特殊清掃「タイムリミット」を更新いたしました。
タイムリミット
日本人の死亡原因の一位は悪性新生物、いわゆる癌である。
癌を患ったことがある人、現在も患っている人、そして癌で亡くなった人を知人に持つ人は、かなり多いと思う。
「自分自身がそうだ」という人もいるだろう。
数えてみると、私の身の回りにも、そんな人がたくさんいる。
昔は「癌」という言葉を聞くと、どこか遠い世界の出来事のような感じがしていた。
しかし、年齢を重ねるにつれて、その距離はどんどん縮まってくる。
若い頃は「癌」と「自分」の間に広大な平原が広がっていたのに、気がつけば、その平原には住宅地ができ、コンビニまで建っている。
そのうち「ちょっとそこまで」と散歩に行ける距離になってしまうのかもしれない。
世の中は今、空気も水も食べ物も、発癌性物質を完全に避けて生活するのは難しい状況にある。
もちろん、何を食べても何を吸っても何をしても癌になる、という単純な話ではない。
そんなことを言い出したら、朝食を食べるだけで人生のリスク評価表が必要になってしまう。
「本日のトースト、焼き色は適正ですか?」
「コーヒーはブラックですが、発癌リスクについてはどうお考えですか?」
などと毎朝やっていたら、それだけでストレスが溜まりそうである。
健康のために生きているのか、生きるために健康を気にしているのか、分からなくなってくる。
癌は人類の自業自得なのだろうか。
それとも宿命なのだろうか。
人間の身体は、約37兆個ともいわれる細胞からできている。
その細胞たちが、毎日せっせと分裂し、修復し、入れ替わりながら、この「私」という一人の人間を維持している。
考えてみれば、ものすごいシステムである。
しかも、こちらはその仕組みにほとんど関与していない。
心臓を動かす方法も知らないし、肝臓を掃除する方法も知らない。
腸に「今日もよろしく」と挨拶することもない。
それなのに、身体は勝手に働いてくれている。
ところが、長い年月の中で細胞の複製ミスなどが積み重なり、癌細胞が生まれることがある。
そう考えると、人間は「癌にならないように完璧に生きる」というより、「癌になる可能性を抱えたまま生きている生き物」なのかもしれない。
私が扱ってきた遺体にも、癌で亡くなった人がかなりの人数いる。
科学的なデータとは異なるかもしれないが、個人的な印象として、それらの遺体は痩せ細っていることが多く、腐敗の進行も速いように感じる。
もちろん、癌の種類や進行度、治療内容、栄養状態、年齢、死後の環境など、さまざまな条件が関係するので、一概に「癌だからこうなる」とは言えない。
遺体は、生前の人生を終えた身体である。
そこには病気だけではなく、その人が最後までどう生きたのかという時間まで刻まれているように感じることがある。
余命宣告を受けた上での闘病生活とは、いったいどんなものなのだろう。
私は、実際にその生活を経験したことはない。
だから、本当のところは分からない。
一件一件の遺族と、一人一人の遺体から、それぞれの闘病生活を想像することしかできない。
ある故人は、30代前半の男性だった。
痩せ細っているわけでもない。
髪が薄くなっているわけでもない。
外見だけを見れば、健康そうにさえ見える。
遺族も、泣いている人はいなかった。
もちろん、泣かないから悲しくないということではない。
むしろ、その逆だったのかもしれない。
遺族の話を聞いていると、本人と家族はさまざまな葛藤を抱えながらも、余命宣告を受け入れ、病気と「闘う」のではなく、病気と「協調する」道を選んだらしい。
病気を敵として徹底的に叩き潰すのではなく、
「ここまで一緒に来たのだから、最後まで付き合うしかない」
というような覚悟だったのかもしれない。
もちろん、そんな簡単な話ではないだろう。
家族も相当辛かったようだ。
故人の死そのものには涙することがなくても、辛かった余生、闘病生活を振り返ると、自然と涙が出てくる。
その様子を見ているだけで、本人と家族が過ごした時間の重さが想像できた。
遺族の口から出てくるのは、病気の苦しみ、死の恐怖、それらと最後まで向き合った故人を褒め、労う言葉ばかりだった。
「よく頑張った」
「辛かったと思う」
「本当に大変だった」
そんな言葉を聞いていると、死というものが必ずしも「悲しい出来事」だけではないことに気づかされる。
もちろん、愛する人が亡くなるのだから悲しい。
寂しい。
会いたい。
それは当然である。
しかし、望まずして、死が本人と家族に平安をもたらすこともある。
長い闘病生活を終えたことで、
「もう苦しまなくていい」
と思える。
遺族も、心なしか肩に乗っていた重荷を降ろしたような、穏やかな表情をしていることがある。
悲しいのに、ほっとしている。
寂しいのに、安心している。
そんな矛盾した感情を、人間は同時に抱えることができる。
人間の心は、なかなか複雑である。
