特殊清掃「酒と遺書」を更新いたしました。
酒と遺書
私の仕事においては、自殺遺体や自殺現場に遭遇することは、決して珍しいことではない。
一般の人なら、一生のうちに一度も遭遇しないかもしれない光景を、私は仕事として見ることがある。もちろん、だからといって「死体を見るのに慣れている」などと簡単に言ってしまうのも違う気がする。死体そのものに慣れるというより、「そこに死体がある」という状況に対する自分の反応が、少しずつ変化してきた、という方が正確なのだと思う。
昔は、自殺には通常の死とは違った感覚を覚えていた。
変な言い方になるかもしれないが、時に新鮮だったり、時に不気味だったり、時に憤ったり、時に同情したり、時に緊張したり、時に興奮したり。
人が亡くなっているのだから、もっと一様に悲しいものだと思っていた。しかし実際には、そう単純ではない。
現場に立てば、いろいろな感情が勝手に湧いてくる。
「なぜ、こんなことをしたんだろう」
「ここで何を考えていたんだろう」
「家族はどう思うだろう」
「この人は最後に何を見ていたんだろう」
そんなことを考える。
そして、考えたところで答えは出ない。
本人はもう答えてくれないからだ。
いいのか悪いのか分からないが、今は、自殺遺体や自殺現場に慣れてしまった自分がいる。
もちろん、慣れたから平気というわけではない。むしろ、平気な顔をして仕事をしなければならない場面が増えた、と言った方が近いかもしれない。
自殺現場となると、遺族からの依存度も高い。
「どうしたらいいですか」
「何をすればいいですか」
「これで大丈夫でしょうか」
そう尋ねられれば、こちらも何とか応えなければならない。
そこで、妙に張り切ってしまう自分がいる。
沈んでいる遺族を前にして、自分まで一緒に沈んでしまっては仕事にならない。だから、少し声を張り、少しテンションを上げ、必要以上にテキパキ動く。
「大丈夫です。こちらでやりますから」
などと言っている自分がいる。
その瞬間だけ見れば、ずいぶん頼もしい人間である。
しかし、後になって考える。
――俺、ちょっとテンション高すぎなかったか?
葬儀や死体を扱う仕事で、テンション高めというのも、なかなか微妙な職業的個性である。
職業柄、仕方のないことなのかもしれない。
でも、明らかに一般の人と比べて、死に対する感覚が異なっている自分がいる。
それを自覚しているからこそ、ときどき自分自身に対して少し怖くなる。
人間は、慣れる生き物だ。
最初は耐えられなかったものでも、何度も見ているうちに対応できるようになる。
それは仕事をする上では必要な能力なのだろう。
ただし、「慣れること」と「分かること」は別だ。
何度自殺現場を見ても、自殺した人の気持ちが分かるわけではない。
むしろ、見れば見るほど「分からない」ということだけが分かってくる。
自殺を大きく分類すると、衝動的なものと計画的なもの、そしてその両方を兼ね備えたものに分かれると思う。
もちろん、専門家でもない私が簡単に分類できるほど、人間の心は単純ではない。
人間というものは、分類しようとすると、すぐに分類からはみ出してくる。
「計画的だったけれど最後は衝動的だった」とか、「衝動的に見えるけれど実は長い間考えていた」とか、いくらでもありそうだ。
衝動的な自殺と計画的な自殺を判別する材料はいろいろあるだろう。
身辺整理をした形跡。
遺書の有無。
家族への連絡。
財産や仕事の整理。
部屋の状態。
残されたもの。
そういったものから、亡くなった人が最後に何を考えていたのかを推測することになる。
私の経験では、明らかに身辺整理をしたような形跡があった現場はなかった。
もちろん、整理整頓された部屋を、故人の死後に警察や遺族が動いたことで散らかしてしまった可能性も大きい。
そもそも、死ぬ前に部屋をきれいにする人ばかりではない。
最後の日だからといって、大掃除を始めるとは限らない。
