特殊清掃「How Much?」を更新いたしました。
How Much?
「特殊清掃って、結構稼げるんでしょ?」
この仕事をしていると、本当によく聞かれる質問である。
テレビでは壮絶な現場ばかりが紹介されるし、ネットでは「一件〇十万円」「高額報酬」「危険手当」といった言葉が飛び交っている。そんな情報だけを見れば、「相当儲かる仕事なんだろう」と思うのも無理はない。
いや、正直に言うと、私だって逆の立場ならそう思うかもしれない。
「誰もやりたがらない仕事なんだから、給料くらい良くないと割に合わないだろ。」
そんな想像をする人は少なくない。
ところが現実は、想像ほどドラマチックではない。
もちろん、一般的な仕事では経験できないような現場には数え切れないほど立ち会う。刺激という意味では、これ以上ない仕事かもしれない。
ただし、その刺激は遊園地の絶叫マシンとは違う。
こちらは降りたくても途中下車できない。
そして、乗車券は片道切符だったりする。
そんな仕事に、「稼げそうだから」という理由だけで応募してくる人は、今も昔も後を絶たない。
求人を出すと、まず送られてくるのが履歴書と職務経歴書。
その志望動機を読むと、なかなか面白い。
「社会貢献がしたいと思いました。」
「困っている人の役に立ちたいです。」
「命の尊さを学びたいです。」
もちろん、それが本心の人もいるだろう。
だから否定するつもりはない。
ただ、何百枚も履歴書を見ていると、不思議なことに気づく。
「高収入」と思い込んで応募してきた人ほど、志望動機が立派なのである。
いや、本当に。
まるで福祉職に応募するかのような美しい文章を書いてくる人も珍しくない。
「この文章、昨日ネットで検索したでしょう?」
と思わず聞きたくなるくらい、きれいにまとまっていることもある。
もちろん、履歴書に何を書くかは本人の自由だ。
だから、それだけで不採用になることはない。
……と言いたいところだが、採用する側にも選ぶ自由がある。
当社が応募条件として求める資格は、基本的には普通自動車免許くらい。
学歴は問わない。
華々しい職歴もいらない。
特別な資格も必要ない。
年齢には多少の条件があるが、それ以外は意外なくらい間口は広い。
だからといって、「誰でも採用」というわけではもちろんない。
採用する以上、一緒に現場へ行く仲間を選ぶことになる。
その責任は決して軽くない。
そして、私が最初に見るものは何か。
学歴でもない。
職歴でもない。
志望動機でもない。
資格でもない。
履歴書の一番小さなスペースに貼られた、一枚の顔写真である。
「え?顔で決めるの?」
そう思われる人もいるだろう。
実際、面接でそんな空気になることもある。
でも私は昔から、「人柄は、ある程度、顔に表れる」と思っている。
もちろん、美男美女かどうかではない。
イケメン選手権を開催しているわけでもなければ、モデル事務所でもない。
私が見ているのは「整った顔立ち」ではなく、「面構え」だ。
この違いは、なかなか言葉では説明しにくい。
けれど、長年さまざまな人と接してきた経験から、「この人なら大丈夫そうだ」と感じる空気のようなものは確かにある。
外れることもある。
人を見る目なんて百発百中ではない。
それでも、不思議なくらい当たることも多い。
だから私は、履歴書の写真をじっと見る。
本当にじっと見る。
応募者からすれば、「そんなに見なくても減るものじゃないですよ」と言いたくなるくらい見ている。
写真の紙が照れそうになるくらい見ている。
そして、「この人に会ってみよう」と思えるかどうかを、自分なりに真剣に考えるのである。
履歴書一枚に、その人は意外と出る
履歴書に貼られた写真は、せいぜい縦4センチ、横3センチ程度。
その小さな四角の中に、人間一人分の情報が詰まっているわけがない――そう思う人もいるだろう。
実際、そのとおりである。
写真一枚で人格のすべてが分かるなんて、そんな超能力は私にもない。
もしそんな能力があれば、競馬や宝くじで人生設計を立てている。
それでも私は、応募書類が届くと、まず写真を見る。
しかも、結構しつこく見る。
「何をそんなに見ているんですか?」
と聞かれれば、自分でもうまく説明できない。
目つきなのか。
表情なのか。
姿勢なのか。
服装なのか。
それとも全部なのか。
「面構え」としか言いようがないのである。
もちろん、写真館で撮った高級な証明写真だから加点されるわけではない。
逆に、スマートフォンで撮影したものでも、きちんとした印象なら十分である。
ただ、中には驚くような写真を貼ってくる人もいる。
