特殊清掃「ホスピタル」を更新いたしました。
ホスピタル
この仕事をしていると、夜中に電話が鳴ることがある。
寝ていても、まるでずっと起きていたかのように電話に出られるという、あまり嬉しくない特技が身についた。
「はい、もしもし」
声だけは妙に普通である。
しかし、実際には数秒前まで布団の中で夢を見ていた。場合によっては、夢の続きを見ながら電話に出ていることさえある。
一年を通して考えれば、夜中の出動はそれほど多くない。
ところが、何故だか続くときは続く。
一度、二度ならいい。
三度、四度と続いてくると、
「……冗談?」
と思う。
昼間は昼間で普通に仕事がある。夜中に出動したからといって、翌朝から世の中が私の都合に合わせて休んでくれるわけではない。
人間、寝不足が続けば当然つらい。
だから、深夜に電話が鳴った瞬間、
「お電話ありがとうございます!」
などという爽やかな気持ちには、なかなかなれない。
正直なところ、
「ありがたいけど、今じゃなくてもよかったんじゃない?」
と思ってしまうこともある。
ありがた迷惑というやつである。
もっとも、電話の向こうにいるのは、私よりもっと大変な状況にいる人たちだ。
そう考えると、文句を言っている場合ではない。
眠い目をこすりながら、
「はい、伺います」
となる。
これも仕事である。
遺体搬送の仕事では、特掃業務とは違ってスーツを着る。
喪服ではない。
普通の仕事用のスーツだ。
だから、夜中に電話が鳴ると、そこから身支度が始まる。
寝癖を直す。
顔を洗う。
着替える。
必要なものを確認する。
髪の毛が爆発したまま病院へ行くわけにもいかない。
しかし、病院へのお迎えは一分一秒を争うことが多い。
だから、のんびり身支度をしている暇はない。
「だったらスーツを着たまま寝ればいいじゃないか」
と思う人もいるかもしれない。
いや、それでは眠れない。
スーツを着て寝るくらいなら、夜中の電話に出る前からすでに疲れてしまう。
電話を切ったら、できるだけテキパキと身支度を整えて出発する。
眠気を覚ます暇もない。
車に乗ってしばらくしてから、
「……俺、今ちゃんと起きてるよな?」
と自問する。
幸い、運転中に寝たことはない。
そこだけはプロ意識が勝っているらしい。
そして病院に着く。
同じ建物なのに、夜中の病院は昼間とはまったく違う顔をしている。
抽象的な表現になるけれど、昼間の病院には「生」を感じる。
人が歩いている。
看護士が走っている。
患者がいる。
家族がいる。
話し声がある。
車が出入りする。
ところが夜になると、それらが一気に少なくなる。
静かになる。
そして、妙なことに「死」を感じる。
もちろん、病院から死人が出るのは夜に限った話ではない。
昼間だって亡くなる人はいる。
それでも、シーンと静まり返った夜中の病院には、人の死を感じさせる独特の雰囲気がある。
大きな病院なら、夜勤の医師や看護士、警備員などがいる。
廊下にも適度に明かりがついている。
人の気配があるだけで、こちらも安心する。
ところが小さな病院になると、そうはいかない。
人の気配がない。
非常灯だけが緑色に光っている。
インターフォンを押しても誰も出てこない。
「……誰かいませんか?」
と大声を出すわけにもいかない。
仕方なく、建物の中を探して歩く。
自分の靴音だけが廊下に響く。
コツ、コツ、コツ。
普段なら何でもない自分の靴音が、夜中の病院では妙に存在感を持つ。
しかも、入院患者が寝ている。
できるだけ物音を立てないように歩く。
「こんばんはー!」
なんて大声を出すこともできない。
死人を迎えに来た人間が、病院の廊下を大声で歩き回っていたら、それこそ迷惑である。
だから、静かに人を探す。
自分でも何をしているのか分からなくなる瞬間がある。
小さな病院には、きちんとした霊安室がない場合もある。
あるいは、亡くなって間もないため、わざわざ霊安室へ移動せず、病室から直接搬出することもある。
個室ならまだいい。
問題は相部屋である。
他の患者さんが寝ている横を、ストレッチャーを押して通る。
こちらは悪いことをしに来たわけではない。
仕事で来ているだけだ。
それでも、何となく気まずい。
考えてみれば、私は不思議な存在である。
死人がいないところには、基本的に出てこない。
死人がいるところにだけ現れる。
これから病気を治して元気になろうとしている患者さんから見れば、私は死神のようなものかもしれない。
あるいは、
「縁起でもない奴」
「できれば会いたくない人」
「招かざる客」
くらいには思われるかもしれない。
こちらとしても、できれば存在感を消していたい。
だから、作業はできるだけ短時間で、シンプルに済ませるようにしている。
ただし、遺族の心情への配慮は必要だ。
早ければいいというものでもない。
遺体搬送は単なる「物を運ぶ仕事」ではない。
そこには、亡くなった人と、その人を見送る家族がいる。
だから、効率と配慮。
この二つのバランスが難しい。
その夜の遺体は、中年の男性だった。
体格のいい人だった。
そして、濃い黄疸が出ていた。
医学に関しては素人なので、私の判断は非常に単純である。
黄疸を見る。
↓
「肝臓かな?」
↓
「肝臓病?」
↓
「肝癌、肝硬変、肝炎……」
↓
「肝炎ならウイルス性肝炎もあるな」
だいたいこの程度である。
医学の専門家から見れば、
「お前の医学知識はファミレスのメニューか!」
と突っ込まれるかもしれない。
もちろん、黄疸だけで死因や感染症を判断できるわけではない。
そんなことは分かっている。
ただ、私の場合、遺体衛生については「悪い方に考えて備える」ということにしている。
その方が、自分のリスクを下げられるからだ。
