特殊清掃「ちょっとドキッ!」を更新いたしました。
ちょっとドキッ!
遺体を扱う仕事をしていると、「怖くないんですか?」と聞かれることがある。
もちろん、怖い。
ただし、普通の人が「怖い」と感じるポイントと、私が「ちょっとドキッ」とするポイントは、どうも少し違うらしい。
幽霊が出るとか、死者の祟りがあるとか、そういう話ではない。私は幽霊を見たことがないし、死者が突然立ち上がったこともない。少なくとも、私が仕事をしている範囲では一度もない。
それでも、遺体を前にして「おっ」と思う瞬間はある。
死というものに慣れているつもりでも、身体のほうが先に反応する。
人間というのは、なかなか理屈どおりにはいかない。
遺体の眼がパッチリ開いていたとき
薄目を開けている遺体は、珍しいことではない。
完全に目蓋が開いている遺体も、決して少なくない。
死後は筋肉の緊張がなくなったり、時間の経過とともに身体にさまざまな変化が起こったりする。その結果、眼球の位置が変わって目蓋が開いてしまうことがある。
理屈としては分かっている。
分かっているのだが、面布を取った瞬間にパッチリと眼が開いていると、
「おお……」
となる。
やはり眼というものは、人間の存在感を強烈に感じさせる器官なのだと思う。
寝ている人の眼が閉じているのは当たり前だし、亡くなった人の眼も閉じているものだという、妙な先入観が私たちにはあるらしい。
だから、開いていると一瞬だけ「こちらを見ている」という錯覚が生まれる。
もちろん、見ていない。
見ているはずがない。
それでも、一瞬だけ心臓が「ドキッ」とする。
そして遺族からは、ほぼ間違いなく、
「眼を閉じてもらえませんか」
と依頼される。
私の経験では、100%と言っていいくらいだ。
その気持ちはよく分かる。
「故人には穏やかな顔でいてほしい」
というのは、ごく自然な願いなのだろう。
こちらとしては、目蓋を閉じるのにも少し技術が必要なので、内心では、
「はいはい、今やりますよ」
と冷静に作業している。
ところが、その冷静さとは裏腹に、面布を取った瞬間だけは、
「うわ、今日も開いてる」
と、ほんの少しだけドキッとしている。
慣れたから平気。
そう単純にはいかないのが、人間なのだろう。
ロープがぶら下がっていたとき
自殺現場では、遺族がなかなか「自殺だった」と言い出せないことがある。
そのため、現場に出向いてから初めて事情を察することもある。
床などの汚染部分に目を奪われて作業していて、ふと顔を上げたら、そこにロープがぶら下がっている。
これは、ちょっと引く。
「えっ、これ何?」
となる。
そして無神経な私は、つい、
「自殺ですか?」
と聞いてしまう。
直球である。
ストレートすぎる。
言ってしまった直後、
「もう少し言い方があっただろう……」
と反省する。
でも、後から考えると、現場で変に遠回しな表現をするのも難しい。
「こちらのロープは……その……あれですか?」
などと言ったところで、余計に気まずい。
結局、人間はどんなに気を使っても、死という現実を前にすると言葉に詰まる。
「亡くなった」という言葉ですら重い。
「自殺」という言葉なら、なおさらだ。
だからこそ、言葉を扱う仕事ではない私が、時々とんでもなくストレートなことを言ってしまう。
そして後から一人反省会を開催する。
議題はいつも、
「もう少し気を使えなかったのか」
である。
遺体を落としてしまったとき
これは「ドキッ」では済まない。
「ギャッ!」
である。
以前、親しい知人のお母さんが亡くなったとき、病院から自宅まで遺体を運んだことがある。
車から遺体を降ろすとき、ストレッチャーの脚がうまく伸びなかった。
嫌な予感がした。
しかし、嫌な予感というものは、たいてい的中する。
担架ごと、遺体が地面に落ちた。
遺族から、
「キャーッ!」
という悲鳴。
同時に私も、声にならない悲鳴を上げた。
仕事をしていれば、ある程度のことには動じなくなる。
しかし、遺体を落とすことには慣れたくない。
というか、慣れてはいけない。
それに、落とした相手が親しい友人のお母さんだったから、友人も事情を分かってくれて、謝って済ませてくれた。