「明日死ぬかもしれないから、まず冷蔵庫の中の賞味期限切れの納豆を処分しておこう」
そんな殊勝な人間ばかりだったら、世の中はもっと整然としている。
実際には、人間は最後まで人間である。
机の上に書類を放置したまま、靴下を脱ぎっぱなしにしたまま、洗い物を残したまま、あるいは部屋をそれほど片付けることなく亡くなることもある。
人生の最後だからといって、生活感が消えるわけではない。
むしろ、最後まで生活感が残っている。
そのことが、かえって生々しい。
また、私は遺書を直接見たことはない。
遺書の存在や内容を、遺族や関係者から聞かされることはある。
遺書にもいろいろあるようだ。
短いメモ書き程度のもの。
これから死ぬ人間が書いたとは思えないほど、しっかりした文章。
残される人に遺志を託すもの。
残される人のことを案じるもの。
謝罪。
感謝。
恨み。
説明。
そして、何も書かれていないもの。
一枚の紙に、人生の最後の言葉が詰め込まれている場合もあれば、拍子抜けするほど短い場合もある。
そこに何が書いてあるかによって、残された人の受け止め方も大きく変わるのだろう。
ただ、どれほど長い遺書であっても、そこに書かれている文章だけで、その人のすべてが分かるわけではない。
遺書は人生の説明書ではない。
最後に書かれた文章だからといって、それが「真実のすべて」だとも限らない。
人間は死ぬ直前まで揺れる。
だからこそ、遺書に書かれた言葉もまた、その人の人生の一断面なのだと思う。
自分が死んだ後のことを憂いながら、それでも自ら死を選ぶ。
これは、外から見ている人間には、とても理解しにくい。
私も好き勝手な憶測で文章を書いている。
「あの人は、こうだったのではないか」
「最後は、こういう気持ちだったのではないか」
と考える。
しかし、どれだけ考えても、真の理由は本人にしか分からない。
その本人がもういない。
これは、とても淋しい現実である。
遺体の傍に、酒の空瓶や空缶が転がっている現場がある。
私は、そういう現場を見ると、少し複雑な気持ちになる。
もちろん、それだけで「酒を飲んで自殺した」と断定できるわけではない。
単純に酒が好きだっただけかもしれない。
普段から飲んでいたのかもしれない。
亡くなる前にたまたま飲んでいただけかもしれない。
それでも、酒を煽ったような跡がある現場を見ると、私は少しの戸惑いと、嫌悪感のようなものを覚える。
「酒の力を借りなければ、自殺できなかったのか……」
と思ってしまうからだ。
そして、その次に、
「だったら、生きてりゃよかったのに……」
と思ってしまう。
なんとも勝手な感想である。
本人からすれば、
「そんな簡単な話じゃない」
と言いたいだろう。
ごもっともである。
こちらは生きている側だから、何とでも言える。
酒を飲みながら、
「死ぬくらいなら生きればいい」
などと言っている人間がいたら、かなり説得力がない。
しかも酒瓶を片手にそんなことを言えば、説得力はさらに半減する。
私自身、この文章を書きながら、自分の矛盾に気づいている。
死を選んだ人を理解しようとしながら、「だったら死ななければよかった」と思う。
自殺を否定しようとする自分と、そこまで追い込まれた人間の気持ちを理解しようとする自分がいる。
どちらも自分である。
どちらか一方だけが正しいとも思えない。
酒を飲んでいるから衝動的だったのか。
酒を飲むことまで含めて計画していたのか。
その判断だって、私にはできない。
もしかしたら、死ぬこと自体はずっと前から考えていて、最後の一歩を踏み出す勇気がどうしても出ず、酒の力を借りたのかもしれない。
だとしたら、それは計画的なのか、衝動的なのか。
どちらとも言えるし、どちらとも言えない。
そもそも、人間の心を二択で分類しようとすること自体が無理なのかもしれない。
「計画的自殺」
「衝動的自殺」
と名前をつければ理解したような気になる。
しかし、その言葉の中にいるのは、分類できる標本ではなく、一人の人間である。
