特殊清掃「苦悶」を更新いたしました。
苦悶
死ぬ瞬間って、どういう感覚を憶えるものなのだろうか。
「脳内アドレナリンが大量に発生して、快感の絶頂に到る」
そんな説を、昔どこかの本で読んだことがある。死の直前には脳内でさまざまな物質が放出され、苦痛を和らげたり、ある種の恍惚感をもたらしたりするのだという。
なるほど、そうなのかもしれない。
しかし、死んだ本人に「どうだった?」と訊くわけにもいかない。訊けたとしても、たぶん答えてはくれない。いや、答えられない。
結局のところ、死ぬ瞬間がどんなものなのか、本当のところは誰にも分からない。
少なくとも、生きている私たちには。
私が〇十数年間の人生で、一度だけ人が死ぬ瞬間を目の当たりにしたことがある。
幼少の頃、祖父が死んだときのことだ。
内臓疾患を患っていた祖父は、しばらく闘病生活を送った後、意識不明の危篤状態に陥った。
「もう危ない」
そんな連絡を受けて、家族みんなで急いで病院へ向かった。
病室に着いたとき、祖父は意識を失い、荒い呼吸を繰り返していた。
幼かった私は、何が起きているのかよく分かっていなかった。
ただ、いつもと違うことだけは分かった。
大人たちは妙に静かだった。
誰もが祖父の顔を見つめていた。
やがて、祖父は最期の息をゆっくりと吐いた。
そして、次の息を吸わなかった。
「死んだ」
大人の誰かが、そう言ったように思う。
それだけだった。
テレビドラマなら、そこで音楽が流れるところだろう。
家族が泣き崩れ、誰かが「おじいちゃん!」と叫び、カメラが窓の外へ引いていく。
しかし、現実の死は、意外なほど静かだった。
呼吸が止まった。
それだけで、そこにいた人間が「故人」になった。
幼い私は、その境目を理解できなかった。
ただ、その後に見た祖父の身体だけは、今でも妙に鮮明に記憶している。
黄疸で黄色く変色した身体。
腕には無数の内出血の痕。
そして、柩に入った祖父の身体の冷たさと固さ。
生きている人間の身体には、温かさと柔らかさがある。
死んだ身体には、それがない。
幼い私には、その違いが恐ろしくもあり、不思議でもあった。
「人間って、死ぬとこうなるんだ」
そんなことを、ぼんやり考えていたのだと思う。
まさか、その子どもが十数年後には、見ず知らずの人間の屍を、来る日も来る日も処置することになるとは。
人生というのは、本当に分からない。
「人生~ってぇぇぇ~、不思議な、もので~すね~♪」
思わず歌いたくなるくらい、不思議である。
いや、笑いごとではない。
でも、笑いごとではないことばかり考えていると、こちらの精神が先に参ってしまうので、ときどき笑ってしまう。
死体を扱う仕事というのは、どうしたって死を真正面から見る仕事である。
そして、死を真正面から見ていると、「死ぬ瞬間って苦しくないのだろうか」という疑問が、どうしても頭から離れなくなる。
苦悶の表情を浮かべている遺体を見かけることもある。
口を開けたままの遺体。
目を開けたままの遺体。
眉間に深いシワを寄せたままの遺体。
その顔だけを見ると、「最後はさぞ苦しかったのだろう」と思ってしまう。
しかし、本当にそうなのだろうか。
死の直前の表情なのか。
病気による苦痛の表情なのか。
筋肉が弛緩した結果なのか。
あるいは、死んだ後に残った単なる顔の形なのか。
生きている私たちには、もう確かめようがない。
死体の顔は、最後に本人が意識して作った表情とは限らない。
それなのに、私たちは死に顔を見て、「安らかだった」「苦しかったのだろう」と勝手に意味を読み取ってしまう。
人間というのは、顔を見ると、そこに物語を作りたくなる生き物なのだろう。
遺族から、
「何とかならないか」
「もう少し安らかな顔にしてほしい」
「苦しそうだから、何とかしてくれ」
と頼まれることもある。
もちろん、遺族の気持ちは分かる。
最後に見た顔が苦悶の表情をしていれば、つらいだろう。
頭では「亡くなった人の表情にすぎない」と分かっていても、感情はそう簡単には割り切れない。
だから、安らかな死に顔を望む。
ただ、個人的な主観を言わせてもらえば、その願いが必ずしも「故人のため」だけではないように感じることもある。
苦しそうな顔を見ているのがつらい。
怖い。
気持ち悪い。
人に見せるのが恥ずかしい。