これが、まったく面識のない遺族だったら……。
考えるだけで冷汗が出る。
「申し訳ありません」
「はい、分かりました」
で済む話ではない。
こちらも青ざめる。
遺族も青ざめる。
たぶん、その場にいた全員の血圧だけは一時的に元気だったと思う。
遺体が声を出したとき
これも、理屈では説明できる。
遺体の口腔内にはガスや空気がたまっていることがある。
遺体を動かしたとき、それが口から抜ける。
すると、
「うー」
とか、
「ふうっ」
とか、
人によっては声のように聞こえる音が出ることがある。
もちろん、生き返ったわけではない。
頭では分かっている。
それでも、突然声がすると手が止まる。
「……今、声出した?」
と思う。
いや、出していない。
出しているように聞こえただけだ。
それでも一瞬、
「もしかして……」
という妄想が頭をよぎる。
もちろん、私の経験では生き返った遺体など一体もない。
ないのだが、人間の脳というのは面白い。
「絶対にあり得ない」と理解していることでも、ほんの一瞬だけ期待とも恐怖ともつかない反応をする。
だから、声がすると作業の手が止まる。
そして、
「……はいはい、ガスね」
と自分に言い聞かせる。
幽霊よりも、人体の構造のほうがよほど人間を驚かせる。
遺体が温かいとき
普通の人にとって、人間は温かくて柔らかいものだ。
私にとっては、冷たくて硬いのも人間である。
だから、亡くなって間もない人に触れたとき、身体がまだ温かいと、逆に少し戸惑う。
亡くなってから時間があまり経っていなかったり、保温性の高い状態で安置されていたりすると、体温が残っていることがある。
特に背中などは、外気に触れにくい。
触ると、
「あ、温かい」
となる。
そして、そこでちょっとドキッとする。
普通の人なら、冷たくて硬いものを触るほうが抵抗があるのかもしれない。
ところが私の場合は逆だ。
温かくて柔らかい。
しかし、その人は亡くなっている。
この組み合わせに、頭が一瞬ついてこない。
生きている人と死んでいる人の違いを、私たちは案外「体温」という感覚で判断しているのかもしれない。
だから、温かい遺体に触れると、頭の中で小さな警報が鳴る。
「温かいぞ」
「でも亡くなっているぞ」
「そうだった」
脳内会議は一瞬で終わる。
車にウジがいたとき
作業を終え、後片付けも済ませ、
「やれやれ、終わった」
と車に乗り込む。
ところが、座席を見ると、
ウジが一匹。
「……なんで?」
さっきまで現場にいたのだから、可能性としては分かる。
自分が連れてきたのかもしれない。
衣服についていたのかもしれない。
道具についていたのかもしれない。
そんなことを考えた瞬間、急に気持ち悪くなる。
「俺、どこかに付いてないか?」
と、自分の身体を見回す。
腕。
ズボン。
靴。
胸元。
首。
そして、
「まさか……」
と、さらに確認する。
ウジというものは、いるべき場所にいると、それほど気にならない。
仕事の現場なら、
「はいはい、いましたね」
くらいのものだ。
ところが、いるはずのない場所に突然いると、途端に異物になる。
人間の感覚とは不思議なものだ。
同じ一匹なのに、現場では仕事の一部。
車の座席では恐怖の対象。
そして自分の服の上だったりすると、完全に敵である。
街から腐敗臭がしたとき
腐敗臭というものは、経験を積むと分かるようになる。
もちろん、世の中にはいろいろな臭いがある。
ゴミ。
排気ガス。
排水。
動物。
夏場の何とも言えない街の臭い。
その中に、独特の臭いが混じることがある。
腐乱死体臭だ。
この臭いを知らない人には、たぶん説明しにくい。
そして、知ってしまうと困る。
街を歩いていて、突然、
「あれ?」
となるからだ。
気のせいかもしれない。
どこかのゴミ置き場かもしれない。
動物かもしれない。
実際、そのほとんどは気のせいで済む。
しかし、ときどき、
「これは……」
と確信してしまうほど濃い臭いがすることがある。
そうなると心臓が少し速くなる。
「どこだ?」
と思う。
しかし、深入りはしない。
冷酷なのかもしれない。
無責任なのかもしれない。
でも、私は迷わず不介入を選ぶ。
仕事と日常は、できるだけ分けたい。
