特殊清掃「遺体痛い? 」を更新いたしました。
遺体痛い?
「死んだら、もう何も感じない。」
理屈では分かっている。
心臓は止まり、脳も活動を終え、痛覚も意識も消えている。だから、解剖されようが火葬されようが、本人は痛くも痒くもない。
……そう頭では理解している。
それなのに私は、解剖された遺体を見るたびに、胸の奥がザワつく。
もちろん、法医学解剖には大きな意味がある。
事件なのか事故なのか。
自殺なのか他殺なのか。
あるいは、遺族が知らない病気が隠れていなかったか。
亡くなった人が最後に社会へ残す「証言」を読み解く、大切な仕事だ。
だから私は、法医学解剖そのものを否定するつもりはまったくない。
むしろ必要不可欠な仕事だと思っている。
ただ……。
「必要」と「見ていて平気」は、まったく別問題なのである。
私は仕事柄、一般の人なら一生見ないような現場を数多く経験してきた。
孤独死。
腐乱死体。
事故現場。
特殊清掃。
普通なら食欲を失うような光景も、それなりに見てきた。
友人からは、
「もう何を見ても驚かないでしょ?」
などと言われる。
いやいや。
そんなわけがない。
人間、慣れるものと慣れないものがある。
ゴキブリには多少慣れても、真夏の腐敗臭には慣れない。
腐乱液にも慣れない。
そして、解剖にも慣れない。
いや、正確には「慣れたくない」。
仕事だから見なければならないものと、人として慣れてしまってはいけないものは違うと思っている。
そんな私が以前、ある施設で検死解剖を見学する機会を得た。
「百聞は一見にしかず。」
そう思ったからだ。
特殊清掃をしている以上、人が亡くなった後の流れを知っておくことは決して無駄ではない。
現場で遺体が発見され、その後どうなるのか。
警察は何を調べ、医師は何を見ているのか。
それを知れば、今後の仕事にも役立つかもしれない。
多少の怖さはあったが、それ以上に知識欲のほうが勝っていた。
しかし、その日見た光景は、知識欲を満たすどころか、私の死生観そのものを揺さぶることになった。
運ばれてきたのは、一人の高齢男性だった。
川で発見された遺体である。
事故なのか。
自殺なのか。
それとも事件なのか。
その答えを探すため、警察車両で解剖室へ運ばれてきた。
顔は穏やかだった。
眠っているように見えなくもない。
もちろん亡くなっていることは分かっている。
それでも、人の顔というものは不思議で、さっきまで生きていたような錯覚を覚えてしまう。
私はガラス越しに見学する立場だった。
直接立ち会うわけではない。
臭いも届かない。
血が飛ぶこともない。
言わば、一番安全な「特等席」である。
ところが、そのガラス一枚が、心理的にはとてつもなく薄かった。
向こう側で始まる作業の一つ一つが、私の想像を軽々と超えてきたのである。
もちろん、医師にとっては日常なのだろう。
毎日のように行う仕事だ。
手際が良くなるのも当然である。
しかし、その「慣れ」が、私には妙に冷たく映った。
それは料理人が魚をさばく手際にも似ていた。
あるいは熟練した大工が木材を加工するようなリズムにも見えた。
もちろん魚屋さんや大工さんを悪く言うつもりはない。
あくまで比喩である。
ただ、目の前に横たわっているのは木材でも魚でもない。
数日前まで、いや数時間前まで人生を生きていた、一人の人間なのである。
家族がいて。
友人がいて。
笑った日もあれば怒った日もあったはずだ。
そう考える私と、目の前で淡々と作業を進める医師との温度差に、私は早くも戸惑い始めていた。
「これがプロなのか。」
「いや、プロだからこそ感情を切り離しているのか。」
頭では理解しようとする。
しかし心は追いつかない。
そんな葛藤を抱えながら、私はガラス越しに、その後始まる解剖を見続けることになった。
解剖室という場所は、不思議な空間だった。
静かなのに落ち着かない。
病院の手術室とも違う。
ドラマで見るような緊迫感もない。
むしろ、驚くほど淡々としている。
そこには悲鳴も涙もない。
あるのは「仕事」が始まる前の空気だけだった。
私はガラス越しに、その様子を見つめていた。
「これから始まる。」
そう思うと、妙に喉が渇く。
特殊清掃の現場でも、最初の一歩は緊張する。
ドアを開けるまで、部屋の中がどんな状況なのか分からないからだ。
しかし今回は違う。
目の前にあるのは、すでに亡くなった一人の男性。
これから行われるのは救命ではない。
死因を明らかにするための調査である。
頭では理解している。
理解しているのだが、感情は別問題だった。
担当医は慣れた様子で準備を進めていく。
助手も無駄な動きがない。
言葉数も少ない。
必要な確認だけを交わし、作業は流れるように進んでいく。
「これが日常なのだろう。」
そう思った。
消防士が火災現場へ向かうように。