旅行先のスナップ写真を切り抜いたようなもの。
友達の肩が少し写っているもの。
背景が居酒屋らしき写真。
「あとの人は誰なんだろう……」
そんなことが気になってしまう写真もある。
残念ながら、その時点で仕事への姿勢まで疑われてしまう。
服装も同じだ。
スーツである必要はない。
ネクタイを締めていなくても構わない。
しかし、ヨレヨレのTシャツや、部屋着のような格好では、「この人は今日という日をどう考えているんだろう」と思ってしまう。
髪がボサボサ。
無精ひげ。
口が半開き。
視線はどこか遠くへ旅に出ている。
そんな写真を見ると、「証明写真を撮る五分くらい頑張れなかったのかな」と、少しもったいなく感じる。
履歴書の写真は、容姿を競うものではない。
「私はこの仕事に応募します。」
その意思表示でもある。
だからこそ、その一枚には準備や誠意が表れる。
私はそう考えている。
世の中には、
「人を見た目で判断するな。」
という言葉がある。
もちろん、その考え方は理解できる。
見た目だけで人を決めつけるのは乱暴だ。
それは間違いない。
ただ一方で、人は見た目にまったく表れないかと言われれば、それも違う気がしている。
日頃の生活。
仕事への向き合い方。
清潔感。
相手への配慮。
そうした積み重ねは、案外、表情や雰囲気ににじみ出るものだ。
もちろん例外はある。
第一印象が怖かったのに、実際は驚くほど優しい人もいる。
逆に、笑顔が爽やかなのに、付き合ってみると「笑顔だけは一級品だった」という人もいる。
だから写真だけで採用を決めることはない。
あくまでも「会ってみたいかどうか」の判断材料の一つでしかない。
それでも長年この仕事を続けていると、写真と実際の人物が大きく違わないことも少なくない。
これは経験則でしかないが、私の中では結構な確率で当たっている。
もちろん、外れることもある。
人を見る目なんて、天気予報より当たる程度で十分だ。
百発百中だったら、逆に気味が悪い。
だから私は、自分の感覚を信じながらも、最後は必ず本人に会う。
声の大きさ。
受け答え。
目線。
立ち居振る舞い。
現場で一緒に仕事ができそうか。
そこまで見て、初めて採用のスタートラインに立つのである。
履歴書は入場券。
写真は予告編。
そして面接が、本編の始まりだ。
ただ、その本編にたどり着ける人は、実はそれほど多くない。
採用される人は、思っているよりずっと少ない
履歴書を見て、「一度会ってみよう」と思えた人だけが面接へ進む。
その割合は、感覚的には半分にも届かない。
十人応募があれば、五人いるかどうか。
つまり、履歴書の段階で半数以上は見送られてしまう。
「厳しいですね。」
そう言われることもある。
確かに数字だけ見れば厳しく感じるかもしれない。
しかし、これは意地悪をしているわけでも、高望みをしているわけでもない。
現場に送り出す以上、「この人なら一緒に仕事ができそうだ」と思える人を選ばなければならない。
特殊清掃は、一人で完結する仕事ではない。
依頼者がいて、仲間がいて、近隣住民がいて、時には警察や大家さん、不動産会社など、多くの人と関わる。
どれほど作業が上手でも、周囲と信頼関係を築けない人では長続きしない。
だから私たちは、「仕事ができそうな人」より、「一緒に働きたいと思える人」を重視している。
面接では、履歴書では分からなかった部分が見えてくる。
緊張して言葉が詰まる人もいる。
それは別に構わない。
誰だって緊張はする。
私だって、若い頃は面接のたびに喉がカラカラだった。
今でも歯医者では緊張する。
あれは別の種類の恐怖だが。
問題なのは、受け答えの上手さではなく、人との接し方である。
質問に対して誠実に答えようとしているか。
分からないことを「分かりません」と言えるか。
自分を必要以上に大きく見せようとしていないか。
そんなところを見ている。
そして、面接を通過した人には、いよいよ現場を見てもらう。
いわゆる体験入社、あるいは業務見学である。
ここで初めて、この仕事の現実と向き合うことになる。
テレビ番組では編集されてしまう空気。
写真では伝わらない臭い。
現場に流れる静けさ。
遺族の表情。
部屋に残された生活の跡。
それらを目の前にした瞬間、「想像と違いました」と言う人は少なくない。
それは責められることではない。
むしろ、実際に見て初めて分かることなのだから当然だ。
私たちも、最初から平気だったわけではない。
誰にでも「初めて」はある。
ただ、その「初めて」を乗り越えられる人と、そうではない人がいる。
