特殊清掃「命の選択 」を更新いたしました。
命の選択
今年の夏は、なんだか短いように感じる。
長かった梅雨がようやく明けたと思ったら、今度はグズついた天気が続いた。
夏らしい青空を見たと思えば、次の日にはどんより。
蝉も「今年の夏は本当にこれで合ってるのか?」と、鳴きながら確認しているようだった。
日照不足の影響で、野菜や果物の出来もあまりよくないらしい。
当然のように値段は上がる。
普段なら「今日は野菜じゃなくて肉がいいな」と思うくせに、スーパーで野菜の値札を見ていると、急にその野菜がありがたく見えてくる。
「おお、キャベツ様……」
普段は見向きもしないくせに、高値がついた途端に食べたくなる。
人間というのは不思議なものだ。
よく考えれば、本当に食べたくなっているのはキャベツそのものではないのかもしれない。
キャベツに付随した「金銭価値」を食べたくなっているのだ。
「これ、今高いんだよな」
そう思った瞬間、味まで少し上等に感じる。
人間の欲というのは、なかなかややこしい。
そんな夏。
例によって、今年も全国各地で水の事故が多発している。
海や川、湖。
楽しいはずのレジャーが、一瞬で取り返しのつかないものに変わる。
命の洗濯のつもりで出掛けたのに、本当に命を失ってしまう。
言葉遊びでは済まされない話だ。
ある中年男性が溺死した。
家族で海水浴に出掛けた先での事故だった。
検死を終えて帰ってきた遺体は、全裸でビーチの砂にまみれていた。
遺体を前にした妻子は呆然としていた。
泣くに泣けないというのは、ああいう状態をいうのだろう。
悲しみが大きすぎると、人はすぐには泣けない。
頭では「死んだ」と分かっている。
目の前に本人がいる。
でも、ついさっきまで生きていた人間が、もう二度と喋らないという現実だけが、どうしても感覚に追いついてこない。
ここでも、楽しいはずの夏休みが一変していた。
体格のいい故人だった。
泳ぎには自信があったのだろうか。
それとも、十分に気をつけていたのに波に流されてしまったのだろうか。
家族と一緒だから大丈夫だと思ったのかもしれない。
少しくらいなら平気だと思ったのかもしれない。
ふざけて遊び過ぎたのかもしれないし、ほんの一瞬、足を取られただけなのかもしれない。
事故というのは、あとから考えればいくらでも理由を並べられる。
「あのとき、もう少し……」
「もし、あそこに行かなければ……」
「あと五分早ければ……」
でも、起きてしまったことに「もし」は効かない。
どちらにしろ、海に入ったことが命取りになってしまった。
さて、私のところに戻ってきた故人には、もう一つ問題があった。
砂である。
身体のあちこちに付いた砂を取り除かなければならない。
これは、まあ、なんとかなる。
人間の身体というのは、意外と掃除しやすい。
もちろん、生きている人間なら「ちょっとシャワー浴びてくる」で終わる話なのだが、こちらはそういうわけにはいかない。
できるだけ故人の身体に負担をかけないように、状態を見ながら作業する。
身体についた砂を取り除く作業は、並の手間で済んだ。
ところが問題は頭だった。
髪の毛に砂がびっしり入り込んでいる。
これが、なかなか手強い。
砂というのは、生きているときには海の思い出になる。
「いやー、砂がいっぱい付いちゃったな」
で済む。
しかし、亡くなった人の髪に大量の砂が入り込んでいると、思い出どころではない。
どうにかして取らなければならない。
最初はクシで髪をとかしながら、砂を掃い除けようとした。
ところが、やってみると砂だけではなく、髪の毛そのものがバサバサと抜け落ちてくる。
「おいおい……」
頭皮がかなり弱っているらしかった。
生前の外見からは、そんなことはまったく分からなかった。
人間の身体というのは、外から見ただけでは分からないことが多い。
髪の毛が抜ける。
砂も少しずつ取れる。
しかし、このまま続けたら、砂を取る代わりに髪の毛まで全部なくなってしまう。
それでは本末転倒だ。
砂を取ったら坊主になっていた、というのも、家族としてはなかなか受け入れにくいだろう。
「海水浴の結果がこれか……」
などと、本人がいたら笑って済ませられたかもしれない。
しかし、本人はいない。
冗談を言う相手がいないというのは、思った以上に寂しい。
結局、その方法はいったん中止した。
「どうしようかなぁ」
そう思いながら、妻に相談した。
しかし、妻は気が抜けたようになっていて、言葉を発することができない。
私の問い掛けに返事をするのが精一杯という状態だった。
無理もない。