コンピューターなら「悲しい=1、嬉しい=0」などと処理できそうなものだが、人間はそうはいかない。
「悲しいけど、ちょっと安心」
「嬉しいけど、申し訳ない」
「会いたいけど、もう苦しんでほしくない」
そんな矛盾だらけの感情を抱えたまま生きている。
そして、たぶん、それが人間らしさなのだと思う。
私自身、何度か「余命宣告を受ける夢」を見たことがある。
死への恐怖から、突然飛び起きる。
決まって嫌な寝汗をかいている。
そして覚醒し、
「……夢か」
と分かった瞬間、
「助かった~!」
と心の底から喜ぶ。
さっきまで死を宣告されていたのに、夢だったと分かった途端、布団が天国のベッドに見えてくる。
エアコンの風までありがたい。
水道水を一口飲んで、
「うまい!」
となる。
普段なら「ただの水」である。
人間というのは現金なものである。
健康な時には健康のありがたみなど、ほとんど感じない。
呼吸していることに感謝する人は少ない。
心臓が動いていることに感動する人も少ない。
肝臓が今日も黙々と仕事をしていることを褒める人など、ほぼいないだろう。
「今日も肝臓さん、ありがとう」
などと言いながら夕飯を食べる人がいたら、それはそれで少し心配になる。
しかし、余命宣告を受けた瞬間、その「当たり前」が突然、貴重なものに変わってしまう。
誰にとっても、余命宣告を受けるということは、とてつもない重圧なのだろう。
私の悪夢とは違い、今日も現実の世界で、その重荷を背負いながら生きている人がいる。
朝起きて、
「今日も生きている」
と喜ぶ人もいれば、
「今日も治療か……」
と重い気持ちで一日を始める人もいる。
それでも一日を過ごす。
食事をする。
家族と話す。
笑う。
眠る。
そして、また朝が来る。
余命という数字が頭の片隅にあるだけで、同じ一日の意味がまったく違ってしまうのだろう。
将来、私が癌になる可能性も、決してゼロではない。
そして、余命が測れるほどの末期症状に陥る可能性も充分にある。
私は、告知をしてほしいタイプの人間である。
もしそうなったら、多分、うろたえる。
嘆く。
泣く。
極度の鬱状態になるかもしれない。
「あと半年です」
などと言われたら、
「半年って、何日ですか?」
などと聞いてしまうかもしれない。
その場では冷静を装っていても、家に帰ってからカレンダーを見ながら、
「えーっと……正月は迎えられるのか?」
などと計算し始める。
そして翌朝、
「昨日まで普通に生きていたのに、なんで急に人生の締切日が見えてるんだよ」
とツッコミを入れたくなるだろう。
それでも、知らせてほしい。
なぜなら、この世を去るための後片付けを、しっかりやりたいからである。
物を整理したい。
人間関係を整理したい。
伝えるべきことを伝えたい。
謝るべきことがあれば謝りたい。
感謝を伝えたい。
そして何より、苦楽を共にしてきたこの身体を労り、この身体で感じられるものを、できるだけ充分に味わいたい。
普段は、
「もっと背が欲しかった」
「もう少し痩せたい」
「男前の顔だったらよかった」
「ここが気に入らない」
などと、自分の身体に不平不満や文句ばかり言っている。
鏡を見ては、顔のパーツに採点をつける。
腹が出れば文句を言う。
髪が減れば文句を言う。
白髪が増えれば文句を言う。
老眼になれば、
「見えねえ!」
と文句を言う。
身体からすれば、
「こっちは何十年も無休で働いてんだけど」
と言いたいところだろう。
それでも、いざ、
「この身体と、あと少しでお別れです」
となったら、どうだろう。
おそらく、とてつもなく愛おしいものに感じるのではないだろうか。
この手で触れたもの。
この目で見たもの。
この耳で聞いた音。
この鼻で嗅いだ匂い。
この舌で味わった食べ物。
この足で歩いた道。
この身体で感じた痛みや快感。
恥ずかしい思いもした。
怪我もした。
病気もした。
失恋もした。
酒を飲み過ぎたこともある。
食べ過ぎたこともある。
運動不足で身体を重くしたこともある。
それでも、ずっと一緒だった。
どんなに文句を言っても、最後まで私についてきてくれた。
考えてみれば、これほど長く付き合った相棒はいない。
友人だって、途中で疎遠になる。
恋人も別れることがある。
仕事も辞める。
家だって引っ越す。
しかし、この身体だけは、こちらが生まれてから一度も離れたことがない。
こちらが大切にしなかった日も、身体は働き続けてくれた。
睡眠不足の日も、暴飲暴食した日も、運動をサボった日も、
「今日はストライキします」
とは言わなかった。
なんというブラック企業体質だろう。
しかも経営者は自分である。
そう考えると、少しくらい身体に感謝しても罰は当たらない。
だから、軽率かもしれないけれど、たまには「自分が余命宣告を受けたら」という境遇を空想してみてもいいのではないかと思う。
もちろん、病気になれと言っているわけではない。