そこに優劣はない。
向いているか、向いていないか。
それだけの話である。
体験入社まで進む人は、面接を受けた人の二割にも届かない。
さらに採用されても、試用期間中に辞めてしまう人もいる。
臭いに耐えられない。
精神的な負担が大きい。
生活リズムが合わない。
家族に反対された。
理由は人それぞれだ。
だから最終的に正社員として定着する人は、電話で問い合わせをしてきた人から数えれば、一割にも満たないように思う。
十人中、一人。
感覚的には、それくらいの数字である。
倍率だけ聞けば、ずいぶん狭き門のように聞こえるかもしれない。
しかし、「選ばれた人が優秀」という話ではない。
野球が得意な人もいれば、水泳が得意な人もいる。
デスクワークが向いている人もいれば、人前で話す仕事が向いている人もいる。
それと同じで、この仕事にも向き・不向きがある。
たまたま、その条件に合う人が少ないだけなのである。
だから、「採用されなかった=人として否定された」と受け取る必要はまったくない。
私たちは神様ではない。
人を評価する立場ではあっても、人の価値を決める立場ではない。
そのことだけは、採用する側として忘れないようにしている。
さて、ここまで採用の話を長々としてきた。
すると、画面の向こうから、こんな声が聞こえてきそうだ。
「採用基準はもういいから、結局いくらもらえるんだ?」
……はい、ごもっとも。
そろそろ、その話をしよう。
で、結局いくら稼げるの?
ここまで採用の話を読んで、
「もういいから、給料を教えてくれ。」
と思った人もいるだろう。
ごもっともである。
仕事を探すうえで、お金は重要だ。
「やりがいだけで働けます。」
そんな立派なことを言えるほど、私は悟りを開いていない。
財布の中身が空になれば、お腹は鳴るし、税金は待ってくれない。
電気もガスも、「社会貢献しています。」では動いてくれないのである。
だから給料の話は避けない。
……とは言いつつ、一度くらい焦らしてみたくなる。
「給料は、ご想像にお任せします。」
などと書いたら、今ごろ画面の向こうでは、
「それが知りたいから読んでるんだ!」
というツッコミが飛んできそうだ。
はい、そのとおり。
冗談はこのくらいにして、本音を書こう。
私の場合、月収は仕事量によって変動する。
だいたい四十万円から五十万円くらい。
手取りで言えば、おおよそ三十二万円から四十三万円程度になる。
ちなみに昨年の年収は約五百六十万円だった。
これを見て、
「そんなものか。」
と思う人もいれば、
「十分じゃないですか。」
と思う人もいるだろう。
感じ方は人それぞれである。
ただ、この仕事に対して世間が抱いているイメージと比べると、「意外と普通だな」という感想を持つ人が多いのではないだろうか。
テレビでは特殊な現場ばかりが映る。
インターネットでは高額な作業料金だけが目立つ。
だから、「特殊清掃=高収入」というイメージが一人歩きしている。
しかし、作業料金がそのまま給料になるわけではない。
会社を維持するためには、人件費以外にもさまざまな経費がかかる。
車両の維持費。
機材。
薬剤。
防護用品。
廃棄物処理費。
保険。
事務所の維持費。
見えないところで、お金はいくらでも出ていく。
「一件何十万円」という数字だけを見て、「全部給料になる」と思ってしまうのは、ラーメン一杯千円だから店主の懐にも千円入ると思うようなものだ。
そんなに単純な話ではない。
もちろん、もっと稼ぐ方法がないわけではない。
仕事量を増やす。
あるいは見積もりを見直す。
理屈だけなら簡単だ。
しかし、仕事量は自分だけではどうにもならない。
特殊清掃は、自分の都合で仕事を増やせる職業ではない。
「今月ちょっと収入が足りないから、孤独死があと三件くらい増えてくれませんか。」
そんなことを願う人間にはなりたくない。
人の不幸を当てにして生活することだけは、絶対にしたくないのである。
だから忙しすぎても複雑だし、暇すぎても困る。
なんとも因果な仕事である。
私自身、自分の年齢やこれまでの経験を考えれば、「もっともらっていてもいいかな」と思わないこともない。
人間だから欲はある。
宝くじが当たればもちろん嬉しい。
財布の中には、一万円札が何枚あっても困らない。
それでも、不思議と今の給料に大きな不満はない。
贅沢三昧はできない。
高級車も乗っていない。
腕時計だって、時間が分かれば十分だ。
けれど、食べるものに困ることもない。
住む家もある。
家族や仲間と笑って過ごせる時間もある。
それだけで十分幸せだと思えるようになった。