警察官が事件現場へ向かうように。
彼らにとっては、特別な一日ではない。
今日も昨日と同じ仕事。
明日もまた同じ仕事。
そう考えれば、感情を毎回大きく動かしていては務まらないのかもしれない。
私だって、特殊清掃を始めた頃は違った。
初めて孤独死の現場へ入った日は、部屋を出てもしばらく食事ができなかった。
それが十件、二十件と経験を重ねるうちに、まず作業手順を考えるようになった。
臭気対策。
害虫対策。
搬出経路。
近隣への配慮。
もちろん亡くなった方への敬意は忘れない。
だが、感情だけでは仕事にならない。
そんな自分の変化を思い出しながら、私は目の前の医師を見ていた。
だからこそ、余計に複雑だった。
「慣れること」と「慣れすぎること」。
その境界線はどこにあるのだろう。
私には分からなかった。
作業は非常に効率的だった。
必要な確認を行い、記録を取り、助手がそれを補助する。
一つひとつの工程には意味がある。
死亡の経緯を科学的に読み解くためには、曖昧さは許されない。
ドラマのような名推理ではなく、積み重ねられた事実だけが答えになる。
その世界では、感情より証拠が優先される。
私はそれを理解しようとしていた。
しかし同時に、心のどこかでは違和感も膨らんでいく。
「もし、この人が自分の父だったら。」
「もし親友だったら。」
そんな考えが、何度も頭をよぎる。
もちろん、担当医は遺族の前ではない。
仕事として最善を尽くしているだけなのだろう。
それでも、見学者である私には、その手際の良さがどこか機械的に映ってしまった。
たぶん、問題は医師ではない。
問題は私自身だった。
私は「亡くなった人」に対して、まだ生きていた頃の面影を重ねてしまう。
一方で、法医学者は「亡くなった人」から真実を読み解こうとする。
同じ人を見ていても、見えているものが違うのだ。
その違いに、私は戸惑っていた。
見学中、何度か目を逸らした。
特殊清掃では目を逸らさない私が、である。
ガラス越しなのに、なぜか距離を感じない。
いや、ガラス一枚しか隔てていないからこそ、生々しかったのかもしれない。
「もう十分だ。」
そう思う瞬間もあった。
しかし視線を外せない。
人間には、不思議な好奇心がある。
怖いもの見たさと言えば聞こえは悪いが、現実を知りたいという気持ちも確かに存在する。
私は、その二つの感情の間で揺れていた。
解剖が終わる頃には、疲れ切っていた。
体を動かしたわけでもない。
重い物を運んだわけでもない。
それなのに、何時間も炎天下で働いた後のような疲労感があった。
精神的に消耗していたのだろう。
解剖室を出ると、外の空気が妙においしく感じた。
深呼吸を一つ。
「生きているって、肺が勝手に仕事をしてくれているんだな。」
そんな当たり前のことに気付く。
人間は普段、自分が呼吸していることすら意識しない。
しかし死を目の前にすると、その「当たり前」が急にありがたく思えてくる。
私は缶コーヒーを一本買った。
一口飲んで、思わず苦笑する。
さっきまで「死」について考えていたのに、今は缶コーヒーの温度が気になっている。
人間というのは案外単純だ。
いや、それくらいでいいのかもしれない。
死ばかり考えていたら、生きることまで重たくなってしまう。
それでも、あの日ガラス一枚の向こうで見た光景は、今でも私の中に残り続けている。
あの場所で見たのは、遺体ではなく、人が亡くなった後にも続く「仕事」と、その仕事を支える人たちの現実だった。
そして同時に、自分はその現実をどう受け止めればいいのか――その答えは、いまも見つかっていない。
解剖見学の日からしばらく経った後、私はその担当医と話をする機会があった。
正直に言えば、少し身構えていた。
あの日、ガラス越しに見た姿が強烈に印象に残っていたからだ。
淡々と仕事を進める姿。
迷いのない動き。
必要なことだけを処理していくように見える態度。
もちろん、短い見学時間だけで、その人のすべてが分かるわけではない。
人間というものは、たった一場面だけ切り取れば、誰でも冷たく見えることがある。
私自身だってそうだ。
特殊清掃の現場で、初めて会う人から見れば、おそらく「亡くなった人の部屋を平気で片付けている変わった人間」に見えるだろう。
しかし、実際には違う。
作業をしている間も、その部屋で最後まで生活していた人のことを考えている。
なぜここで亡くなったのか。
どんな人生だったのか。
誰かが最後に会いに来たのか。
冷蔵庫の中に残った食材一つにも、その人の日常が見えることがある。
だから私は、解剖医にも同じようなものがあるのではないかと思っていた。
外から見える姿と、本人の中にあるものは違うのかもしれない。
そんな期待も少しあった。
しかし、話をしてみて、私の中に残った感情は複雑だった。
医学的な知識。
