特殊清掃「液体人間」を更新いたしました。
液体人間
今回の表題を見て、これ以降にどんな文章が続いていくのか、なんとなく想像がついた方もいると思う。
「液体人間」。
なんとも爽やかで、未来的で、SFチックなタイトルである。
たとえば、特殊な薬品を浴びた人間が液体になってしまうとか、透明な身体を手に入れてしまうとか、そういう話ならまだいい。
残念ながら、今回はそういう夢のある話ではない。
食事中の方、そしてこれから食事をしようと思っている方は、一旦このページを閉じて、食事を済ませてから、食後のコーヒーでも飲みながら読んでいただいた方がいいかもしれない。
……いや。
食後でも、あまりおすすめはしない。
むしろ、読まない方がいいかもしれない。
どうです?
なかなか上手な誘い方でしょ?
「見るな」と言われると見たくなる。
「読むな」と言われると読みたくなる。
人間というのは、実に厄介な生き物である。
一応、読者の皆さんに避難する時間を与えるため、ここで少し行間を空けておこう。
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……まだ逃げていない?
では、始めます。
今回のお話は、腐敗液について。
25年ほど前に書いた文章を読み返してみたら、我ながら「よくこんなことを文章にしたな」と思った。
しかし、時間が経って読み返してみても、内容そのものを無かったことにする気にはなれなかった。
なぜなら、これは人間が死んだ後に実際に起こることであり、誰かが知らなければならない現実でもあるからだ。
ただし、知ったところで何の役にも立たない知識というものも世の中にはある。
この話は、かなりそちら寄りだと思う。
人間が亡くなり、そのまま時間が経過すると、身体は少しずつ変化していく。
最初は「人間の身体」だったものが、時間とともに別の状態へ移っていく。
そして、最終的には液状化したものが周囲に残されることがある。
これが、いわゆる腐敗液だ。
文字だけなら、それほどでもない。
「腐敗液」。
漢字四文字。
ところが、実際の現場を知ってしまうと、この四文字の破壊力が尋常ではなくなる。
特に強烈なのが臭いだ。
腐敗液が放つ悪臭には、とんでもないパワーがある。
もちろん鼻にくる。
しかし、それだけではない。
腹の奥を直接えぐってくるような臭いなのである。
一般の人でも「これは臭い」ということは分かる。
しかし、「これは腐乱死体の臭いだ」と判別できる人は、そう多くない。
そりゃそうだ。
そんな経験、人生で何度もするものではない。
できれば一度も経験しない方がいい。
私の場合は、残念ながら、かすかな臭いでも普通の悪臭と腐乱死体臭を区別できる。
まったく自慢にならない特殊能力である。
履歴書に書いたら、たぶん採用担当者に微妙な顔をされる。
「特技は?」
「腐乱死体の臭いを判別できます」
……不採用。
たまに街を歩いていると、どこからともなく、それに似た臭いが漂ってくることがある。
その瞬間、
「ん?」
となる。
普通の人なら、そのまま通り過ぎるところだ。
ところが、こちらは一瞬立ち止まってしまう。
「あれ……?」
そして周囲を見回す。
この習性は、あまり身につけない方がいい。
なぜなら、もし本当に何かを発見してしまったら、その先には警察だの、現場保存だの、事情聴取だの、いろいろな面倒が待っているからだ。
もちろん、人命に関わることであれば話は別だ。
しかし、亡くなってから相当な時間が経過したような状況なら、すでに手遅れである。
そういう意味では、街中で「なんとなく嫌な臭いがする」と感じても、私はそれ以上の深追いをしない。
冷たいと言われれば、その通りかもしれない。
でも、世の中には「知らない方がいいこと」もある。
そして、「知らない方が幸せなこと」と「知らなければならないこと」は、必ずしも同じではない。
このあたりは、25年前の自分より、今の自分の方が少しだけ分かるようになった気がする。
さて。
話を腐敗液に戻そう。
腐敗液は、大きく分ければ脂や血液、分解された組織などが混ざり合ったものとして残る。
現場によって状態はかなり違う。
黄色っぽく濁ったもの。
赤茶色っぽいもの。
時間が経つにつれて黒ずんだもの。
粘り気が強くなったもの。
乾燥して固着したもの。
私は昔から、こういうものを食べ物に例えてしまう悪い癖がある。
黄色っぽいものを見ると、濁ったオリーブオイルのように見える。
