特殊清掃「寝込んだネコ」を更新いたしました。
寝込んだネコ
電話の向こうから聞こえてきた声は、若い男性のものだった。
「すみません……車のことで相談したいんですが」
この時点では、まだ何の相談なのか分からなかった。
車の傷なのか。
車内の汚れなのか。
それとも、事故やトラブル関係なのか。
消毒消臭業という仕事をしていると、本当に色々な相談が舞い込んでくる。
普通の清掃業者なら断るような案件。
人に言うのもためらうような事情。
誰にも頼めず、最後にたどり着く場所。
それが、私たちの仕事だったりする。
「どのような状態でしょうか?」
そう聞くと、男性は少し言いにくそうに間を置いた。
「あの……ネコが……」
嫌な予感がした。
「車の中ですか?」
「いえ、エンジンルームです」
さらに嫌な予感が強くなった。
話を聞くと、こういうことだった。
男性は車が大好きで、大切にしているスポーツカーを所有していた。洗車もこまめにするし、休日には車を眺めながら酒を飲めるくらい愛着があるらしい。
ところが、ある日から車の周辺で妙な臭いがするようになった。
最初は、
「何か落ちて腐っているのかな」
程度に考えていたそうだ。
しかし、日に日に臭いは強烈になっていく。
そして決定的だったのが、エアコンを入れた瞬間だった。
車内に吹き出してきた風。
そこから出てきたものは、爽やかな冷風ではなく、地獄から送り込まれてきたような悪臭だった。
例えるなら、夏場のゴミ置き場。
例えるなら、閉め切った倉庫の奥。
例えるなら……まあ、これ以上は想像しない方がいい。
男性は慌ててボンネットを開け、原因を探した。
そこにいた。
いや、正確には「いた」ではない。
そこに残されていた。
エンジンルームの奥深くで、ネコが息絶えていた。
しかも時間が経過していた。
男性はインターネットで色々な業者を探したらしい。
しかし、問い合わせをすると、
「車屋さんに相談してください」
「分解作業が必要になるかもしれません」
「対応できません」
と断られることが多かったという。
まあ、普通はそうなる。
車のエンジンルームに入り込んだ動物の死骸除去。
しかも腐敗済み。
誰が好き好んでやるのかという話である。
私自身も電話を切った後、正直思った。
「ちょっと、面倒な仕事になりそうだな」
と。
しかし、困っている人がいる。
それも、自分ではどうにもできない状況だ。
現場を見るだけ見てみようと思った。
現場に到着すると、男性が待っていた。
そして目の前にあった車を見て少し驚いた。
かなり気合いの入ったスポーツカーだった。
ピカピカに磨かれたボディ。
こだわって取り付けられたパーツ。
車好きなら大事にしていることが一目で分かる。
その愛車のボンネットを開ける。
そこには、車好きの男性が絶対に見たくなかった光景があった。
ネコの死骸。
正確には、時間の経過によって毛皮と骨が残った状態だった。
普通なら悲鳴を上げてもおかしくない光景だ。
ただ、私はこれまで色々な現場を経験してきた。
人の腐敗現場に比べれば、臭いの種類としてはまだ耐えられる範囲だった。
とはいえ、気持ちいい仕事ではない。
もちろん。
「ありがとうございます!ぜひやらせてください!」
と言える仕事ではない。
心の中では、
「できれば誰か代わってくれないかな」
という気持ちもある。
しかし、目の前の男性を見るとそうも言っていられなかった。
かなり追い詰められている様子だった。
臭いのせいで車に乗れない。
彼女との関係も悪化している。
車好きにとって愛車は単なる移動手段ではない。
家族、とまでは言わないにしても、かなり大切な存在だ。
その大切な車が、現在は「悪臭発生装置」になっている。
私は条件を伝えた。
「完全に元通りになる保証はできません。ただ、できる限りやります」
通常なら作業前に料金をいただく。
しかし今回は違った。
どこまで改善するか分からない。
だから、作業後に納得してもらえたら支払ってもらう形にした。
男性は何度も頭を下げた。
「お願いします」
その一言で作業開始となった。
エンジンルームという場所は、本当に作業者泣かせである。
広い空間ならまだいい。
しかし車の内部は、狭い場所に大量の部品が詰め込まれている。
手を入れたくても入らない。
工具を入れたくても角度が悪い。
見えているのに届かない。