目の前に横たわっているのは、ついこの間まで一緒に暮らしていた夫なのだ。
「髪の砂、どうしましょう?」
と聞かれても、
「好きにしてください」
とは、なかなか言えない。
かといって、
「それはこうして、あれはこうして」
と細かく指示できる精神状態でもない。
悲しみというのは、日常生活の判断力まで奪ってしまうらしい。
それでも、こちらは作業を止めるわけにはいかない。
いつまでも「どうしましょう?」と言っているわけにもいかない。
遺族の希望をできるだけ汲みながら、最終的には私が主導して進めるほかないと判断した。
やはり、頭が砂だらけのままでは偲びない。
しかし、髪の毛が抜けてしまっても困る。
そこで、少し手間はかかるけれど、水で洗い流してみることにした。
これなら髪をクシで引っ張る必要がない。
水流、水圧だけを使って、砂を少しずつ流していく。
もちろん、勢い任せにやるわけにはいかない。
身体の状態を見ながら、慎重に。
砂は意外なほどしぶとく残っていた。
髪の毛というのは、砂からすると絶好の隠れ家なのだろう。
一本一本の髪の間に入り込んでいる。
こちらとしては、
「もういいだろう」
と思っても、見るとまだいる。
「お前、まだいたのか」
と言いたくなる。
もちろん砂に返事はない。
黙々と水を当てる。
流れる。
また見る。
まだある。
また流す。
そんなことを繰り返した。
作業としては大がかりになり、結構な時間を要した。
それでも、水流だけで少しずつ砂が流れていく。
そして、ようやくきれいになった。
我ながら、うまくいったと思った。
こういうときだけは、自分の仕事に少し満足する。
「よし」
心の中で小さくガッツポーズ。
誰かに褒められる仕事でもない。
むしろ、できれば誰にも必要とされないほうがいい仕事だ。
それでも、目の前の人を少しでも生前に近い状態へ戻せたときには、やはり「やってよかった」と思う。
きれいになった故人には、普段から家で着ていたという楽な服を着せた。
何を着せるか、家族の希望がはっきりしなかった。
だから、私なりに考えて決めさせてもらった。
特別な服ではない。
高価な服でもない。
本人が普段着ていたような、気を張らずにいられる服。
最後くらい、本人が本人らしくいられる格好がいい。
そんなふうに思った。
服を着せ終わると、不思議なことに、さっきまでとは印象が違って見えた。
海で亡くなった、砂だらけの裸の遺体ではない。
家に帰ってきた、いつもの人に近くなった。
その姿を見た瞬間だった。
それまで寡黙で、ほとんど表情を変えなかった妻子が、突然、号泣し始めた。
張り詰めていたものが、一気に切れたのだろう。
「お父さん……」
「お父さん……」
そんな声が聞こえた。
私は、その場にいて言葉が出なかった。
何を言っても違う気がした。
「お悔やみ申し上げます」
「お力落としのないように」
もちろん、間違った言葉ではない。
仕事として何度も使う言葉だ。
けれど、そのときばかりは、どんな言葉も薄っぺらく感じた。
夫を失った人に、「元気を出してください」と言うのも変だ。
父親を失った子どもに、「時間が解決してくれます」と言うのも、今この瞬間には何の役にも立たない。
だから、私は俯いているしかなかった。
気の毒に思いながら、ただそこにいる。
それくらいしかできなかった。
楽しいはずの海水浴で、大事な夫を、大切な父親を亡くしてしまった家族。
一家の大黒柱をいきなり失った家族には、この先どんな人生が待っているのだろう。
住宅ローンは残っているかもしれない。
学校に通う子どももいるかもしれない。
毎月の生活費も必要だ。
役所へ行ったり、保険会社に連絡したり、葬儀のことを考えたり、親戚に連絡したり。
悲しむ暇もないほど、やらなければならないことは次から次へと出てくる。
人が一人亡くなるということは、その人の人生が終わるだけではない。
残された人たちの人生まで、突然、別の方向へ動き出してしまう。
少なくとも、残りの夏休みが楽しいものにならないことくらいは、容易に想像できた。
海を見れば、あの日のことを思い出すかもしれない。
水の音を聞くだけで胸が苦しくなるかもしれない。
夏が来るたびに思い出すかもしれない。
そして、何年経っても、
「どうしてあの日、海なんかに行ったんだろう」
と思うのかもしれない。
人の死には、いろいろなケースがある。
病気もあれば、老衰もある。
突然の事故もある。
自ら命を絶つ人もいる。
そして、事故死の場合、結果だけを見ると「自らの選択が死に向かわせた」と思えてしまうことが多い。
