特殊清掃「お化け屋敷」を更新いたしました。
お化け屋敷
人それぞれに、怖いもの、あるいは苦手なものを持っていると思う。
私の場合は、高所、蛇、歯医者、お金、心霊写真、暗闇……。
こうして並べてみると、どうも統一感がない。
高所と蛇と歯医者までは、まあ分かる。
お金については「怖い」というより「ないのが怖い」ので、少し種類が違うかもしれない。
当然、この中に「死体」は入らない。
死体を見て気持ち悪いと思うことはある。しかし、怖いとは思わない。
むしろ道端に転がっている動物の轢死体のほうが苦手だ。
見つけると、いつも目を背けて通り過ぎる。
「ごめん、見なかったことにする」
心の中でそう言って、その場を離れる。
一方、一般の人にとって「人間の死体」は、怖いものランキングのかなり上位に入るらしい。
なぜなのだろう。
そこを掘り下げていくと、案外面白いことが見えてくる。
人間は、死そのものだけではなく、「死をイメージさせるもの」を本能的に嫌うのではないだろうか。
葬儀や墓、忌み言葉、死を連想させる数字や習俗など、世の中には「死」を遠ざけようとするものがたくさんある。
死から逃げたい。
死を考えたくない。
できれば自分には関係ないことにしておきたい。
そう考えるのは、まあ当然だろう。
ところが、そんな私がある夜、「死体より怖いもの」を見てしまった。
正確には、見たと思い込んでしまった。
ある日の夕方、特殊清掃の依頼が入った。
「できるかぎり早く現場を見てほしい」
とのことだった。
何の仕事が入るか分からないので、昼間の予定はできるだけ業務用に空けておきたい私は、その日の夜に現場を見ることにした。
「鍵は開いているので、勝手に入っていいですよ」
とのこと。
ありがたいような、ありがたくないような話である。
現場に着いた頃には、外はもう真っ暗だった。
目的の家は、老朽化した狭小住宅。
電気はすでに止まっている。
つまり、家の中も真っ暗。
頼りになるのは懐中電灯だけだった。
庭には手入れされていない木々が鬱蒼と茂っている。外灯もない。
淡い月明かりが、その木々の隙間から地面を照らしている。
こういう場所に一人で立っていると、普段なら気にもしないものまで意味ありげに見えてくる。
風に揺れる枝。
軋むトタン。
どこかで鳴く虫。
全部が「何かいるぞ」と主張しているように感じる。
もちろん、何もいない。
……たぶん。
玄関の前に立っただけで、いつもの腐乱臭を感じた。
特殊清掃をやっていると、腐敗臭そのものにはある程度慣れてくる。
もちろん好きではない。
好きな人がいたら、それはそれで問題だと思う。
「今日は普通の現場、普通の現場」
そう自分に言い聞かせ、余計なことを考えないようにして玄関ドアを開けた。
そして、誰もいるはずのない家に、いつものように、
「ごめんくださ~い」
と言いながら入った。
この「ごめんくださ~い」は、もはや癖である。
誰もいないのだから、返事があるはずもない。
それでも言ってしまう。
ひょっとすると、仕事の開始を自分自身に知らせる儀式なのかもしれない。
狭い屋内には、ゴミなのか生活用品なのか、もはや区別がつかないものが散乱していた。
足の踏み場もない。
まずは腐敗箇所を探し、汚染具合を確認する。
腐乱死体の現場としては、まあ並のレベルだった。
ウジはいる。
しかし、いつもなら飛び回っているハエは少ない。
その代わり、蜘蛛の巣と蚊がやたらと多い。
「今日は二軍メンバーでお迎えですか」
などと心の中でツッコミを入れながら、現場を確認していく。
廃棄するゴミの量も把握しなければならない。
押し入れも確認する。
建て付けの悪い襖をガタガタさせながら開けた。
その瞬間、
「あ゛ッ!」
暗闇の中に、人の首があった。
心臓が一瞬止まった。
……ような気がした。
押し入れの中には、頭部だけのマネキンがいくつも並べられていた。
「なんでこんなもん持ってんだよ!」
思わず声が出た。
「ドリフのコントじゃないんだから、こんなもんで脅かさないでくれよぉ」
もちろん、マネキンに悪気はない。
彼らはただ、そこに置かれていただけだ。
悪いのは、暗闇の中でいきなり人間の首を見せられた私の精神状態である。
心臓の鼓動がなかなか静まらない。
勢いよく襖を閉めた。
「……これはゴミでいいだろ」
誰に言うでもなく呟いた。
ところが、その直後だった。
どこからか、
「キィー……キィー……」
という音が聞こえてきた。
泣き声のような音だった。
「ドキッ!」
心臓が再び高鳴る。
気のせいだ。
そう思って無視しようとした。
しかし、確かに聞こえる。
「キィー……キィー……」
どうやら一階の流し台のほうからだ。
放っておくわけにもいかない。
嫌々ながら、音のするほうへ向かった。
流し台の収納スペース。
ここですか。
嫌な予感しかしない。
恐る恐る戸を開けた。
「あ゛〓ッ!」
今度は本当に悲鳴が出た。
いくつものネズミ捕り、粘着シートに、無数のネズミがかかっていた。
もがいている。
逃げようとしている。
中にはすでに死んで腐っているものもいる。
それは、それは悲惨な状態だった。
「……見なかったことにしよう」
全身に鳥肌が立った。
私は機械的に戸を閉めた。
見なかったことにはできていない。
しかし、見たことにしなければいい。
特殊清掃員にも、心の防衛本能はある。
一階の見分を終え、次は二階。
