特殊清掃「カレンダー」を更新いたしました。
カレンダー
今日で七月も終わり、今年の夏も後半に入る。
毎月末になると、過ぎ去ったカレンダーを一枚破り捨てるのが私の習慣だ。
たった一枚の紙を破るだけなのに、妙に感慨深い。
「ああ、今月も終わったか」
そう思いながら、破ったカレンダーをゴミ箱に放り込む。
そして翌月のカレンダーを眺める。
「明日から八月か……」
八月。
夏真っ盛り。
海。
山。
花火。
ビール。
昼寝。
世間では、そんな言葉が似合う季節なのだろう。
私には、あまり関係がない。
今年も例によって、夏休みの予定などない。
というか、社会人になってから「夏休み」というものをまともに取った記憶がない。
仕事がなければ休み。
仕事があれば仕事。
実に分かりやすい。
「休みを取る」という発想そのものが、私の生活からだいぶ前に消えてしまったような気がする。
そんな七月を振り返ってみると、今月も特掃業務に追われる毎日だった。
しかも、今回はインパクトのある案件が多かった。
まあ、特掃という仕事をやっている以上、インパクトがない現場のほうが珍しいのだけれど。
「今日は穏やかな一日だったな」
などと言える現場は、そう多くない。
早速ブログに書きたいと思った案件もいくつかあった。
ところが、現場の内容が強烈であればあるほど、書くには慎重さが必要になる。
場所が特定されてしまったり、関係者が読めば「あの現場だ」と分かってしまったりする可能性があるからだ。
だから、すぐには書けない。
時間を置く。
記憶を寝かせる。
場合によっては、季節が一つ二つ過ぎてから書く。
私がブログに書いている現場ネタは、そういう「寝かせもの」が多い。
鮮度は落ちているかもしれない。
しかし、腐敗ネタに鮮度も何もないか(笑)。
むしろ、時間が経ってからのほうが、自分自身も少し冷静に振り返ることができる。
現場にいるときは、とにかく作業を終わらせることしか考えていない。
臭い。
暑い。
重い。
汚い。
時間がかかる。
予定どおりにいかない。
追加作業が出る。
そんなことを一つずつ処理しているうちに、一日が終わる。
感傷に浸っている暇などない。
ただ、現場を片付ける。
それだけで精一杯なのだ。
以前から不思議に思っていることがある。
死人というものに対する、自分の感覚についてだ。
きっちりと線引きしているわけではない。
けれど、人間の形を比較的とどめている遺体と、腐敗が進んで人間の形から大きく変わってしまったものとでは、私の気持ちがまるで違う。
人間の形をしている遺体に対しては、極めて人間的に接する。
触れるときも、運ぶときも、できるだけ丁寧に扱う。
「この人も誰かにとって大切な人だったんだろうな」
そんなことを自然に考える。
ところが、腐敗が進んでしまうと、そういう感覚が急激に薄くなる。
目の前にあるものを、汚物、固形物、液体、染み、残置物……そんな「物」として認識してしまう。
もちろん、元をたどれば同じ一人の人間である。
生きているときには、笑ったり、怒ったり、飯を食ったり、仕事をしたり、誰かと喧嘩したり、くだらないことで笑ったりしていたはずだ。
それが死んで時間が経つと、身体は物理的に変化する。
その変化に伴って、こちら側の心理まで変化する。
「腐っているのと、腐っていないのとでは、こんなにも気持ちが違うものなのか」
我ながら不思議に思う。
それが正しいのか、正しくないのかは分からない。
そもそも「死体を扱う仕事をする者は、こうあるべき」なんていう正解があるのかどうかも分からない。
ただ、長くこの仕事をしているうちに、自然とそういうスタンスになってしまった。
私は、そういう意味では、かなり冷酷な一面を持っているのだと思う。
不躾と言ってもいい。
人間らしい感情を捨てているわけではない。
むしろ、感情があるからこそ、仕事をするために切り離しているのかもしれない。
目の前のものを「故人」として見続けていたら、作業なんてできない。
だから、必要なときには「物」として扱う。
そして、それが仕事なのだと思っている。
この世で負った責任を、できる範囲で果たす。
私にできるのは、それくらいだ。
以前、「遺体の尊厳」について語られる議論を見聞きしたことがある。
「グリーフケア」という言葉に興味を持った時期もあった。
もちろん、そういうものが必要なのは分かる。
遺族の心のケアも大切だろう。
故人の尊厳を守ることも大切だろう。
ただ、実際の現場に立ってみると、そうした言葉だけではどうにもならないことがある。
現実は、机の上で整理できるほどきれいではない。
腐敗した部屋は、議論では片付かない。
臭いも消えない。
床に染み込んだものも、言葉だけでは取れない。
遺族の悲しみも、理屈を説明したからといって消えるわけではない。
そして、ときには人間の卑しい部分が、非常に分かりやすい形で表に出てくる。
金の話。
相続の話。
誰が費用を負担するのかという話。
故人が生きていた頃には家族だった人たちが、死んだ途端に他人のような顔をすることもある。
逆に、普段は疎遠だった人が、最後になって必死に動いていることもある。
人間というのは、本当にいろいろだ。
「地獄の沙汰も金次第」という言葉が、妙に現実味を帯びて聞こえる場面もある。
もっとも、地獄に請求書を持っていけるのかどうかは知らない。
少なくとも、こちらの世界では請求書がなければ何も動かない。
腐敗現場は議論によって片付くものではない。