「だったら自殺なんかしなきゃいいじゃないか」
と思うのは正しいことなのだろうか。
「死ぬ気になったら何だってできる」
と言うのは健全なのだろうか。
私は、どちらにも違和感がある。
「死ぬ気になったら何だってできる」
という言葉は、元気な人間が聞けば、とても前向きで力強い。
しかし、死ぬほど苦しんでいる人間からすれば、
「何でもやらなきゃいけないのなら、死んだ方がマシだ」
という話になることもある。
だから、死ぬ気になった人に「死ぬ気になれば何だってできる」と言うのは、少し乱暴なのだと思う。
本人はもう十分に「死ぬ気」なのだ。
それほどまでに追い詰められている。
その状態の人間に、こちら側の常識や元気なときの理屈をぶつけても、簡単には届かない。
自殺を考える人にとって、死は「終わり」だけではないのかもしれない。
楽になれること。
苦難から逃れられること。
苦しみを終わらせること。
場合によっては、ウサを晴らすこと。
残される人に何かを伝えること。
自分の存在を最後に認めさせること。
外から見れば「死んでしまうなんて」と思うことでも、本人にとっては、他の選択肢がすべて潰れてしまった末の選択に見えているのかもしれない。
もちろん、それを肯定したいわけではない。
私は自殺を美しいものにしたいわけでもない。
むしろ、仕事を通して死を見てきたからこそ、自殺というものを美化する気にはなれない。
死んだ本人は苦しみから解放されたのかもしれない。
しかし、残された人間の苦しみは、そこで始まることがある。
「なぜ?」
「何かできたのではないか?」
「もっと話を聞けばよかった」
「自分のせいではないか」
そんな問いを、遺族は長い間抱えることになる。
だから私は、自殺について簡単に「本人の自由だ」とも言えない。
かといって、「絶対に自殺してはいけない」と、外側から正論だけを振りかざすことにも躊躇する。
その間で、ずっとモヤモヤしている。
たぶん、そのモヤモヤを簡単に解消しない方がいいのだと思う。
分かったような顔をしない。
正解を作らない。
「自殺する人の気持ちはこうだ」と決めつけない。
分からないものは、分からないまま抱えておく。
それも、生きている側にできることなのかもしれない。
そんな私だが、遺書を書いてある。
正確には、遺言を書いている。
そして、書き続けている。
親しい友人・知人には、自分が死んだ後にどうしてほしいかを伝えてある。
希望する葬式の仕様まで残してある。
「そこまで細かく決めるか?」と思われるかもしれない。
しかし、葬式というものは、本人がいなくなってから始まる。
本人が口を出せない。
だからこそ、口を出せるうちに出しておく。
「あれは嫌だ」
「これはこうしてほしい」
「ここはこうしてくれ」
などと書いておく。
死んだ後まで注文の多い客である。
ただ、今の私は自殺願望があるわけではない。
むしろ逆である。
私にとって遺書は「死ぬための準備」ではなく、「生きるための確認」なのだ。
遺書を書こうとすると、いろいろなことを考える。
自分にとって大切な人は誰なのか。
何を残したいのか。
何はどうでもいいのか。
本当に大切にしたいものは何なのか。
誰に感謝しているのか。
誰に謝りたいのか。
死んだ後に、誰に何を伝えてほしいのか。
そんなことを考えていると、自分の価値観が少しずつ見えてくる。
普段の生活では、「大切なもの」なんて、いちいち考えない。
仕事があって、飯を食って、酒を飲んで、寝て、また仕事をする。
それで一日が終わる。
人生なんて、だいたいそんなものである。
ところが「自分が死んだら」と考えてみると、急に余計なものが剥がれていく。
高価な時計が欲しいとか、立派な肩書が欲しいとか、誰かに認められたいとか、そういうものが意外とどうでもよくなる。
最後に残るのは、
「この人にはちゃんとありがとうと言いたい」
「この人には迷惑をかけたな」
