特殊清掃「線香花火」を更新いたしました。
線香花火
私は、夏の夜の花火が好きだ。
中でも、夜空いっぱいに咲く打ち上げ花火が好きだ。
時間が合わなくて、ここ何年も花火大会には行っていないけれど、遠くで「ドン!」という音が聞こえたり、テレビで花火の映像を見たりすると、いまだに少し胸が躍る。
ドン!と上がったかと思えば、パッと開き、サラッと消えていく。
音に迫力があり、火花には華があり、そして去り際には潔さがある。
「私はここに咲きましたよ」と言わんばかりに夜空を占領しておきながら、いつまでも居座らない。その潔さがいい。
しかも、花火というものは、妙に人間的だ。
まず目に入って、それから少し遅れて音が届く。
光と音が同時ではない。私たちは「ドン!」という音を聞いたときには、すでにその花火を見てしまっている。
考えてみれば、人間の人生も似たようなものかもしれない。
本人が生きている最中には、なかなかその人の人生の全体像は見えない。ところが、その人がいなくなってから、「あの人は、ああいう人生だったのだな」と、残された者たちが後から意味をつけ始める。
花火が消えてから、少し遅れて音が届くように。
そんなことを考えると、花火に人の生き死にが重なって見えてくる。
日本文化の中では、もしかすると、花火には日本男児的な「男らしさ」のようなものまで漂っているのかもしれない。
ドンと上がって、パッと咲いて、サッと散る。
未練がましくない。
泣き言を言わない。
自分の存在を大声で説明することもない。
「見たか!」と一瞬だけ夜空に言い放ち、あとは何事もなかったように消えていく。
男らしいといえば、確かに男らしい。
ただ、私の場合は、そこまで格好よくはいかない。
玉の大きさも、上がる高さも人それぞれ違うけれど、誰の人生にも、きっとそれなりの「華」がある。
では、そういう私は、いったいいつ頃が華だったのだろう。
若い頃だったのか。
何かに夢中になっていた頃だったのか。
仕事や遊びに勢いがあった頃だったのか。
それとも、華はこれから来るのだろうか。
あるいは、生きていること自体が華だったりして……ね。
そう思うことにしておけば、今さら人生のピークが過ぎていたとしても、少し気が楽になる。
「ピークはまだ来ていない」と言い張るのも、自己管理の一種かもしれない。
もっとも、世の中には、自分の人生を管理するのが上手な人もいれば、私のように、管理される側に回ったほうが楽な人間もいる。
先日、壮年の男性が亡くなった。
死因は糖尿病だった。
どんな病気でも闘病は辛く苦しい。少なくとも、快く楽しいものではないだろう。
糖尿病の場合、食事制限や運動など、日々の生活そのものを見直さなければならない。好きなものを好きなだけ食べる、面倒だから動かない、今日は疲れたから明日にする――そういう小さな「まあ、いいか」が積み重なっていく。
そして人間というものは、恐ろしいほど「まあ、いいか」が得意である。
私など、その才能にはかなり自信がある。
故人が医師の忠告を軽く見ていたのか、節制ができなかったのか、それは分からない。
ただ、遺族の話を聞く限りでは、本人も家族も、まさか死に至るほど深刻な状況になるとは思っていなかったらしい。
「まさか、そんなことになるとは」
人が亡くなった後に、よく聞く言葉だ。
けれど、「まさか」は、たいてい生きている間には来ない。
だから「まさか」なのだ。
いくら後悔したところで、後の祭りである。
いや、花火大会なら、後の祭りでも来年がある。
人生の場合は、そうはいかない。
遺族は故人のことを、「男らしかった」と繰り返し褒めていた。
本当にそうだったのだと思う。
けれど、その言葉には、亡くなった人を讃える気持ちと同時に、残された人たちが自分自身を納得させようとする気持ちも、少し混じっていたように感じた。
「男らしかったから仕方がない」
そんなふうに言葉にすることで、悲しみや後悔や、「もっと何とかできたのではないか」という思いを、どうにか整理しようとしていたのかもしれない。
人は、身近な人が亡くなると、事実だけでは受け止めきれない。