遺族は理屈によって癒やされるものでもない。
ましてや、死んだ人間がこの世の人間のきれいな言葉によって救われるのかと言われれば、私にはよく分からない。
結局のところ、死んだ人間に対して、この世にいる人間ができることには限界がある。
どれだけ立派なことを言っても、死んだ本人には届かない。
だからこそ、生きている人間が、残された問題を一つずつ片付けるしかない。
私は、その「一つずつ」を担当しているだけなのだと思う。
腐乱現場に入ると、遺族に対しても、つい無神経に聞こえる言葉が出てしまうことがある。
「これは……ヒドイですね」
「自殺ですか?」
「かなり時間が経っていますね」
現場を知らない人が聞けば、「なんてことを言うんだ」と思うかもしれない。
自分でも、後になって「もう少し言い方があっただろ」と思うことはある。
しかし、その場では、それが現実なのだ。
気持ち悪ければ「うわ……」と声が出る。
作業がきつければ「これはキツイな」と言う。
臭いものは臭い。
重いものは重い。
暑いものは暑い。
そこを無理に格好つけても仕方がない。
「尊厳」という言葉を胸に抱きながら、吐きそうになっている人間がいたとしても、それはそれで現実なのだ。
私にとって腐敗液は、基本的には汚物である。
腐敗した肉も、染みも、汚れも、作業対象である。
目の前にある「それ」と、亡くなった人間そのものとは、私の中では別物になっている。
物理的には同一人物の身体だったとしても、心情的には別物だ。
そうしないと仕事にならない。
ただ、不思議なことに、ときどきその境界線が崩れる。
腐敗液を拭きながら、
「もうちょっと早く見つけてもらいたかったね」
と思うことがある。
腐敗して変質したものをすくいながら、
「今、俺がきれいにしてやるからね」
と思うこともある。
自殺痕を処理しながら、
「何で自殺なんかしちゃったの?」
と、心の中で問いかけてしまうこともある。
霊感なんてない。
幽霊も見えない。
見えたとしても、たぶん仕事が増えるだけなので、できれば見えないままでいてほしい。
それでも、そういうことを思う。
自分でもよく分からない。
「汚物」と割り切って作業しているはずなのに、その奥にいる「人間」の存在が、ふと顔を出す。
そして、また消える。
その繰り返しだ。
この感覚を文章にしようとすると、どうにも難しい。
冷酷なのか。
優しいのか。
そのどちらでもないのか。
たぶん、全部なのだろう。
人間は一つの感情だけで生きているわけではない。
仕事中は冷静でいなければならない。
だから冷静になる。
作業対象として見なければならない。
だから物として見る。
それでも、人間だったという事実が完全に消えるわけではない。
たまに、その事実が隙間から漏れてくる。
私はそれを、無理に押し込めようとは思わなくなった。
仕事は仕事。
感情は感情。
どちらも自分の中にあっていいのだと思う。
ただ、現場では手を動かさなければならない。
きれいごとを言っている暇があれば、床を一枚でも多く拭いたほうがいい。
それが私の仕事なのだから。
そんな仕事をしている私にも、夏休みというものはない。
正確には、仕事がなければ休みなのだから、休もうと思えば休める。
しかし、仕事が入れば休みではなくなる。
非常に単純な話だ。
だから、世間が「夏休みだ」「帰省だ」「海だ」と浮かれている横で、私は作業着を着ている。
そして、仕事が途切れた瞬間に、
「海にでも行きたいなぁ」
などと考える。
七月最後の日。
破り捨てるカレンダーを眺めながら、
「明日から八月か……」
と思う。
海に行きたい。
冷たいものを飲みたい。
何も考えずに昼寝したい。
できれば、一週間くらい仕事の電話が鳴らないところに逃げたい。
そんな呑気なことを考えている。
けれど、ふと考えてみれば、自分だって一日ずつ死に近づいている。
誰も例外ではない。
七月のカレンダーを一枚破る。
八月のカレンダーをめくる。
九月、十月、十一月……。
そうやって毎月一枚ずつ破っていけば、いつか自分のカレンダーも最後の一枚になる。
特掃の仕事をしていると、「人は死ぬ」という当たり前のことを、普通の人より少しだけ身近に感じる機会が多い。
それなのに、自分のこととなると案外呑気なものだ。
「海に行きたいなぁ」
などと考えている。
人間なんて、そんなものなのかもしれない。
死を毎日のように見ている人間でも、自分が死ぬことについては、どこか他人事なのだ。
今日も仕事をする。
明日もたぶん仕事をする。
そして、月末になればカレンダーを破る。
「今月も終わったな」と思いながら。
それでいいのだと思う。
死ぬことを毎日考えながら生きる必要なんてない。
むしろ、明日の昼飯のことでも考えているくらいがちょうどいい。
ただ、カレンダーを破るたびに、ほんの少しだけ思い出せばいい。
一枚減った。
今月も終わった。
自分の時間も、それだけ減った。
だから、できることはできるうちにやっておいたほうがいい。
海に行きたいなら、行けばいい。
昼寝したいなら、昼寝すればいい。
くだらないことで笑えるなら、笑っておけばいい。
どうせ最後には、誰も彼もカレンダーを一枚ずつ破り終える。
その先のことは、私には分からない。
分からないものは、分からないままでいい。
とりあえず明日から八月。
仕事がなければ、休み。
仕事があれば、仕事。
そして、仕事がなければ――
海にでも行くかな。
……まあ、電話が鳴らなければの話だけど。





