ。
特殊清掃の仕事は、残念ながら「亡くなってから」が出番になることが多い。
だから連絡がないということは、少なくとも私の出番は来ていないということだ。
私は勝手に、
「元気にやっているんだろう。」
と思うことにしている。
もちろん、本当のところは分からない。
引っ越したのかもしれない。
役所へ相談したのかもしれない。
自己破産を選んだのかもしれない。
仕事を見つけたのかもしれない。
あるいは、何も変わっていないのかもしれない。
答えは知らない。
でも、それでいい。
特殊清掃員という仕事は、意外なほど「知らないまま終わる仕事」が多い。
遺品整理をしたあと、残された家族がどう暮らしたのか。
孤独死現場を片付けたあと、その部屋に新しい住人が幸せに暮らしているのか。
ゴミ屋敷を片付けた人が、その後もきれいに生活できているのか。
私たちには分からない。
現場が終われば、それで一区切り。
その後の人生まで追いかけることはない。
だから今回も、「その後」を知らないまま終わった一件だった。
この仕事をしていると、よく言われる。
「特殊清掃員って、何でも屋ですね。」
半分は当たっている。
半分は違う。
掃除もする。
消臭もする。
消毒もする。
家具も運ぶ。
害虫も駆除する。
時には遺品を探し、時には大家や管理会社の愚痴を聞き、時には近隣住民へ頭を下げる。
「こんなことまで?」
と思うような相談も少なくない。
気が付けば、便利屋なのか、清掃業なのか、カウンセラーなのか、自分でも分からなくなる日がある。
でも、一つだけできないことがある。
それは、人の人生を片付けることだ。
部屋は片付けられる。
臭いも消せる。
汚れも落とせる。
けれど、その人が抱えてきた借金も、孤独も、後悔も、絶望も、掃除機で吸い取ることはできない。
そんな便利な機械は、まだどこのメーカーも作っていない。
もし発売されたら、私は真っ先に注文する。
多少高くても買う。
いや、かなり高くても買う。
現場で何度も使う自信がある。
でも、残念ながら存在しない。
だから私たちにできるのは、その人の人生を代わりに生きることではなく、目の前にある仕事を一つずつ終わらせることだけだ。
あの夜、私は見積りに行った。
正確に言えば、そのつもりだった。
ところが実際にやったことは、
道に迷い、
近所で道を聞き、
意味深に見送られ、
墓地を抜け、
猫の大群に囲まれ、
借金取りと間違われ、
棒切れを握り、
人生相談をして帰ってきた。
……一行目の「見積り」が、どこかへ消えている。
特殊清掃業の求人広告に、
「見積り業務あり」
とは書いてあっても、
「猫三十匹・借金取り誤認・人生相談付き」
とは書いていない。
もし書いてあったら、応募者は半分になるだろう。
いや、九割かもしれない。
それでも、こういうことが現場では本当に起こる。
特殊清掃という仕事は、ドラマや動画で見るような「孤独死専門の清掃業」だけではない。
現場には、人がいる。
遺族がいる。
大家がいる。
近所の人がいる。
管理会社がいる。
警察がいる。
時には猫までいる。
そして、それぞれに事情がある。
「掃除だけして帰る。」
そんな現場ばかりではない。
だから、この仕事は面白いとも言えるし、難しいとも言える。
あの男性に渡した『自己破産ガイドブック』は、最後まで読んでくれただろうか。
猫たちは相変わらず元気なのだろうか。
あの古い家は、今も建っているのだろうか。
私は知らない。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの日、私は特殊清掃の見積りには失敗した。
しかし、人間として無駄な一日だったとは思っていない。
特殊清掃という仕事は、「死」と向き合う仕事だと思われがちだ。
もちろん、それは間違いではない。
けれど実際には、「生きている人」と向き合う時間のほうが、ずっと長い。
孤独死の現場を片付ける前には、その人が生きてきた人生がある。
遺品の一つひとつには、誰かの思い出がある。
ゴミ屋敷にも、そこへ至る理由がある。
現場には、必ず人の事情がある。
だから私は今日も、防護服や薬剤だけではなく、人と話をする準備もして現場へ向かう。
もっとも――
できれば次回は、
「鍵は開いていますから、勝手に入ってください。」
ではなく、
「私も立ち会いますので、一緒にお願いします。」
そんな電話であることを、心から願っている。
……切実に。