「これは大切にしておきたい」
という、ごく普通の感情だったりする。
だから私は、読者にも遺書を書いてみることを勧めたい。
ただし、ここでいう遺書は、「もう死ぬから書こう」という意味ではない。
むしろ、「まだ生きているから書いてみる」という意味である。
誕生日に合わせて、一年に一度書き直してみるのもいい。
「今年の自分は何を大切にしているのか」
を確認するためだ。
去年は大事だったものが、今年はどうでもよくなっているかもしれない。
逆に、去年はどうでもいいと思っていた人が、今年になって妙に大切になっているかもしれない。
人間の価値観なんて、その程度には変わる。
だから、遺書も毎年書き換えればいい。
「去年の俺、何をそんなに怒ってたんだ?」
と笑えるなら、それだけでもかなり意味がある。
遺書という名前が重すぎるなら、「人生の引き継ぎ書」でも「死後のお願いメモ」でもいい。
名前なんてどうでもいい。
大切なのは、自分の人生について立ち止まって考えることだ。
私は、死をたくさん見てきた。
だから、生きることについて特別なことを言える人間だとは思っていない。
むしろ、死を見れば見るほど、生きることについて偉そうなことを言えなくなった。
人は簡単に死ぬ。
そして、死んだ後に残された人間は、簡単には元に戻らない。
だからこそ、「生きろ」と簡単に言いたくない。
「頑張れ」とも簡単には言いたくない。
頑張りすぎた結果、死にたいと思う人もいるからだ。
「死ぬ気になったら何でもできる」という言葉も、私は以前ほど信用しなくなった。
死ぬ気になった人に必要なのは、何でもすることではない。
何もしなくていい時間なのかもしれない。
酒を飲んで勢いをつけることでもない。
誰かに話をすることかもしれない。
眠ることかもしれない。
逃げることかもしれない。
仕事を辞めることかもしれない。
一晩だけ結論を先送りすることかもしれない。
あるいは、遺書を書くことかもしれない。
ただし、遺書を書いたからといって、一人で死ぬ決断を完成させる必要はない。
むしろ、書いたものを読み返してみればいい。
そこに名前を書いた人に連絡してみてもいい。
「こんなものを書いてしまった」と誰かに見せてもいい。
遺書を書いたつもりが、いつの間にか手紙になっているかもしれない。
「死んだらこうしてほしい」
と書いていたはずなのに、
「そういえば、まだあの人にこれを伝えていなかった」
と気づくかもしれない。
「この人には迷惑をかけたな」
と思うかもしれない。
「これはもう一度見ておきたい」
と思うかもしれない。
「この酒、死ぬ前に飲むんじゃなくて、普通に飲みながら話せばいいじゃないか」
と思うかもしれない。
人生なんて、案外そんなところから予定が狂う。
私はそれでいいと思う。
遺体の傍に酒の空瓶があると、私は今でも思う。
「酒の力を借りなければ、自殺できなかったのか……」
そして、
「だったら、生きてりゃよかったのに……」
と。
それは、亡くなった人を責める言葉なのかもしれない。
生きている側の勝手な言葉なのかもしれない。
正しいとも思わない。
でも、そう思ってしまう。
だからこそ、この仕事をしている人間として、私はそのモヤモヤを大事にしておきたい。
「死にたくなるほど苦しかった人」の気持ちを分かったふりもしない。
「そんなことで死ぬな」と簡単に切り捨てもしない。
自殺を肯定もしないし、きれいごとだけで否定もしない。
分からないまま、考え続ける。
それが今の私にできることなのだと思う。
そして、自分自身について言えば、死ぬためではなく、生きるために遺書を書く。
一年に一度くらい、自分の人生を棚卸しする。
「俺は誰に世話になった?」
「何を大事にしている?」
「誰にありがとうと言いたい?」
「死んだ後、何をしてほしい?」
そんなことを書いていると、不思議なことに、「じゃあ、もう少し生きてみるか」という気持ちになる。