死を美化したいわけでもない。
ましてや、「人生は素晴らしい!毎日を大切に!」などという、立派すぎる結論に持っていきたいわけでもない。
そんなことを毎朝唱えていたら、私なら三日で嫌になる。
ただ、
「いつか終わる」
という当たり前の事実を、少しだけ意識してみる。
それだけでいい。
いつか食べられなくなる。
いつか歩けなくなる。
いつか誰かの顔を見られなくなる。
いつか、この身体から出ていかなければならない。
その「いつか」が具体的に何月何日なのか、誰にも分からない。
我々は皆、ある種の余命宣告を受けている身なのだ。
ただし、医師から具体的な日付を教えてもらっていないだけである。
「あなたの余命は、だいたい○○年です」
と出生届と一緒に通知されていたら、人生はかなり違ったものになっていただろう。
もし私が、
「あなたの人生はあと27年8か月です」
などと赤ん坊の頃に知らされていたら、たぶん大人になる前に相当焦っている。
しかし、実際には分からない。
だから私たちは、
「まだ大丈夫だろう」
と思ってしまう。
明日もある。
来月もある。
来年もある。
そう思っているうちに、時間はどんどん過ぎていく。
最期の時は、自分で決められない。
「あと5年くらい欲しい」
と言っても、時間の受付窓口は開いていない。
延長コードを差せば済む話でもない。
だからこそ、残された時間をどう使うかという問題が出てくる。
仕事をする。
遊ぶ。
旅行する。
家族と過ごす。
一人で過ごす。
何かを作る。
何もしない。
どれが正解なのかは分からない。
たぶん、正解なんてない。
人によって違う。
大切なのは、「自分の時間を、自分が本当に生きているのか」ということなのだろう。
そして、忘れてはならないのは、自分自身のタイムリミットだけではない。
自分が愛する人にも、タイムリミットがある。
親にもある。
子どもにもある。
友人にもある。
伴侶にもある。
そして、いつか自分にもある。
「また今度でいい」
「そのうち会おう」
「いつでも話せる」
そう思っているうちに、「また今度」が来ないこともある。
だからといって、毎日を感動の最終回みたいに生きる必要もない。
毎日、
「今日が人生最後の日かもしれない!」
と叫びながら朝飯を食べていたら、家族に引かれる。
普通の日は普通の日でいい。
腹が減ったら食べる。
眠かったら寝る。
くだらないことで笑う。
腹が立ったら怒る。
面倒な日は面倒くさがる。
たまには何もしない。
そんな普通の日々の中に、人生はある。
ただ、その普通が永遠ではないことだけは、たまに思い出しておきたい。
自分の身体にも、
「いつもありがとう」
くらいは言ってやってもいい。
鏡を見て、
「まあ、よくここまで付き合ってくれたな」
と思ってみる。
背が低くてもいい。
腹が出ていてもいい。
顔がイマイチでもいい。
髪が薄くなってもいい。
シワが増えてもいい。
それは全部、生きてきた証拠でもある。
もちろん、気に入らないところは直せばいい。
ダイエットしてもいい。
筋トレしてもいい。
美容整形してもいい。
ハゲ対策をしてもいい。
人間は、最後まで往生際が悪くていいのである。
ただ、文句ばかり言っていると、最後になってから、
「もっと大事にしておけばよかった」
と後悔するかもしれない。
身体も人生も、返品交換はできない。
そして、タイムリミットだけは、誰にも見えない。
見えないからこそ、まだ時間があるような気がしてしまう。
でも、本当は誰にも分からない。
だから、今日という一日を必要以上にありがたがる必要はないけれど、雑に扱う必要もない。
愛する人との時間も同じだ。
「いつか」ではなく、できる範囲で「今日」を使う。
言いたいことがあるなら、言える時に言う。
会いたい人がいるなら、会える時に会う。
感謝しているなら、たまには口に出す。
そして、たまには自分自身にも、
「よくやってるよ」
と言ってやる。
我々は皆、死へ向かって歩いている。
これは悲観的な話ではなく、単なる事実である。
ただ、その終着点までの距離を知らない。
だからこそ、今日がある。
明日がある保証はない。
しかし、今日があることも事実である。
だったら、今日くらいは、この身体と一緒に生きてみようと思う。
文句を言いながらでもいい。
愚痴をこぼしながらでもいい。
たまにサボりながらでもいい。
笑って、食べて、眠って、誰かを好きになって、誰かに腹を立てて、また仲直りして。
そうやって、よく分からないまま時間を使っていく。
そして最後に、
「ああ、結構いろいろあったな」
と思えたら、それで十分なのかもしれない。
タイムリミットは、すでに始まっている。
問題は、残り時間が何年なのかではない。
その時間を、どう使うか。
自分と、愛する人たちのタイムリミットを忘れないこと。
分かっちゃいる。
分かっちゃいるけれど――
ここが、なかなか難しい。
人間だもの。