経験。
判断力。
どれを取っても、その人が専門家であることは間違いない。
長年、多くの死と向き合ってきた人間としての自信も感じられた。
だが、その一方で、私にはどうしても馴染めない部分もあった。
亡くなった人について語る時の距離感。
死を扱う仕事への向き合い方。
そこに、私とは違う感覚を感じた。
「死者をどう見るか。」
これは、正解がある問題ではない。
ある人にとっては、亡くなった瞬間から「医学的な検体」として見る必要がある。
そうしなければ、正確な判断はできない。
一方で、ある人にとっては、亡くなった後も最後まで「一人の人間」である。
私は後者の感覚が強かったのだと思う。
だからこそ、あの日の光景が引っかかった。
ただ、今になって考えると、私は少し自分勝手だったのかもしれない。
私は遺体を見る時間が限定されている。
しかし、解剖医は毎日のように死と向き合っている。
一人ひとりの人生を想像していたら、精神的に耐えられない仕事なのかもしれない。
感情を一定の場所に置いておかなければ、続けられない職業もある。
消防士が燃え盛る家の前で冷静でいるように。
救急隊員が血を見るたびに動揺していたら救える命も救えないように。
専門職には、ある種の「心の防護服」が必要なのだろう。
そう考えるようになってから、私は少し見方が変わった。
とはいえ、同時にこうも思う。
防護服を着ているからといって、中身まで忘れてはいけないのではないか。
死を扱う仕事だからこそ、亡くなった人への敬意を失ってはいけない。
これは医師だけではない。
私自身にも言えることである。
特殊清掃という仕事も、慣れとの戦いだ。
最初は強烈だった臭いも、何度も経験すると「作業対象」として処理できるようになる。
しかし、そこで亡くなった人まで「ただの現場」にしてしまったら、自分がこの仕事をしている意味がなくなる。
部屋をきれいにするだけなら、清掃業者なら誰でもできる。
私たちが向き合っているのは、汚れではない。
そこに残された人生である。
そう考えると、解剖も特殊清掃も、本質的には似ているのかもしれない。
どちらも、亡くなった後に残されたものを扱う仕事だ。
違うのは、その向き合い方だけなのだろう。
あの日以来、私は「死んだ後、自分はどう扱われるのだろう」と考えることが増えた。
できれば解剖はされたくない。
もちろん、事件や事故の解明に必要なら仕方がない。
社会のためになるなら、それを拒む理由はない。
ただ、個人的な感情としては、できることなら静かに終わりたい。
人間というのは勝手なもので、生きている間は健康診断の結果に一喜一憂し、少しでも長生きしたいと思う。
しかし死んだ後になると、
「なるべくそっとしておいてほしい」
と思ってしまう。
矛盾している。
でも、それが人間なのだと思う。
死んだ後の自分には、もう何も分からない。
痛みもない。
恥ずかしさもない。
怒ることもできない。
それでも、生きている側の人間には想像力がある。
「もし自分だったら。」
「もし家族だったら。」
その想像力こそが、亡くなった人への最後の礼儀なのではないかと思う。
解剖は必要な仕事である。
法医学者も必要な存在である。
そして、多くの医師や関係者が、責任と使命感を持って仕事をしていることも分かっている。
あの日見た一人の医師の姿だけで、すべてを判断することはできない。
ただ、私自身が感じた違和感もまた、嘘ではない。
人間は死を前にすると、その人の本質が少し見える。
死者に対する態度。
弱い立場の存在への接し方。
誰にも見られていない場所で何をするか。
そこに、その人間の価値観が表れるような気がする。
私はこれからも、死と向き合う仕事を続けていく。
孤独死の現場にも行くだろう。
悲しい現実を見ることもあるだろう。
そのたびに思い出すと思う。
人は最後まで、人である。
亡くなった瞬間に「物」になるわけではない。
肉体は役割を終えても、そこには確かに人生があった。
だから私は、これからも遺されたものを扱う時だけは、慣れすぎないようにしたい。
少し怖いと思うくらいでいい。
少し悲しいと思うくらいでいい。
その感覚を失った時、自分もまた、ただ作業をこなすだけの人間になってしまう気がするからだ。
あの日、解剖室のガラス越しに見た光景は、私に死の現実を教えてくれた。
しかし同時に、生きている今をどう過ごすかも教えてくれた。
結局、人間は死を見つめることで、生を考える生き物なのかもしれない。
そして最後に一つだけ。
できれば私は、死んだ後くらいは静かに眠っていたい。
解剖されることなく。
新聞紙のお世話になることもなく。
家族には「面倒くさい人だったけど、最後くらいは穏やかだったね」と笑ってもらえるくらいがちょうどいい。
人間、最後まで欲張りなものである。