人間という生き物は、届かない場所を見ると余計に気になるものだ。
「あそこにも残っているんじゃないか」
「ここにも付着しているんじゃないか」
そんな疑念との戦いでもある。
少しずつ、慎重に除去していく。
脚。
尻尾。
胴体の一部。
作業内容だけを書けば簡単だが、実際は精神的にもなかなかくる。
特に頭部を取り除く時は、さすがに背筋が寒くなった。
ネコは昔から怪談や不思議な話にも登場する存在だ。
暗闇の中で目が光る姿。
突然現れる影。
人間に近い感情を持つように描かれることも多い。
そんな存在の変わり果てた姿を扱うのだから、気持ちの整理が必要になる。
「仕事だ、仕事だ」
そう自分に言い聞かせながら手を動かした。
問題は死骸だけではなかった。
本当に厄介なのは、その後だった。
腐敗すると液体が出る。
これは動物でも人間でも同じだ。
そして、その液体がエンジンルームのあちこちに入り込んでいる可能性がある。
見える場所ならまだいい。
問題は見えない場所。
手が届かない。
確認できない。
でも臭いの原因になる可能性がある。
消臭作業というのは、臭いを隠す作業ではない。
原因を探して、取り除く作業だ。
香水をかけてごまかすようなものではない。
臭いには必ず理由がある。
その理由を一つずつ潰していく。
ただし、車というものは水をジャブジャブかければいいわけではない。
精密な部品もある。
電気系統もある。
慎重に洗浄剤と消臭剤を使いながら作業を進めた。
そして最後に待っていたのが、車の下側だった。
これが一番きつかった。
車の下に潜る。
上から垂れてくる液体。
当然、重力には逆らえない。
下に落ちる。
つまり、私の方向へ落ちる。
「顔にだけは来るなよ」
そう願いながら作業していた。
しかし世の中、そんなに甘くない。
願いは届かなかった。
見事に顔にもかかった。
その瞬間、人間というものは不思議なもので、怒りより先に悟りの境地に入る。
「ああ……もう仕方ない」
仕事とは、時にそういう瞬間がある。
横で見ていた男性は何度も謝っていた。
「すみません」
「本当にすみません」
何回言われただろう。
でも、こちらとしても怒る気にはならない。
好きでネコをエンジンルームに入れたわけではない。
男性も被害者なのだ。
そして、目の前で自分の大切な車を救おうとしている。
だから最後までやるしかない。
数時間後。
ようやく作業終了。
見た目にはかなりきれいになった。
あとは実際に確認するだけ。
エンジン始動。
問題なし。
次にエアコン。
緊張する瞬間だった。
風が出る。
……。
完全ではない。
まだ少しだけ臭いが残っていた。
やはり一度染み付いた臭いは簡単ではない。
ただ、時間とともに薄れる可能性は高い。
男性には、しばらく換気しながら乗ってもらうよう説明した。
すると男性は、
「本当にありがとうございます」
と言って、約束していた料金を満額支払ってくれた。
それから一ヶ月ほど経った頃。
ふと思った。
あの車、どうなっただろう。
臭いは消えただろうか。
気になって男性に連絡してみた。
すると、
「もう全然大丈夫です!」
という明るい返事が返ってきた。
時間とともに臭いは消え、今では普通に乗れているという。
よかった。
こういう時は職人として素直に嬉しい。
目に見えない臭いという相手と戦って、結果が出た瞬間だからだ。
ただ、一つだけ変化があったらしい。
以前、臭い問題で険悪になっていた彼女とは別れたとのこと。
「あら……」
と思ったが、続きがあった。
「今は新しい彼女がいます」
とのこと。
つまり。
車は復活した。
しかし彼女は復活しなかった。
車は修理。
恋愛関係は交換。
なかなか合理的な判断である。
考えてみれば、あれだけ臭う車に一緒に乗るというのは、恋人関係にもかなりの耐久力が必要だったのかもしれない。
愛車には消臭剤が効いた。
しかし、恋愛には効かなかった。
人生というものは、なかなか思った通りにはいかない。
それでも、あのスポーツカーが今も元気に走っているなら、それでいい。
一匹のネコが残した大変な置き土産。
それを片付けた男たちの話。
世の中には、誰かがやらなければならない仕事がある。
そして時々、その仕事は顔に何かが垂れてくるような、なかなか刺激的なものだったりする。
めでたし、めでたし。