海に入る。
車に乗る。
自転車に乗る。
山へ行く。
酒を飲む。
高いところへ行く。
一つ一つを見れば、誰も「死ぬため」に選択しているわけではない。
むしろ本人は、
「大丈夫だろう」
と思っている。
「まさか自分が死ぬわけがない」
と、どこかで信じている。
だからこそ、怖い。
人生というのは、選択の繰り返しだ。
朝、何時に起きるか。
何を食べるか。
どこへ行くか。
誰と会うか。
何を買うか。
仕事をするか、辞めるか。
結婚するか、しないか。
海へ行くか、行かないか。
その一つ一つに、いちいち「この先どうなるか」なんて考えてはいない。
考えていたら、何もできなくなる。
コンビニでおにぎりを一個買うだけでも、
「このおにぎりを選択した結果、私は三時間後に……」
などと考えていたら、店員さんも困る。
人生は、そんな大げさなものではない。
たいていは、
「まあ、これでいいか」
の連続だ。
ところが、その「これでいいか」が、人生を大きく変えることがある。
小さな選択が、その後の人生を大きく変える。
あの海水浴も、家族にとっては単なる夏休みの予定だったはずだ。
「天気もいいし、海に行こう」
たったそれだけだったのかもしれない。
まさか、その選択の先に、夫の死と、家族の人生を変えてしまう出来事が待っているとは思わない。
選択の先にあるものを、誰かが教えてくれたら助かるんだけどね。
「この道を選ぶと、五年後にこうなりますよ」
そんな案内板が人生の交差点に立っていたら、どれほど楽だろう。
「海水浴場→楽しい思い出」
「こちらの海水浴場→人生最大の後悔」
などと表示されていれば、誰だって考える。
ただ、そんなものはない。
人生にはナビがない。
しかも困ったことに、目的地を入力してもいないのに、勝手にルート案内が始まる。
「次の角を右です」
と言われたと思ったら、
「ルートを再検索します」
となる。
そして、気がつけば、とんでもないところまで連れて行かれている。
私自身もそうだ。
それにしても、私は、あのときなんで「死体業」を選択してしまったんだろう。
人生の進路を決めるとき、
「将来は死体をきれいにする仕事がしたいです」
なんて言う高校生が、いったい何人いるだろう。
少なくとも、私はそんな夢を抱いていたわけではない。
もっと普通の道もあったはずだ。
普通に働いて、普通に生活して、普通に歳を取って。
ところが、どこかで選択を間違えたのか、あるいは間違えていなかったのか。
気がついたら、死者の髪についた砂を水で流している。
生きている人間なら美容室で、
「もう少し弱めでお願いします」
と言うところを、こちらは相手が何も言わない。
砂が取れれば、それでいい。
髪の毛が残れば、なおいい。
そんな仕事をしている。
人生というのは、本当に分からない。
選択したときには、それがどこへつながっているのかなんて分からない。
正解だったのか、間違いだったのかも、その場では分からない。
後になって振り返って、
「あれが分岐点だったのか」
と気づくことがあるだけだ。
そして、たぶん私の場合もそうだった。
なぜ死体業を選んだのか。
いまだによく分からない。
何か立派な使命感があったわけでもない。
人の役に立ちたいという崇高な気持ちだけで続けられるほど、きれいな仕事でもない。
臭いもある。
重いこともある。
しんどいこともある。
亡くなった人だけではなく、残された家族の悲しみまで目の前にする。
正直、逃げ出したくなることだってある。
それでも、目の前の故人が少しずつ生前の姿を取り戻していくと、
「まあ、これも悪くないか」
と思う瞬間がある。
人生の選択なんて、案外そんなものなのかもしれない。
最初から正解を選んでいるわけではない。
選んだ道を、あとから自分なりに納得できる形にしていく。
それが人生なのかもしれない。
……などと、ちょっと格好いいことを考えてみた。
でも、結局のところ、
「私はなんで死体業を選んだんだ?」
という疑問は残る。
答えは出ない。
出ないまま、今日も仕事をする。
そして、誰かが人生の最後に着る服を選び、髪についた砂を取り、できるだけ元の姿に戻して送り出す。
それが私の選んだ道らしい。
人生は選択の連続。
その先に何があるかなんて、誰にも分からない。
ただ一つ言えるのは――
海に入るときは、くれぐれも気をつけたほうがいい。
そして私は、
「死体業を選んだ理由」
については、いまだに分からない。
んー。
分からん!
……まあ、選んでしまったものは仕方がない。
今日も仕事だ。





