特殊清掃「格差社会」を更新いたしました。
格差社会
午前中 都内の高級住宅地で
その日は、雲一つない青空が広がる、いかにも気持ちのいい朝だった。
車を走らせながら、「今日は暑くなりそうだな」と思ったことを覚えている。
最初の現場は、都内でも有数の高級住宅地だった。
道路はきれいに整備され、街路樹は丁寧に手入れされている。歩いている人たちもどこか落ち着いた雰囲気で、犬の散歩をしている人、ジョギングをしている人、ベンチで新聞を読んでいる年配の男性――そんな何気ない日常の風景さえ、自分が普段仕事で訪れる街とは少し違って見えた。
目的地は、その一角に建つ高級マンション。
エントランスへ向かうと、ホテルのような重厚感のある自動ドアが静かに開く。管理人が常駐し、ロビーは磨き上げられ、大理石の床には一点の汚れも見当たらない。
私は特殊清掃業者である。
普段は腐敗臭の漂う部屋や、長年放置された空き家、ゴミ屋敷などへ出入りすることが多い。
だからこそ、こうした場所へ来ると、少し場違いな気持ちになる。
作業着姿の自分が、この空間だけ妙に浮いているような感覚だ。
もちろん、仕事で来ているのだから遠慮する必要はない。
それでも、「自分のような人間が出入りして申し訳ないな」と思ってしまうのは、昔から変わらない。
駐車場へ目を向けると、高級輸入車や高級国産車がずらりと並んでいた。
一台や二台ではない。
私には名前しか知らないような車種が当たり前のように停まっている。
このマンションでは、それが特別ではなく日常なのだ。
「世の中には本当にこういう世界があるんだな。」
そんなことを考えながらエレベーターへ乗り込んだ。
依頼者は、そこで一人暮らしをしていた年配女性の息子さんだった。
女性はキッチンで倒れ、そのまま亡くなられたという。
発見までに時間がかかり、室内は腐敗が進んでいた。
依頼の電話を受けたとき、依頼者は最初にこう言った。
「最初から、施行できる装備で来てください。」
この一言で、おおよその状況は想像がついた。
腐敗臭の程度、体液の広がり、害虫の発生。
特殊清掃では、電話でのやり取りだけでも、ある程度現場を予測することができる。
だから私は、防護服や防毒マスク、薬剤など必要な資機材を最初から積み込み、そのまま現場へ向かった。
部屋へ案内されると、予想どおり独特の腐敗臭が鼻を突いた。
しかし、その臭いを除けば、室内は見事なものだった。
広々としたリビング。
大きな窓から見える都心の景色。
陽の光が差し込む明るい室内。
家具はどれも上質で、調度品にも統一感がある。
飾られている絵画や花瓶も、おそらく安い物ではないだろう。
生活感はある。
それでいて雑然としていない。
長年、大切に暮らしてきたことが伝わってくる部屋だった。
見積もりを作成し、依頼者へ説明しようとすると、息子さんは私の話を遮るように穏やかな口調で言った。
「全部お任せします。」
私は念のため、作業内容と金額について説明しようとした。
すると、
「詳しく説明していただかなくても大丈夫です。」
「プロにお願いするんですから、お任せします。」
そう言って、見積書をほとんど見ることもなかった。
さすがに金額だけは了承をいただかなければならない。
私は提示した見積金額を伝えた。
すると返ってきた言葉は、
「いくらかかっても構いません。」
「こういう仕事をお願いするんですから、高めでも結構ですよ。」
だった。
私は一瞬、言葉に詰まった。
これまで数え切れないほど見積もりをしてきたが、「高めでも構わない」と言われた経験はそう多くない。
もちろん、だからといって法外な金額を請求するつもりはない。
しかし、依頼者のその言葉に甘え、通常より少しだけ余裕を持たせた見積書へ書き直した。
それでも依頼者は金額を見ることなく、
「お願いします。」
とだけ頭を下げた。
作業が始まると、依頼者は必要以上に話し掛けてくることもなく、こちらを急かすこともない。
「暑いでしょう。」
「何か必要な物はありませんか。」
そんな気遣いまでしてくださった。
私は黙々と作業を進めながら、ふと考えた。