だから、この男性に触れるときも手袋を着用した。
そもそも私は、どんな遺体であっても最初から素手では触らない。
外見がきれいだろうが、死因が何だろうが、感染の危険性が高そうだろうが低そうだろうが、最初に触るときは手袋をする。
これは私の中で決めている。
問題は、看護士や遺族が手袋をしていない場合である。
看護士や遺族の方が、その遺体についてはるかに詳しい。
当然、病院側には感染対策上の判断がある。
だから、
「なんで私だけ手袋なんだ?」
という話でもない。
それでも、私は一線を引く。
そこだけは少しドライである。
ただし、遺族に嫌な思いをさせないよう、手袋の使い方や態度には気をつける。
いかにも、
「この遺体、危険です!」
というような雰囲気を出してはいけない。
遺族からすれば、亡くなった家族である。
こちらが妙な反応をすれば、それだけで傷つけてしまう可能性がある。
この黄疸の男性の場合、看護士も遺族も素手だった。
ただ、看護士は遺体に指一本触れなかった。
私は、どこの病院でも、遺体に対する看護士の態度や行動をかなり注意して見ている。
やはり、遺族や看護士が近寄らない遺体というのは、不気味である。
もちろん、それだけで何かを判断できるわけではない。
それでも、
「何か理由があるのかな」
とは思う。
そして、そういうときほど、こちらは慎重になる。
以前から思っていることだが、死体に関わる仕事というのは、精神力と根性だけでは務まらない。
ある程度の医学的知識も必要になる。
たとえば、C型肝炎ウイルスについても、一般的な知識として知っておいた方がいい。
特に中高年層では、過去の医療事情などから感染している人がいても不思議ではなく、検査が勧められている。
昔は医療現場で注射針の扱いが現在ほど厳格ではなかった時代もあった。
そういう歴史を知っているだけでも、遺体に対する自分の備え方は変わる。
もちろん、年齢だけで感染の有無を判断できるわけではない。
病名を当てる仕事でもない。
それでも、死体を扱う側には、
「何も知らない」
では済まされない部分がある。
感染症についての基本的な知識。
血液や体液に対する注意。
防護具の使い方。
衛生管理。
そういう知識が自分自身を守る。
「俺は根性があるから大丈夫」
ではダメなのだ。
根性でウイルスは消えてくれない。
これはかなり重要なポイントである。
ところで、夜中に遺体を搬送していても、私はそれほど怖くない。
後ろに死体が乗っている。
そう考えると怖そうだが、仕事として慣れてしまえば、意外と普通である。
夜道を走っていると、途中でコンビニに寄りたくなることもある。
そして、ぼんやりしていると、
「あ、コーヒー買おうかな」
などと思う。
その瞬間、
「……いや、後ろにいるじゃん」
となる。
遺体を積んでいることを忘れている。
人間、慣れるというのは恐ろしい。
ある意味、私の中では、
「死体を積んだ車」
ではなく、
「荷物を積んだ車」
に近い感覚になっているのかもしれない。
もちろん、荷物と遺体はまったく違う。
だからこそ、仕事として扱うためには、ある程度の割り切りが必要なのだと思う。
感情移入しすぎても仕事にならない。
かといって、ただの荷物として扱えば、それはそれで人として何かを失ってしまう。
その間を行ったり来たりしながら仕事をしている。
そんな感じである。
ただ、一つだけ気をつけていることがある。
ルームミラーは見えないようにしている。
後部の荷台が映らないようにしているのだ。
別に、後ろを見たら幽霊がいると思っているわけではない。
いや、思っていない。
思っていないけれど……。
もし夜中、誰も乗っていないはずの後部荷台に、
「何か妙なもの」
が映ったら。
それはちょっと困る。
仕事柄、死体には慣れている。
感染対策にも気をつけている。
夜中の病院を一人で歩くことにも慣れている。
それでも、バックミラーに説明のつかない何かが映るのは、できれば遠慮したい。
死体は動かないから怖くない。
動かないという安心感がある。
だから、私は死体よりも「動くかもしれない何か」の方が苦手なのかもしれない。
結局、人間というのは、どれだけ死に慣れても、生きているもの、あるいは生きているように見えるものには弱い。
夜中の病院を歩き、遺体を搬送し、感染症に気をつけ、遺族に配慮しながら仕事をする。
そして帰る。
家に着けば、また普通の日常に戻る。
死体業をしているからといって、毎日死について考えているわけではない。
むしろ、仕事が終われば忘れていることも多い。
それでいいのだと思う。
死に慣れすぎてはいけない。
かといって、毎回すべてを真正面から受け止めていたら、こちらの精神が持たない。
だから、少しだけ距離を置く。
少しだけドライになる。
その代わり、必要なところではきちんと配慮する。
手袋をする。
衛生に気をつける。
遺族の前では余計なことを言わない。
病院では静かにする。
そして、夜中の電話が鳴ったら、
「……冗談?」
と思いながらも起きる。
それでも起きて、スーツを着て、車を出す。
これが私の仕事である。
死神と呼ばれても仕方がないような仕事だが、実際にやっていることは、亡くなった人を家族のもとへ、あるいは次の場所へ送り届けることだ。
怖がらせるためでもない。
死を演出するためでもない。
ただ、誰かが亡くなったあとに必要になる仕事を、淡々とやっている。
だから今夜も、もし電話が鳴ったら起きる。
できれば鳴らないでほしい。
本音を言えば、朝までぐっすり寝ていたい。
しかし、鳴ったら出る。
そして、できるだけ静かに、できるだけ丁寧に、また一人を送り届ける。
……ただし、ルームミラーだけは見ない。
そこだけは、今後も変えるつもりはない。