ここまで来ると、さすがに心身ともに疲れていた。
脅されすぎたせいなのか、気を張りすぎたせいなのか、身体にも力が入らない。
「もう少しの辛抱」
そう自分に言い聞かせ、暗くて狭い急階段を見上げた。
そして――
「あ゛〓〓ッ!」
今度は声にならなかった。
階段の上。
暗闇の中。
そこに、人の顔が浮かんでいた。
じーっと、こちらを見ている。
動かない。
しかし、こちらに近づいてくるような気配がする。
「うわぁぁぁ!」
声にならない悲鳴を上げ、私は家から飛び出した。
全身に悪寒が走った。
息が吸えない。
心臓が猛烈な勢いで動いている。
「とうとう見てしまった……」
霊感がないことが、少ない取り柄の一つだった。
その取り柄を、この日失った。
……いや、失ったと思った。
家の外でしばらく呆然としていた。
もう一度中に入るなんて、とてもできない。
しかし仕事である。
本来なら二階も確認しなければならない。
でも無理。
これは無理。
結局、二階については、間取りと遺族から聞いた話、それに一階の状況を考え合わせて想像で見積もることにした。
幸い、肝心の腐敗痕は一階だった。
そこだけは助かった。
腐敗痕は、さすがに想像では見積もれない。
後から分かったことだが、頭部が当たっていたと思われる段ボール箱は丸く凹んでいて、腐敗液にくっついた頭皮と頭髪が残っていた。
そして、大量のウジ。
一般の人にとっては、こちらのほうがよっぽど恐ろしいだろう。
しかし私にとっては、どうということはない。
いや、正確には気持ち悪い。
でも怖くはない。
それよりも気になって仕方がないのは、二階で見た「あれ」だった。
さて、施工の日が来た。
夜に見たときとは違い、昼間である。
太陽も出ている。
明るい。
なのに、なんだかイヤ~な気分だった。
一階の汚染箇所から、いつもの流れで作業を始める。
淡々と片付けていく。
一階をほぼ終えたところで、いよいよ問題の二階。
階段を見上げる。
……行きたくない。
仕事だから行く。
でも行きたくない。
ウジじゃあるまいし、いつまでもウジウジしていても仕方がない。
意を決して、恐る恐る階段の上を見た。
すると――
「あれ?」
壁に、モノクロ写真が掛けてある。
人の顔だった。
おそらく、ご先祖の遺影だろう。
「あ~……」
一気に力が抜けた。
「な~んだ。そういうことかぁ」
夜は、それが外から差し込む淡い月明かりにぼんやり照らされていた。
しかも暗闇の中だったので、顔だけが宙に浮いているように見えたのだろう。
さらに、こちらから見れば階段の先にあるので、遠近感も狂う。
「なるほどねぇ」
納得した。
……とはいえ、少しだけ引っかかる。
「ちょっと顔が違うような……」
「あのときは、もっと近くに見えたような……」
しかし、人間の記憶なんてそんなものだ。
暗闇でパニックになった人間の記憶ほど、信用できないものはない。
私は深く考えないことにした。
とりあえず、「正体は写真だった」と決めた。
それで十分である。
遺族からは、
「家の中の物は全部ゴミです。全部捨てていいです」
と言われていた。
しかし、その遺影だけは捨てる気になれなかった。
ご先祖の写真までゴミ袋に入れるのは、なんとなく違う気がした。
そこで梱包して、遺族に渡すことにした。
二階で遺影を包んでいるときだった。
突然、
「ポン、ポン」
と、誰かに背中を軽く叩かれた。
「ん?」
思わず身体が固まった。
でも、私は振り返らなかった。
なぜなら、そこには私のほかに誰もいないはずだったからだ。
……はい。
誰もいない「はず」だった。
私はそのまま作業を続けた。
背中を叩いた正体については、今でも考えないことにしている。
風だったのかもしれない。
何かが落ちたのかもしれない。
服がどこかに触れたのかもしれない。
あるいは、私の身体が疲れすぎていて、勝手にそう感じただけかもしれない。
たぶん、そうだ。
きっとそうだ。
そういうことにしておこう。
特殊清掃の仕事をしていると、「怖くないんですか?」と聞かれることがある。
確かに、一般の人が怖いと思うものを見慣れている部分はある。
でも、だからといって何でも平気なわけではない。
死体や腐敗現場は仕事として見られる。
ウジもハエも臭いも、ある程度は「処理すべき対象」として見ることができる。
ところが、暗闇の中に突然浮かぶ人の顔となると話は別だ。
しかも、それが本当に人の顔なのか、写真なのか、マネキンなのか、それとも別の何かなのか分からない。
人間は「分からないもの」に一番恐怖を感じるのかもしれない。
そう考えると、私が怖かったのは「幽霊」ではなかった。
幽霊かもしれない、という「分からなさ」だったのだろう。
そして、最後に背中を叩いたものについても、私は今でも「分からないまま」にしている。
そのほうが、ある意味では都合がいい。
正体を知ってしまえば、怖くなくなる。
だから、あの日二階で見た顔も、遺影だった。
背中を叩いたのも、何かの偶然だった。
それでいい。
そうでなければ困る。
ただ一つだけ、今でも思うことがある。
もし、あの遺影のご先祖さんが本当に私の背中を叩いたのだとしたら――
せめて、
「ご苦労さん」
くらい言ってほしかった。
「ポンポン」と二回だけでは、こちらとしては余計に気になる。
特殊清掃員にも、心臓は一個しかないのだから。