赤茶色のものを見ると、チョコレートに少し赤味を足したように見える。
乾燥して薄く固まったものは、薄く伸ばした飴のようにパリパリになって剥がれる。
厚く残っているものは……。
いや。
ここから先は食べ物の話をやめておこう。
読者の食欲に対して、これ以上の攻撃を加える必要はない。
しかし、なぜ私は死体を食べ物に例えてしまうのだろう。
最近になって、ようやくその理由を考えるようになった。
食べるという行為は、生きるということと直結している。
腹が減る。
食べる。
栄養を取り込む。
身体を維持する。
つまり、食は「生」の象徴でもある。
その一方で、腐敗は「死」の象徴だ。
生きるために食べるものと、死んだ身体が変化していく姿。
本来なら正反対にあるものなのに、現場では妙なところで隣り合っている。
だからこそ、脳が理解しやすいものに置き換えてしまうのかもしれない。
……などと、それらしいことを書いてみたが、本当のところは単に食いしん坊なだけかもしれない。
人間、自分のことを美しく解釈しすぎない方がいい。
故人が亡くなった場所によって、腐敗液の残り方も大きく違ってくる。
畳やカーペットなど、液体が染み込むものの上であれば、当然ながら内部へ入り込む。
表面だけを綺麗にすれば終わり、というわけにはいかない。
深刻なケースになると、畳を通り抜け、床板まで影響している。
さらに、その下まで汚染が及ぶこともある。
こうなると、清掃というより、もはや建物そのものとの戦いになってくる。
特にアパートやマンションなどの集合住宅では話がややこしい。
一室で起きたことが、その部屋だけの問題では済まなくなるからだ。
床を剥がす。
建材を交換する。
場合によっては、その下まで確認する。
見た目だけ綺麗にしても意味がない。
臭いというものは、こちらが思っている以上にしぶとい。
「もう大丈夫だろう」と思った頃に、ふと戻ってくる。
まるで、
「まだ終わってませんよ」
と、建物のどこかから言われているような気分になる。
逆に、フローリングやビニールクロスなど、液体が染み込みにくい場所では、その場に溜まる。
これはこれで大変だ。
むしろ、こちらの方が精神的にはキツい場合もある。
なぜなら、目の前にあるものを直接処理しなければならないからだ。
拭き取る。
吸い取る。
場合によっては汲み出す。
ここまでくると、経験を積んでいても、さすがに楽しい仕事ではない。
もちろん、最初から楽しいと思っている人などいない。
作業をするためには、頭の中である種の切り替えが必要になる。
「これは元々、人間だった」
という事実を、いったん脳の隅に追いやる。
そうしないと手が止まる。
液体を「人体」と認識してしまえば、精神的な負荷が一気に跳ね上がる。
だから、
「これは処理するべき物質だ」
「これは清掃対象だ」
と、自分に言い聞かせる。
人間というのは、意外と器用なもので、必要に迫られると感覚を切り離すことができる。
ところが、油断すると一瞬で現実が戻ってくる。
「ああ、これは元々、人間だったんだ」
そう思った瞬間、
「オエーッ!」
となる。
脳というのは、本当に余計なことを思い出してくれる。
だから現場では、感情を持ち込まない。
もちろん、故人に対して何も感じていないわけではない。
むしろ逆だ。
だからこそ、作業中は考えない。
考えれば手が止まる。
手が止まれば仕事にならない。
仕事にならなければ、結局は故人のためにも、残された人のためにもならない。
これもまた、ある意味では「プロ」というものなのだろう。
ただし、プロだから平気なのかと言えば、そんなことはない。
慣れることと、平気になることは違う。
臭いを知っているから処理できる。
手順を知っているから作業できる。
経験があるから、次に何をすればいいか分かる。
それだけだ。
心まで鋼鉄になるわけではない。
人間なので、嫌なものは嫌である。
「どっちの現場がいい?」
そんな話を仲間内ですることもある。
浸透する床と、浸透しない床。
どちらにも、それぞれの苦労がある。
浸透性のあるものなら、清掃そのものは大変でも、汚染されたものを撤去しなければならない。
不浸透性なら、目の前に溜まっているものを処理する必要がある。
結局、
「どっちも嫌だな」
で終わる。
世の中には、どちらかを選べる幸せな二択と、どちらを選んでも罰ゲームみたいな二択がある。
これは完全に後者である。
そして、こういう現場では季節も重要になる。
特に気温の高い夏。
温度が上がれば、当然ながら腐敗も進みやすい。