遺書を書くという行為が、死への準備ではなく、生への再確認になることがある。
だから、もし「遺書を書こう」と思ったのなら、すぐに死ぬための文章にしなくてもいい。
まず、自分が大切にしているものを書いてみればいい。
会いたい人を書いてみればいい。
ありがとうと言いたい人を書いてみればいい。
食べたいものを書いてみてもいい。
行きたい場所を書いてもいい。
「死んだ後は、俺の部屋を勝手に片付けるな。あの箱だけは捨てるな」
そんなくだらないことでもいい。
くだらないことが残っているということは、まだ人生が生活の中にあるということだから。
死ぬことを考えているとき、人は人生を「終わらせるもの」として見てしまう。
でも、遺書を書くことで、逆に人生を「誰かに渡していくもの」として見ることができるかもしれない。
もちろん、それだけで苦しみが消えるわけではない。
遺書を書いたら全部解決、なんていう便利な話でもない。
そんな簡単な人生なら、私だって苦労しない。
それでも、一度立ち止まる価値はある。
死ぬという結論を出す前に、自分が何を大切にしてきたのかを書いてみる。
できるだけ素直に。
できるだけ詳しく。
できるだけ格好をつけずに。
そして、できれば一人だけで抱え込まずに、誰かとつながっておく。
「死ぬ気になったら何だってできる」なんて大げさなことを言わなくてもいい。
死ぬ気になったら、何もしなくてもいい。
今日は結論を出さなくてもいい。
明日の自分に判断を任せてもいい。
酒を飲んで勢いをつけるくらいなら、酒は飲まずに、誰かに電話をしてみてもいい。
電話が嫌なら、短いメッセージでもいい。
「ちょっと今、しんどい」
それだけでもいい。
人生には、立派な言葉より、そんな一言の方が効くことがある。
そして、いつか気持ちが落ち着いたら、書いた遺書を読み返してみる。
きっと、そこには「死にたい自分」だけではなく、「本当は生きていたい自分」もいる。
その小さな声を、どうか見落とさないでほしい。
私は死体を見ながら、何度も「人間って何なんだろう」と考えてきた。
いまだに答えは出ない。
たぶん、一生出ない。
ただ一つ分かったことがある。
死んだ人間には、もう人生を書き換えることができない。
けれど、生きている人間には、それができる。
昨日までの自分がどんな人間だったとしても、今日の自分は少しだけ違う選択ができる。
遺書を書いた翌日に、書き直したっていい。
「やっぱり、まだ死ぬのはやめておこう」
と書き足したっていい。
そんな遺書があってもいい。
むしろ、そんな遺書の方が、私は好きだ。
死ぬための遺書ではなく、生きていくための遺書。
最後の言葉ではなく、毎年更新される人生の途中経過。
そう考えれば、遺書というものも、それほど縁起の悪いものではないのかもしれない。
少なくとも私は、そう思っている。
死にたくなったら、すぐに人生の結論を出さない。
まず紙に書いてみる。
自分は何が嫌なのか。
何が苦しいのか。
誰に会いたいのか。
誰にありがとうと言いたいのか。
何を残したいのか。
そして、その紙の最後に、
「本日のところは、これで保留」
と書いておけばいい。
人生なんて、意外と保留の連続である。
今日決めなくてもいいことは、明日に回せばいい。
明日になれば、また考えればいい。
酒の力を借りて死ぬくらいなら、酒は明日に回せばいい。
死ぬことだって、明日に回していい。
明日になったら、また明日に回してもいい。
そうやって、ずるずる生きてしまえばいい。
人生なんて、案外そのくらいでいいのだと思う。
そして、もし遺書を書くのなら。
死ぬためではなく、生きるために書こう。
自分にとって大事な人は誰なのか。
何が大切なのか。
何を愛してきたのか。
何をこれから大切にしたいのか。
遺書を書けば、自分の価値観の「真(芯)」が、少しだけ見えてくる。
そして、生き方が少しだけ変わる。
私は、そういう遺書なら、何度書き直してもいいと思っている。