そんな気持ちも、どこかに混ざっているのではないかと思う。
もちろん、それを責めるつもりはない。
遺族だって、初めて死体を目の前にすれば戸惑う。
「死んだ人間の顔」というものは、生きている人間にとって、それほど簡単に受け入れられるものではない。
だからこそ、誰かが「きれいな顔」にしてあげようとする。
誰が始めたのかは知らないが、世の中にはセロテープを使って、口を閉じたり、頬を引っ張ったりしている遺体も少なくない。
中には、まるでテレビタレントのモノマネ芸人のような顔になっていることもある。
失礼ながら、こちらが笑ってはいけないと思えば思うほど、妙に可笑しな表情になっていることがある。
もちろん、笑ってはいけない。
絶対に笑ってはいけない。
しかし、人間というのは、そういうときほど笑いがこみ上げてくる。
笑ってはいけない葬儀で、誰かが咳払いをした瞬間に笑いそうになる、あの感じに近い。
そして、極端なケースでは、顔にガムテープを貼り付けた遺体に遭遇したこともある。
しかも、親切にも、
「はがすな!」
と注意書きまでしてある。
いやいや。
「はがすな!」と言われましても、はがさないと仕事になりません。
仕事ですから。
ガムテープをはがしてみると、皮膚まで一緒についてくる。
本人はもう死んでいるので、「痛い!」とは言わない。
だからといって、痛々しくないわけではない。
むしろ、見ているこちらが痛い。
「生きている人間なら絶対にやらないことを、死んだ人間には平気でやってしまう」
そんな不思議な境界線が、死体を扱う現場には存在する。
死んだ瞬間から、人間は「人」でもあり、「遺体」でもある。
その二つの間を、残された人間が行ったり来たりしている。
しかし、テープを貼ったくらいで、人間の表情を自由自在に変えられるほど、顔というものは単純ではない。
顔には、それまで生きてきた時間がある。
笑った跡。
怒った跡。
泣いた跡。
苦労した跡。
眉間のシワだって、その人が長年生きてきた証拠なのだ。
専門的な技術を使えば、開いたままの目や口を閉じることは、それほど難しいことではない。
さらに特殊な技術を使えば、眉間のシワだって消すことができる。
しかし、私は安易に眉間のシワを消すことはしない。
なんとなく、故人の人格まで否定してしまうような気がするからだ。
「あなたの最後の顔は怖いから、こちらで勝手に笑顔にしておきました」
そんなことをするのは、少し違うのではないかと思う。
もちろん、遺族の要望も簡単には無視できない。
そこで私が取る方法は、少々原始的である。
眉間のシワに素手を当て、しばらくそのままにする。
イメージとしては、シワの寄った布にアイロンを当てて、ゆっくり伸ばすような感じだ。
もちろん、私に念力はない。
「南無〇〇〇〇……シワよ消えろ」
と念じたところで、消えるわけではない。
そもそも私は、そんな特殊能力を持っていない。
ただ、自分の手の温度を遺体に伝えているだけである。
非科学的。
原始的。
効率も悪い。
それでも、しばらく手を当てていると、少しだけシワが目立たなくなることがある。
完全には消えない。
消えなくてもいい。
私は、それくらいがちょうどいいと思っている。
その人が生きてきた時間まで、全部消してしまう必要はない。
苦悶の表情には、何かしらの理由がある。
それは、最期の瞬間を表しているのかもしれない。
病気との闘いを表しているのかもしれない。
長い人生の中で積み重ねてきた苦労が、たまたま最後の顔に残っているのかもしれない。
あるいは、何の意味もないのかもしれない。
死んだ人間は、もう説明してくれない。
だから、生きている人間が勝手に解釈するしかない。
「苦しそうだから、苦しい人生だった」
「穏やかな顔だから、幸せな人生だった」
そんな単純な話ではない。
笑顔で死ねる人が幸せな人生だったとも限らないし、眉間にシワを寄せた人が不幸な人生だったとも限らない。
顔一枚で、その人の人生を採点することなんてできない。
それでも、残された家族にとっては、その顔が最後の記憶になる。
だから「安らかな顔にしてほしい」と願う。
その気持ちは分かる。
でも、本当は死んだ人の顔を変えるよりも、生きている自分たちの心のほうを少し変えたほうがいいのかもしれない。
「苦しそうな顔をしているけど、この人は最後まで生きたんだ」
