特殊清掃「毎度ありー!」を更新いたしました。
毎度ありー!
私は声を小にして言いたい。
「死体業は最低の仕事だ!しかし、最高の仕事でもある!」
もちろん、誰にでも大声でお勧めできる仕事ではない。
「将来何になりたい?」
そう聞かれた子どもが、
「死体を扱う仕事!」
と答えたら、親御さんはたぶん少し考え込むだろう。
学校の卒業文集に「将来の夢・死体業」と書いてあったら、担任の先生も赤ペンを持つ手が一瞬止まるに違いない。
それでも私は、この仕事を嫌いではない。
いや、正確に言えば、嫌いになれない。
仕事というものは不思議なもので、楽しいから続けられる仕事ばかりではない。むしろ、しんどいからこそ、やっている意味を感じる仕事もある。
私の場合は、たぶん後者なのだろう。
依頼された仕事を終え、遺族に最後の挨拶をするとき、私はだいたい決まった言葉を掛ける。
「今後、再びお目にかかることがないように……」
自分で言っておいて、ちょっと寂しくなる。
普通の仕事なら、
「また何かありましたら、よろしくお願いします」
などと言える。
商売なら、
「またのご利用をお待ちしております」
でいい。
居酒屋なら、
「毎度ありー!」
である。
しかし、私の仕事では「またお願いします」は、どう考えても言えない。
むしろ、二度と会わないことを願っている。
それが仕事を完了した私から遺族への、いちばん自然な挨拶なのだ。
ところが、言われた側は困る。
「こちらこそ、ありがとうございました。また……」
とは言えない。
かといって、
「二度と会わないようにします!」
も、なんだか物騒だ。
だから、みなさん一瞬、言葉に詰まる。
こちらとしても、社交辞令のマニュアルから外れた場所にいるので仕方がない。
私という人間は、どうやら「いつもの社交辞令が使えない、やっかいな相手」らしい。
それでも遺族の方々は、こちらを気遣ってくれる。
私の仕事が決して楽なものではないことを察して、
「大変なお仕事ですね」
と声を掛けてくださる。
中には、自分の子どもと私を重ね合わせるのか、初老の女性から泣かれることもある。
「そんな仕事をして……」
という目で見られる。
こちらとしては、
「いやいや、そんなに不憫な男じゃありませんよ」
と思うのだが、相手は泣いている。
そして私は、泣いている人を前にして、どうしていいのか分からなくなる。
慰めるべきなのか。
笑わせるべきなのか。
それとも、一緒に泣くべきなのか。
さすがにそこで、
「まあ、仕事ですから!」
と笑ってしまうのも違う。
結局、私は少し頭を下げて、
「ありがとうございます」
と言うくらいしかできない。
でも、よく考えてみれば、赤の他人である私のことを思って泣いてくれる人がいる。
たとえ、それが一時的な同情心であったとしても、それはありがたいことだと思う。
人間は、他人のために涙を流せる生き物なのだ。
そういう場面に出会うと、死体を扱う仕事をしている私が、逆に人の温かさを見せてもらっているような気持ちになる。
たまに、
「どのくらい、この仕事をやっているんですか?」
「どうして、この仕事をやっているんですか?」
と聞かれることもある。
そういう人は、たいてい少し複雑な表情をしている。
「この男には、何か余程の事情があるのではないか」
という顔だ。
そして、その「余程の事情」が気になって仕方がない。
人間というのは、見えないところに物語があると、つい覗きたくなるものらしい。
ただ、私は現場にお喋りをしに行っているわけではない。
だから、長々と身の上話をすることはない。
聞かれれば、要点を絞って正直に話す。
ただし、雰囲気が神妙になりすぎるのは困るので、普段はなるべく凝った自論を展開しないようにしている。
人生について語り始めたら、どこまでも語れてしまうからだ。
「人間とは何か」
「死とは何か」
「生きるとは何か」
なんて話を始めたら、仕事が終わっても帰れなくなる。
遺族も困る。
私も困る。
何より、そんな話をしたあとに「では、失礼します」と帰るのは、あまりにも映画っぽすぎる。
私は映画の主人公ではない。
ただの仕事人である。
だから、できるだけ普通にしている。
そもそも「余程の事情」というのは、私だけが持っているものではない。
誰だって、それぞれに事情を抱えて生きている。