若い頃なら、きっと違うことを言っていただろう。
「もっと稼ぎたい。」
「もっと欲しい。」
そう思っていた。
いや、今でも思っている。
欲は相変わらずある。
ただ、その欲に振り回されなくなっただけなのかもしれない。
欲望には終わりがない。
収入が増えれば、今度はもっと欲しくなる。
結局、人は「足りない理由」を見つける天才なのだ。
だから私は、与えられた仕事に感謝しながら、その対価としていただく給料にも感謝するようにしている。
……もちろん、銀行口座の残高を見た日は、その感謝の気持ちが少しだけ薄れることもある。
人間だもの。
それくらいは勘弁してほしい。
条件だけ見れば、おすすめできない仕事です
ここまで読んでくださった方なら、もう何となく察していると思う。
この仕事は、決して「好条件」の仕事ではない。
特殊清掃部門の待遇を正直に書けば、ボーナスはない。
社会保険はもちろん完備しているが、それ以外はごく普通。
定時は午前九時から午後五時となっている。
……もっとも、「定時」という言葉は、うちでは辞書的な意味しか持っていない。
現場の状況によっては早朝から動くこともあるし、夜遅くまで作業が続くこともある。
「今日は五時で終わります。」
そんな日に限って午後四時五十分に電話が鳴る。
そして、その電話はだいたい嫌な予感しかしない。
長年の経験で分かる。
電話の着信音にも、何となく「今日は帰れませんよ」という雰囲気があるのだ。
もちろん、そんな機能は付いていない。
完全に気のせいである。
休日も決して多くはない。
年間休日は九十七日。
最近の企業と比べれば、「少ないな」と感じる人がほとんどだろう。
さらに、この仕事にはもう一つ特徴がある。
予定が立てにくい。
友人から、
「来月の日曜日、空いてる?」
と聞かれても、
「たぶん。」
としか答えられない。
旅行の予約も慎重になる。
人は、私のカレンダーを見て亡くなるわけではない。
「来週は都合が悪いので、その翌週にお願いします。」
そんな相談ができる仕事ではない。
だから仕事が空いた日が、結果的に休日になることも少なくない。
サービス業とも違う。
一般企業とも違う。
特殊清掃には、特殊清掃ならではの時間の流れがある。
それでも、不思議なことがある。
こんな労働条件を書けば、「応募する人なんていなくなるのでは?」と思われそうだが、実際にはそうでもない。
もちろん、採用しても辞めてしまう人はいる。
向き・不向きは確実にある。
しかし、一度この仕事が自分に合うと感じた人は、驚くほど長く続ける。
スタッフの入れ替わりは、世間が想像するほど多くない。
その理由は何だろう。
給料だろうか。
違う。
休日だろうか。
それも違う。
きっと、この仕事には数字では表せない魅力があるのだと思う。
誰かの人生の最後に関わること。
遺された人の「困った」を少しだけ軽くすること。
荒れ果てた部屋が元の姿を取り戻していくこと。
依頼者から「ありがとうございました」と頭を下げられること。
そういう瞬間が積み重なると、「また頑張ろう」という気持ちになる。
もちろん、毎日が感動話ではない。
臭い現場もある。
暑い日も寒い日もある。
心が沈む現場もある。
帰宅しても、しばらく食欲が湧かない日だってある。
それでも翌朝になると、また仕事へ向かう。
なぜだろう。
自分でもうまく説明できない。
もしかすると、この仕事そのものに、人を引きつける不思議な力があるのかもしれない。
「特殊清掃って、いい仕事ですか?」
そう聞かれたら、私は少し考えてから答える。
「誰にでも勧められる仕事ではありません。」
これが正直な気持ちだ。
楽でもない。
高収入でもない。
休みも多くない。
現場は過酷だ。
それでも、「いい仕事ですか?」ともう一度聞かれたら、やはり私はこう答えるだろう。
「ええ、私は好きですよ。」
仕事とは、お金だけでは測れない。
やりがいだけでも続かない。
その両方の間で揺れながら、自分なりの意味を見つけていくものなのだと思う。
特殊清掃という仕事は、人の「死」と向き合う仕事である。
だからこそ、皮肉なことに「生きる」ということを、誰よりも考えさせられる。
人生はいつ終わるか分からない。
だから今日という一日を、きちんと生きようと思える。
私にとって、この仕事の一番大きな報酬は、給料明細ではなく、そのことを日々教えてもらえることなのかもしれない。
……とはいえ、給料がもう少し上がるなら、その報酬はありがたく受け取る。
悟りを開くには、まだまだ修行が足りないようである。