そう思えたら、それでいいのではないか。
「眉間にシワがあるけれど、それもこの人の顔だ」
そう思えたら、それでいいのではないか。
他人の喜びを、自分の喜びとする。
他人の苦しみを、自分の苦しみとする。
そんなことが簡単にできるわけではない。
まして、相手が遺体なら、もう本人の喜びも苦しみも聞くことはできない。
だからこそ、残された者が想像するしかない。
遺体というものは、生きている者に無言のメッセージを伝えてくれる。
それが苦悶の表情であっても、安らかな死に顔であっても。
「死ぬ」ということを教えてくれる。
「生きている」ということを教えてくれる。
そして、ときには、「顔のシワくらいで、そんなに大騒ぎするな」と教えてくれる。
死体を扱う仕事をしていると、死が特別なものではなくなっていく。
今日も誰かが死に、明日も誰かが死ぬ。
しかし、死が日常になったからといって、人間の死が軽くなるわけではない。
むしろ、たくさんの死を見るほど、一人ひとりの人生が違うことを思い知らされる。
同じような顔をして横たわっていても、その人が歩いてきた人生は一人ひとり違う。
家族がいて、仕事があって、好きなものがあって、嫌いなものがあって、誰かに腹を立てたり、誰かに笑わせてもらったりして、長い年月を生きてきた。
最後に残ったのが、たった一枚の顔。
それだけを見て、「安らか」「苦悶」と分類するのは、あまりにも乱暴なのかもしれない。
だから私は、遺体の表情を必要以上に整えたくない。
もちろん、目や口を閉じることもある。
できるだけ自然な状態にすることもある。
遺族の気持ちも大切にする。
でも、すべてを「きれい」にする必要はないと思っている。
死んだ人間には、死んだ人間の顔がある。
それもまた、その人自身なのだから。
結局、死ぬ瞬間に何を感じるのかは分からない。
苦しいのかもしれない。
何も感じないのかもしれない。
本当に、脳内アドレナリンが大量に放出されて、ものすごい快感に包まれているのかもしれない。
もしそうなら、死ぬ瞬間だけは人生最大の恍惚なのだろうか。
……などと考えていると、妙な話になってくる。
死んだ本人に確認できない以上、答えは永遠に分からない。
分からないものは、分からないままでいいのだと思う。
それよりも、死ぬ瞬間より、その瞬間までどう生きてきたかのほうが、私には大事に思える。
眉間にシワを寄せて死んだとしても、その人生のどこかに笑った時間があったなら、それでいい。
最後の顔が穏やかだったとしても、その人生のすべてが穏やかだったわけではない。
人間の顔には、人生が全部収まりきるほどのスペースはない。
だから、死に顔だけでその人を判断しない。
苦悶の表情も、その人の一部。
安らかな表情も、その人の一部。
どちらも含めて、その人なのだ。
遺体は、人間の形をしている。
だからこそ、残された者はそこに「人」を見る。
そして、できることなら最後まで、人間として扱ってあげたい。
それが、私がこの仕事をしてきて、少しずつ考えるようになったことである。
……もっとも、暑い日に仕事をしていると、死体どころか生きている私自身が眉間にシワを寄せている。
今年の夏も暑い。
いや、暑すぎる。
地球温暖化だの異常気象だの、難しい話はさておき、とにかく暑い。
汗をかきながら鏡を見ると、自分の顔が見事なシカメッ面になっている。
「眉間のシワより、笑いジワ」
そう思ってはいるのだが、暑さには勝てない。
このままでは、私自身が生きているうちに「苦悶の表情」で固定されてしまいそうだ。
死ぬ瞬間にどんな顔になるのかは、まだ分からない。
できれば安らかな顔で死にたい。
しかし、人生最後の瞬間まで、無理に笑顔を作る必要もないだろう。
苦しいときは苦しい顔をしていい。
悲しいときは悲しい顔をしていい。
怒ったら眉間にシワを寄せればいい。
そして、笑えるときには思い切り笑えばいい。
そうやって生きてきた結果として残る顔なら、それが一番自然なのではないかと思う。
だから今日も、暑さに顔をしかめながら歩いている。
眉間には、しっかりシワが寄っている。
……まあ、それも生きている証拠ということで。
「眉間のシワより、笑いジワ」
そう思いながら、もう少しだけ、この不思議な人生を生きてみようと思う。