人間の身体も、放っておけば変化していく。
チョコレートやアイスクリームと同じように……。
……おっと。
また食べ物に例えてしまった。
もう病気である。
せっかくの夏休みに、こんな文章を読んでいる人がいたら申し訳ない。
ただでさえ夏は食欲が落ちるというのに、このブログを読んでさらに食欲を落としてしまったら、私としても少々責任を感じる。
とはいえ、25年前の文章を読み返してみて思うのは、当時の自分は「死」をかなり直接的に見ていたということだ。
今なら、もう少し違う書き方をするかもしれない。
当時は「こんな凄い現場がある」ということを伝えたかった。
今は、それだけでは足りない気がする。
凄い。
臭い。
気持ち悪い。
大変だ。
もちろん、全部本当だ。
でも、それだけで終わってしまうと、死んだ人間を単なる「気持ち悪いもの」にしてしまう。
そこには、生きていた人間がいた。
誰かの家族だったかもしれない。
誰かの親だったかもしれない。
誰かにとって大切な人だったかもしれない。
あるいは、長い間誰とも会わずに暮らしていた人だったかもしれない。
その人が最後に残したものを、我々は片付ける。
それが特殊清掃という仕事だ。
だからといって、毎回涙を流しながら作業するわけではない。
そんなことをしていたら仕事にならない。
逆に、感傷に浸りすぎるのも違う。
必要なことを、必要な手順で、淡々とやる。
そして、終わったら帰る。
それでいい。
偽善的に、
「故人の魂に寄り添って……」
などと毎回言うつもりもない。
そんな綺麗な仕事ではない。
臭いものは臭い。
気持ち悪いものは気持ち悪い。
怖いものは怖い。
大変なものは大変。
そこを無理に美談にする必要はないと思っている。
むしろ、そういう現実を現実のまま認めた上で、それでも誰かがやらなければならない仕事を引き受ける。
それで十分ではないだろうか。
25年前の自分に、もし今の自分が声をかけるとしたら、
「お前、ずいぶん長くやってるな」
くらいでいい。
「素晴らしい仕事だ」
なんて、わざわざ言わない。
本人だって、そんなことを言われても困るだろう。
ただ、
「よく続いたな」
とは言ってやりたい。
そして、昔の文章を読み返していると、当時は気づかなかったことにも気づく。
人間の身体は、死んだあと、思っている以上にあっさりと形を失っていく。
生きている間は、
「自分」
というものを、身体と心のセットで当たり前のように感じている。
鏡を見る。
手を見る。
歩く。
食べる。
笑う。
怒る。
働く。
眠る。
それら全部が「自分」だと思っている。
ところが、死んでしまえば、その身体も少しずつ変化し、最後には土に還っていく。
髪が残る。
骨が残る。
爪が残る。
そして、しばらくの間は、誰かの記憶が残る。
でも、その記憶だって永遠ではない。
最初は毎日のように思い出していた人のことも、何年も経てば、思い出す回数が減っていく。
声を思い出せなくなる。
顔の細かい部分を思い出せなくなる。
一緒に何を食べたのかも忘れる。
そうして、少しずつ消えていく。
死ぬというのは、身体がなくなることだけではないのかもしれない。
誰かの記憶から少しずつ消えていくことまで含めて、「死」なのかもしれない。
そう考えると、少し寂しい。
……と、最後くらいは真面目に締めようと思ったが、ここまで書いてきた内容が内容だけに、急に文学的になるのも気持ちが悪い。
なので、最後まで適当に締める。
我々の肉体は、放っておけば液体になり、やがて形を失い、そして消えていく。
髪と骨と爪。
そして、誰かの記憶。
それらも時間とともに少しずつ消えていく。
どんなに立派な人間でも。
どんなに偉い人間でも。
どんなに金持ちでも。
どんなに悪い人間でも。
最後はだいたい同じだ。
人間というのは、ずいぶん公平にできている。
だから、生きている間くらいは、もう少し好きにやってもいいのかもしれない。
美味いものを食べて。
くだらないことで笑って。
誰かと喧嘩して。
仲直りして。
たまには人に迷惑をかけて。
そして、できれば誰かの記憶に、少しだけ残る。
それくらいでいい。
どうせ最後には、液体になって消えていくのだから。
……そう考えると、今日の昼飯くらい、好きなものを食べてもいいんじゃないだろうか。
ただし。
この文章を読んだ直後に肉料理を食べるかどうかは、自己責任でお願いします。
人生は夢幻なり。
そして私は、今日も食欲だけは失わない。
たぶん、それが一番大事なのだ。