だから、物語を作る。
「あの人らしい最期だった」
「最後まで頑固だった」
「男らしく生きた」
そういう言葉を並べて、どうにかその人の死を、自分の中に収めようとする。
それは偽善なのだろうか。
私は、そうは思わない。
人間は、悲しいときに悲しいだけでは、生きていけない。
笑い話にしたり、美談にしたり、時には少し都合よく解釈したりしながら、なんとか明日へ進んでいく。
それもまた、人間の自己管理なのかもしれない。
ところで、意志の弱い私などにとって、「自己管理」という言葉ほど耳の痛いものはない。
自分で自分を律する。
言うのは簡単だが、実行するとなると難しい。
早寝早起き。
適度な運動。
食べ過ぎない。
飲み過ぎない。
働き過ぎない。
怠け過ぎない。
怒り過ぎない。
悩み過ぎない。
こう並べてみると、人生というものは、かなり忙しい。
「食べ過ぎるな」と言われれば食べたくなるし、「飲み過ぎるな」と言われれば、なぜかもう一杯くらい飲みたくなる。
「明日から頑張ろう」と思った瞬間、明日がずっと先にあるような気がしてくる。
自己管理とは、どうやら自分という、なかなか言うことを聞かない部下を管理することらしい。
しかも、その部下は自分自身なので、クビにもできない。
だったら、他人に管理してもらったほうがよっぽど楽だ。
「今日はここまでにしてください」
「もう食べないでください」
「ちゃんと寝てください」
そう言われると、多少腹は立つが、従えばいい。
ところが、自分で自分に言うと、
「まあ、今日くらいはいいか」
となる。
自分という上司は、部下に甘い。
そして自分という部下も、上司の甘さにつけ込む。
実に困った会社である。
ひと昔前、アメリカでは、出世できない人物像として二つの要因が挙げられる、という話を聞いたことがある。
「太った人間」と「タバコを吸う人間」。
要するに、
肥満・喫煙
↓
自己管理能力が低い
↓
社会に通用しない
↓
出世できない
という図式らしい。
もちろん、現実の人間はそんな単純なものではない。
体型や喫煙習慣だけで、その人の能力や人格を決めつけることなどできない。
それでも当時の私は、「自己管理能力」という考え方そのものには、妙に納得した。
仕事ができる人は、自分の時間を管理する。
お金を管理する。
体調を管理する。
感情を管理する。
そして、人生を管理する。
――本当に、そんなことができるのだろうか。
人生において、いったい何を、どう自己管理すればいいのだろう。
「人生」という道を歩くとき、どこに重きを置いて進めばいいのか。
我々は、常に明日の不安ばかりに心を奪われ、今日を見失ってはいないだろうか。
昨日のことばかり悔やんで、今日まで暗い一日にしてはいないだろうか。
あるいは、
「今が良ければ、それでいい」
と短絡的な一歩を進めてはいないだろうか。
昨日を悔やまず、明日を思い煩わず、今日を楽しむ。
昨日を反省し、明日に備え、今日を実らせる。
昨日の思い出に笑い、明日の夢に期待し、今日の糧に感謝する。
それが私の理想だ。
しかし、言うは易く行うは難し。
昨日を反省しているうちに、今日が終わる。
明日のことを心配しているうちに、今日の楽しみを忘れる。
今日を楽しもうと思ったら、今度は「こんなことをしていていいのか」と不安になる。
結局、どこにも落ち着かない。
人間というものは、現在に住んでいるくせに、過去と未来を行ったり来たりしている。
便利なことに、身体は今日にありながら、心だけはタイムマシンに乗れる。
しかも、そのタイムマシンには、なぜかブレーキがついていない。
それでも思う。
人生は、本当の意味では自己管理できない。
自分の命さえ、自分で管理できない。
いつ生まれるかも選べない。
いつ死ぬかも分からない。
どんな病気になるかも分からない。
誰と出会い、誰と別れるかも分からない。
どれだけ努力しても、思い通りにならないことはいくらでもある。
だから、「自分の人生は自分で管理するものだ」と言い切ることに、私は少し違和感がある。