それでも鼻は正直だ。
「また仕事か?」
と、勝手に警戒してしまう。
職業病とは、こういうことなのだろう。
トイレが真っ黒だったとき
死体の話ばかりしていると、「この人は何を見ても平気なんだろう」と思われるかもしれない。
そんなことはない。
トイレが真っ黒だったときは、普通に引く。
長いこと掃除されていないトイレは、ときに便器だけではなく、床、壁、天井まで黒くなる。
本当に黒い。
「誰かが黒いペンキでも塗ったのか?」
と思うほど黒い。
その正体はカビ。
恐るべし、カビ。
死体を見慣れた人間でも、カビには別の意味で恐怖を感じる。
何というか、
「これはもう掃除という言葉で解決できる範囲なのか?」
という絶望がある。
死体現場には終わりがある。
作業をすれば終わる。
しかし、長年放置されたトイレには、
「これ、どこから手を付ければいいんだ?」
という別の絶望がある。
死者には敬意を。
カビには消毒を。
それが私の基本姿勢である。
腐乱現場のドアを開けるとき
そして、一番ドキドキするのが、腐乱現場のドアを開ける瞬間だ。
中が見えない。
これが怖い。
ドアの向こうに何があるのか分からない。
どの程度の腐敗なのか。
部屋はどんな状態なのか。
どこまで汚染されているのか。
何が残されているのか。
何が待っているのか。
もちろん、「待っている」と言っても、誰かがこちらを待っているわけではない。
死者が、
「遅かったな」
などと言うわけでもない。
でも、分からない。
だからドキドキする。
そして、ほんの少しワクワクもする。
これは不謹慎だと思われるかもしれない。
しかし、偽善的に「私はいつも悲しみに寄り添い、何事にも動じません」などと言うつもりはない。
そんな立派な人間ではない。
臭いものは臭い。
怖いものは怖い。
遺体を落とせば焦る。
目がパッチリ開いていればドキッとする。
声がすれば手が止まる。
ウジが車にいれば気持ち悪い。
それが正直なところだ。
ただ、その一方で、死というものを扱う仕事をしていると、妙なことも考えるようになる。
人生は、案外短い。
どれだけ長く生きても、八十年、九十年、百年。
長いようで、終わってみれば一瞬なのかもしれない。
そして、生きている間は、その先に何が起こるのか誰にも分からない。
だから、人生は面白い。
次に何が起こるか分からないから面白い。
ドアを開けるまで、中がどうなっているのか分からない。
人生も、それと似ている。
毎日、知らないドアを一枚ずつ開けている。
仕事でもそうだ。
「今日はどんな現場だろう」
と考えながらドアを開ける。
そこには、想像もしなかった光景がある。
そして、人生でも同じだ。
「明日は何が起こるんだろう」
と思いながら生きていく。
もちろん、できれば嬉しいことが起きてほしい。
できれば、臭いものにも遭遇したくない。
できれば、遺体も落としたくない。
できれば、車の中でウジとも再会したくない。
できれば、目のパッチリ開いた遺体にも会いたくない。
……でも、何が起こるか分からない。
それが人生だ。
だから私は、今日も次のドアを開ける。
ドアの向こうに何があるのか分からない。
分からないからドキドキする。
分からないから、少しワクワクする。
そして、今まさに開けようとしているドアの隙間から、何やら液体がこちらへ流れてきている。
……腐敗液だ。
これはさすがにワクワクしない。
ドキドキする。
かなりドキドキする。
でも、それでいいのだと思う。
怖いものを怖いと感じる。
気持ち悪いものを気持ち悪いと感じる。
それでも、やるべきことをやる。
それが「慣れる」ということなのかもしれない。
死に慣れるのではない。
死を前にしても、自分の仕事を続けられるようになる。
そして、仕事が終われば、また生きている世界へ戻る。
温かい飯を食べて、風呂に入って、眠る。
明日になれば、また新しいドアがある。
さて。
次のドアの向こうには、どんな未来が待っているのだろう。
願わくば、できるだけ平和で、できるだけ臭くなく、できるだけウジのいない未来であってほしい。
……まあ、人生なんて、そんなに都合よくはいかない。
だからこそ、
ちょっとドキッ!
なのである。