「この人は、一体どんな仕事をしてきたのだろう。」
「どれほど努力すれば、こういう暮らしができるのだろう。」
羨ましいという気持ちもあった。
同時に、自分とはまるで違う世界を見ているような、不思議な感覚にもなった。
特殊清掃という仕事をしていると、人の人生の終着点を見ることが多い。
その最後の部屋が、こうも立派な住まいであることに、改めて社会の広さを感じずにはいられなかった。
午後――千葉県の公営団地へ
午前中の作業を終え、車内で軽く昼食を済ませると、午後は千葉県内にある公営団地へ向かった。
同じ集合住宅でも、午前中とはまるで景色が違う。
築年数を感じさせる団地群が並び、外壁には経年による色あせが見える。階段の手すりや共用廊下にも長い年月が刻まれていた。
もちろん、それが悪いという意味ではない。
長く地域の人たちの暮らしを支えてきた団地なのだろう。
ただ、午前中に見た高級マンションの光景があまりにも鮮明だっただけに、その違いがより強く印象に残った。
今回の依頼は特殊清掃ではない。
病院で亡くなられた方の遺品回収と室内の片付けである。
部屋は2DK。
決して広くはない。
玄関を開けると、生活用品が所狭しと置かれ、部屋全体が雑然としていた。
テーブルの上には郵便物や日用品が積み重なり、床にも衣類や袋が点在している。
長年暮らしてきた生活の積み重ねなのか、それとも亡くなられてから誰も手を付けられなかったのか。
生活用品と不要な物との境界が分からないほど、室内は物であふれていた。
私は一通り部屋を見て回り、作業量を確認する。
その間、遺族の方は何度もこう口にした。
「これはまだ使える。」
「これは新しいんですよ。」
「誰か欲しい人がいるでしょう。」
家具、家電、雑貨、衣類……。
一つひとつについて説明してくださる。
しかし、私が見る限りでは、中古品として買い取れるような物は見当たらなかった。
年式が古い家電。
使用感の強い家具。
市場価値の付かない日用品。
残念ではあるが、私たちが買い取りできる基準には届かない。
私は理由を説明しながら、一点ずつ丁寧にお断りした。
ところが、納得はしていただけなかった。
「そんなはずはない。」
「まだ十分使える。」
「これなら売れるでしょう。」
同じようなやり取りが何度も続く。
気持ちは理解できる。
故人が大切に使っていた物だからこそ、簡単に『価値がない』とは思いたくないのだろう。
しかし、思い入れと市場価値は別の話である。
私たちは感情ではなく、再販できるかどうかという現実で判断しなければならない。
結局、買い取りはすべてお断りすることになった。
続いて遺品回収の見積もりを提示すると、今度は料金の話になった。
「もう少し安くならないですか。」
「そこを何とか。」
「他の業者ならもっと安いでしょう。」
そこから細かな値引き交渉が始まった。
一つ値引きをすると、さらにもう一歩。
こちらが譲れば、また次の値引きを求められる。
もちろん、価格交渉そのものを悪いとは思わない。
少しでも費用を抑えたいという気持ちは、多くの依頼者に共通している。
私たちも、できる範囲で協力することはある。
しかし、この日の交渉は、私が提示できる限界を大きく超えていた。
さらに、話し方もどこか高圧的で、こちらの説明を聞こうとはしていただけない。
私は心の中で、「このまま契約しても、お互い気持ちよく仕事はできないだろう」と感じていた。
仕事は契約して終わりではない。
作業中も、完了後も、依頼者との信頼関係が必要になる。
最初の段階でそれが築けないと感じたときは、無理に受けるべきではない。
そう判断した私は、
「申し訳ありませんが、今回はご希望に添えそうにありません。」
とお伝えし、その場を辞退した。
車へ戻り、エンジンを掛ける。
午前中の現場と午後の現場が頭の中で自然と重なった。
同じ一日の出来事。
どちらも家族を亡くした遺族との仕事だった。
それなのに、現場の空気も、依頼者とのやり取りも、費用に対する考え方も、あまりにも対照的だった。
もちろん、この一件だけで「裕福な人はこうだ」「生活が苦しい人はこうだ」と決めつけるつもりはない。