むしろ人生というものは、管理するというより、与えられた時間の中で、その都度、折り合いをつけていくものなのではないか。
自分で決められることは決める。
決められないことは、ある程度あきらめる。
失敗したら反省する。
反省したら、できれば笑い話にする。
そして、また次の日を生きる。
そのくらいが、私にはちょうどいい。
私は、派手な花火に憧れる線香花火である。
世の中の表舞台に立つこともなく、大きな音を響かせることもない。
夜空を一瞬で彩ることもない。
火をつけても、しばらくは小さな赤い玉が、じっと燃えているだけだ。
若い頃には、私だって、やたらと派手な花火を打ち上げてやろうと思ったことがある。
「俺はこれをやるんだ」
「いつか大きなことをしてやる」
「世間をアッと言わせてやる」
若さというものは、ありがたい。
根拠のない自信を、惜しげもなく無料配布してくれる。
ところが、歳を重ねると、だんだん分かってくる。
自分が思っているほど、自分は特別ではない。
世の中は、自分がいなくても案外ちゃんと回っていく。
これは少々寂しい発見だが、同時に、ずいぶん気楽な発見でもある。
世界を背負わなくていい。
誰もが大輪の花火である必要もない。
線香花火には線香花火の時間がある。
小さな火玉が、赤く、静かに燃える。
そこから細い火花が、四方八方へ伸びていく。
派手ではない。
音もしない。
けれど、近くで見ると、なかなか美しい。
そして何より、線香花火は、人を立ち止まらせる。
打ち上げ花火は、みんなが空を見上げて「わあ!」と声を上げる。
線香花火は、少し身体をかがめて、黙って見つめる。
「落ちるなよ」
「もう少し頑張れ」
いつの間にか、そんな気持ちになる。
線香花火の火玉が、ポトリと落ちる。
「ああ……」
ほんの一瞬なのに、少し寂しい。
それは、花火が終わった寂しさなのか、自分の人生を重ねているからなのか、よく分からない。
若い頃なら、「大きく咲いてこそ人生だ」と思ったかもしれない。
今は、少し違う。
大きく咲かなくてもいい。
誰かに見上げてもらえなくてもいい。
ほんの小さな火花でも、自分なりに燃えればいい。
ただし、一つだけ願いがある。
火玉の途中で、ポトリと落ちるのだけは嫌だ。
線香花火のように、最後の最後まで燃えていたい。
最後まで大きな火花を出せ、という意味ではない。
最後まで立派でいろ、という意味でもない。
最後まで元気でいろ、という意味でもない。
弱々しくてもいい。
煙が出てもいい。
途中で何度か消えそうになってもいい。
それでも、「もう十分だ」と自分から火を消してしまうのではなく、最後の一瞬まで、自分の火を持っていたい。
そう思う。
そして、最後に火玉が落ちたなら、
「まあ、よく燃えたじゃないか」
と、自分で自分に言ってやりたい。
人生の華がいつだったのかなんて、最後まで分からないのかもしれない。
若い頃だったのかもしれない。
今日だったのかもしれない。
あるいは、これから先の、まだ見ぬ一日なのかもしれない。
だから、昨日の華を探してばかりいる必要はない。
明日の大輪を夢見すぎる必要もない。
今日、小さな火花が出ているなら、それを眺めていればいい。
昨日を悔やまず、明日を思い煩わず、今日を楽しむ。
昨日を反省し、明日に備え、今日を実らせる。
それができれば十分だ。
人間は、自分の命を自己管理することなどできない。
人生だって、思い通りにはならない。
それでも、自分の火を大切にすることくらいはできる。
私は派手な花火ではない。
線香花火でいい。
いや、線香花火がいい。
大空を埋め尽くすほどの華はなくてもいい。
誰にも気づかれないほど小さな火花でもいい。
ただ、最後の最後まで燃えていたい。
花火大会の夜空を見上げながら、そんなことを思う。
ドン!と鳴って、パッと咲いて、サラッと消える。
そんな華麗な人生もいい。
けれど私には、静かに燃え続ける線香花火のほうが似合っている。
いつか最後の火玉が落ちる、その瞬間まで。
「俺は最期まで燃えて、尽きたい」
そう言えるくらいには、今日をちゃんと生きていたい。