他人から見れば何でもないように見える人にも、本人にしか分からない苦労がある。
笑顔で仕事をしている人にも、家に帰れば悩みがあるかもしれない。
威勢よく客に、
「毎度ありー!」
と叫んでいる店員さんだって、昨日は家で夫婦喧嘩をしていたかもしれない。
満員電車で眠そうにしているサラリーマンにも、誰にも言えない事情があるかもしれない。
スーパーで特売の卵を二パック抱えているおばちゃんにも、若い頃には若い頃のドラマがあったのだろう。
そう考えると、人間というのはみんな、見えないところにそれぞれの物語を持っている。
「余程の事情」があるから、人生はドラマになる。
そして、そのドラマは本人にしか分からない。
だから私は、自分の事情を必要以上に特別扱いしたくない。
「自分だけが大変だ」
なんて思ってしまったら、たぶん人のことが見えなくなる。
死体を扱っていると、人間の最後ばかりを見ることになる。
だからこそ、生きている人間の事情については、なるべく決めつけないようにしたいと思っている。
この仕事をしていると、世間一般でいう「きれいな仕事」とは少し違う。
臭いもある。
汚れもある。
精神的に疲れることもある。
できれば誰もやりたくないと思うような作業もある。
だから「最高の仕事です!」と胸を張って言うのも、ちょっと違う気がする。
やっぱり、最低の仕事だと思う。
でも、その「最低」というのは、仕事そのものの価値が低いという意味ではない。
人が嫌がること。
人には見せたくないこと。
誰かがやらなければならないこと。
そういうものを引き受ける仕事だからこそ、必要とされる瞬間がある。
誰かがやらなければ、遺族はその先へ進めない。
そこに自分の仕事がある。
それだけで十分なのかもしれない。
だから私は、
「最低の仕事だ。しかし最高の仕事でもある」
と思っている。
矛盾しているようだけれど、私の中では矛盾していない。
仕事が終わったあと、居酒屋に入ることがある。
ビールジョッキを傾けながら、店員さんの威勢のいい声を聞く。
「いらっしゃいませー!」
「生、お待たせしましたー!」
「毎度ありー!」
あの声が、なんとも心地いい。
ああいう仕事もいいなあ、と思う。
何しろ明るい。
客が来る。
注文が入る。
料理を出す。
酒を出す。
最後に、
「毎度ありー!」
と言って送り出す。
なんて素晴らしい商売だろう。
私もたまには、そんなふうに元気よく言ってみたい。
「毎度ありー!」
と。
ただし、私が言ったら客がびっくりするかもしれない。
「お待たせしました!」
と言いながら何かを持ってきても、
「中身は見ないでください」
なんて言いそうである。
それでは居酒屋ではなく、別の店になってしまう。
だから、やめておこう。
とはいえ、洗い物なら得意だ。
汚れたものを洗う。
きれいにする。
元の場所に戻す。
そういう作業は嫌いじゃない。
考えてみれば、私の仕事も似たようなところがある。
誰かが困っている。
誰かがやらなければならない。
ならば、自分がやる。
そして、終わったら静かに帰る。
「またよろしくお願いします」
ではなく、
「今後、再びお目にかかることがないように……」
と。
やっぱり、ずいぶん変わった仕事だ。
でも、そんな変わった仕事をしている自分を、私はそれほど嫌いではない。
むしろ、ちょっとくらい誇りに思ってもいいのではないかと思う。
人間、最後まで誰かの世話になる。
生まれるときも誰かの手を借りる。
生きている間も、誰かに支えてもらう。
そして死んだあとも、誰かの手が必要になる。
私は、その最後のところを少しだけ担当している。
それだけのことだ。
だから今日も、仕事が終わったら頭を下げる。
「ありがとうございました」
そして、いつもの言葉を掛ける。
「今後、再びお目にかかることがないように……」
少し寂しい。
でも、それがいちばんいい。
その人たちが、もう二度と私を必要としない人生を送ってくれれば、それに越したことはない。
そして私は、また次の現場へ行く。
誰かの「余程の事情」を背負いながら。
仕事が終われば、また帰る。
腹が減れば飯を食う。
喉が渇けばビールを飲む。
そして、居酒屋の店員さんの元気な声を聞きながら思う。
「毎度ありー!」
……いいなあ。
一度くらい、言ってみたい。
もちろん、洗い物担当で。
時給が良ければ、なお最高である(笑)。