これまでの経験でも、その逆のケースはいくらでも見てきた。
ただ、この日は偶然とは思えないほど、二つの現場が「格差」という言葉を強く意識させる一日だった。
車を走らせながら、私は「人の暮らしの違いは、亡くなった後にも表れるのかもしれない」と、そんなことを考えていた。
格差社会という現実
「格差社会」。
今ではテレビや新聞でも当たり前のように使われる言葉だ。
収入格差、資産格差、教育格差、地域格差……。
数字や統計で語られることが多いが、私はこの仕事を始めてから、その格差は「人が亡くなった後」にも存在することを知った。
もちろん、誤解してほしくない。
私は、裕福な人は人格者で、生活に余裕がない人は横柄だと言いたいわけではない。
そんな単純な話ではないことは、三十年以上この仕事を続けてきて嫌というほど見てきた。
高級住宅街で理不尽な依頼者に怒鳴られたこともある。
反対に、生活保護を受けながらも何度も頭を下げ、「よろしくお願いします」と涙ながらに故人を送り出した遺族にも出会ってきた。
人柄と財産は比例しない。
それは間違いない。
だから、今回書いた二つの現場は、あくまでも「あの日、私が体験した二つの出来事」でしかない。
しかし、それでも考えさせられることは多かった。
午前中の依頼者は、「お任せします」と言った。
金額よりも、きちんと母親を送り出してほしいという思いが伝わってきた。
一方、午後の依頼者は、少しでも費用を抑えようと必死だった。
もしかすると、経済的な事情があったのかもしれない。
突然の葬儀や入院費で、想像以上の出費になっていたのかもしれない。
事情は私には分からない。
だから責めることはできない。
ただ、現実として、お金に余裕がある人には「選択肢」がある。
専門業者へすべて任せることもできる。
時間を買うこともできる。
心の負担を減らすこともできる。
しかし、余裕がなければ、自分たちで片付けるしかない人もいる。
一円でも安い業者を探し回る人もいる。
私は、その違いを何度も見てきた。
特殊清掃や遺品整理は、決して安い仕事ではない。
だからこそ、その費用が家族の負担になることもある。
「死ぬにもお金が掛かる。」
そんな言葉を依頼者から聞いたことがある。
そのときは少し大げさに感じたが、この仕事を続けていると、その意味が少しずつ分かってきた。
葬儀。
火葬。
納骨。
遺品整理。
特殊清掃。
家の解約。
相続手続き。
人が一人亡くなるということは、想像以上に多くの手続きと費用が発生する。
その負担は、遺された家族が背負うことになる。
だから私は、依頼者の値引き交渉を一概に悪いとは思わない。
少しでも支出を減らしたいという気持ちは理解できる。
ただ、私たちにも適正な作業費がある。
薬剤にも、資材にも、人件費にも、お金が掛かる。
利益が出なければ会社は続かない。
そこで無理をすれば、結局は他の依頼者にも迷惑が掛かる。
だから私は、契約をお断りすることがある。
それは冷たいからではない。
お互いのためだと思っているからだ。
私は決して善人ではない。
この仕事を社会貢献だけで続けているわけでもない。
生活がある。
利益も必要だ。
嫌な依頼者とは仕事をしたくないと思うことだってある。
だから、自分を聖人君子のように語るつもりはない。
偽善者にはなりたくないからだ。
それでも、一つだけ変わらず心掛けていることがある。
亡くなった方だけは、平等に扱うこと。
高級マンションでも、公営団地でも。
資産家でも、生活保護受給者でも。
孤独死でも、病院で亡くなっても。
故人に罪はない。
その人が歩んできた人生を私は知らない。
だから最後くらいは、できる限り丁寧に送り出したい。
これが、特殊清掃という仕事を続ける中で、私なりにたどり着いた答えである。
あの日は、たまたま午前と午後で極端な現場が続いただけなのかもしれない。
しかし、あの一日は私に、「格差社会」という言葉を数字ではなく、人の暮らしと人の死を通して考えさせた一日だった。
そして、おそらく明日もまた、新しい現場で新しい現実を見ることになる。
それが、この仕事なのである。





