特殊清掃「皮の流れのように」を更新いたしました。
皮の流れのように
「皮」と言えば、何を想像するだろう。
値段は高いけれど、皮製品には独特の味わいがある。使い込むほど手に馴染み、傷や皺までが「味」になっていく。
身体にはあまり良くないらしいけれど、焼き鳥の皮は美味い。脂っこいものは控えなければと思いつつ、目の前に置かれれば「これは皮だから肉とは別物だ」などと、意味不明な理屈をこねながら箸を伸ばしてしまう。
果物の皮は、剥くのがちょっと面倒臭い。でも、皮を剥いた果肉は甘露。みかんの白い筋をどこまで取るかで性格が出る、なんて話もある。
……とまあ、「皮」という言葉から連想できるものはいろいろある。
前フリはこのくらいにしておこう。
そろそろ本題。
私が何の「皮」について書こうとしているのか。
そう。
すでにお見通しの人もいるだろう。
人間の皮である。
人の皮は薄いけれど、意外に丈夫だ。
梅雨が明ければ、海水浴に逝く……もとい、海水浴に行く人も増える。
ここで早速脱線してしまうが、私のパソコンは「いく」と入力すると「行く」より先に「逝く」が候補に出る。
「いたい」と打てば、「痛い」ではなく「遺体」。
そんな言葉ばかりを毎日のように当たり前に入力している自分自身が、なんだか可笑しい。
普通の人なら、
「海に行く」
と打つところを、
「海に逝く」
と変換してしまう。
海水浴の予定を書いているだけなのに、パソコンだけ妙に終末感を漂わせてくる。
長年使っていると、こちらの職業をパソコンまで理解しているのではないかと思えてくる。
怖い。
いや、便利なのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
本題に戻ろう。
日光に弱い人は、日焼けしたあとに水膨れができることがある。やがて痒くなり、皮が破れ、剥がれていく。
人間の皮膚というものは、生きている間には身体を守ってくれている。
ところが、人が死ぬと、その「皮」が今度は別の姿を見せる。
死体が残す皮膚は、生きている人間の皮膚とはまったく違った印象になる。
特に浴槽に浸かったまま長時間が経過した遺体では、体表の皮膚が大きく剥離していることがある。
浴槽を覗き込むと、腐敗した水の中に、体表から剥がれた皮膚が残っている。
食べ物に例えるのもどうかと思うが、濁ったコーラでもコーヒーでもいい。その中に湯葉が大量に入っているような感じ、と言えば伝わるだろうか。
もちろん、私はコーラに湯葉を入れたことなどない。
そもそも、そんなものを飲みたいとも思わない。
だが、現場ではそんな妙な連想が浮かんでしまう。
人間というものは不思議なもので、あまりに現実離れした光景を目の前にすると、逆に身近な何かに置き換えて理解しようとするらしい。
「湯葉みたいだな」
と思った瞬間だけ、そこにあるものが「元人間の皮膚」ではなく、ただの妙な物体に見えてくる。
もっとも、仕事が終われば現実に戻される。
浴槽を掃除するのに、皮膚をそのままにしておくわけにはいかない。
元人間の皮膚が排水口に流れ込み、詰まりでもしたら、それこそ後の人が大変な思いをする。
だから、腐敗水の中にある固形物の多くは、網状の器具を使ってすくい取ることになる。
海や川のように、何もかも勝手に流れて行ってくれれば楽なのだが、浴槽はそういうわけにはいかない。
流れていってほしいものほど、しっかりそこに残っている。
人生、だいたいそんなものである。
水中で腐乱した場合には、皮膚が身体の形を保ったまま、まるで一枚の衣服を脱がせるように剥がれていることもあるという。
手の皮膚などは、手袋のような形で残ることもあるらしい。
幸いというべきか、私自身はそういう状態のものを経験したことはない。
少なくとも、私が浴槽からすくい取る皮膚は、身体の形をそのまま残しているようなものではない。
それでも、腐敗水の中を器具でまさぐるときの緊張感は、何とも言えない。
「何が出るかな♪ 何が出るかな♪」
と思わず、あの有名なサイコロの歌が頭の中で流れそうになる。
もちろん、ここで出てくるのは景品でも次のコーナーでもない。
できれば何も出てこないでほしい。
ところが、器具を動かしていると、手元に伝わる感触が変わることがある。
「ん?」
と思う。
明らかに何かをキャッチした。
網を持ち上げる。
腐敗水の中から、ゆっくりと何かが姿を現す。
この瞬間の緊張感は、実際に経験した人間でなければ分からないと思う。
網の中を確認するまでの数秒が、妙に長い。
そして、確認した瞬間、
「うわ……」
となる。
この「うわ……」の中には、驚き、嫌悪、緊張、諦め、そして「またか」という妙な慣れまで、全部入っている。
分かるかなぁ。
分かんないだろうなぁ。
このドキドキ感を文章だけで伝えきれないことが、ちょっと残念である。
まあ、伝わらないほうが世の中のためなのかもしれない。
「そんな経験、しないほうがいいですよ」
としか言いようがない。
一方、床で亡くなった場合には、乾燥した皮膚が床に残っていることがある。
極めて黒に近い茶色になった皮膚が、床にぺったりと張り付いている。
こちらは水中のものとはまた違った大変さがある。
カーペットや畳、布団、ベッドなどであれば、そのまま廃棄できる場合もある。
しかし、フローリングなどではそうはいかない。
床を傷めないように、付着したものを丁寧に除去しなければならない。
これがまた、地味に大変なのである。
汗をかきながら、コツコツと削る。
削って、取って、また削る。
やっていることだけ聞けば、日曜大工と大して変わらない。
「今日は床のメンテナンスです」
と言ってしまえば、何となく健全な休日にも聞こえる。
実際には、そこにあるものは元人間だった。
しかし、作業を続けていると、いつの間にかそれを忘れてしまう。
削る。
取る。
拭く。
また削る。
その繰り返し。
人間の身体だったという事実が、作業の対象物という現実に少しずつ置き換わっていく。
これは良いことなのか、悪いことなのか。
自分でもよく分からない。
ただ、こういう仕事は経験を積めば積むほど、神経が図太くなっていく。
いや、「図太くなる」という表現が適切なのかどうか。
もしかすると、おかしくなっているだけなのかもしれない。
最初の頃なら、
「こんなものを自分が処理しているのか……」
といちいち考えていたものが、何年もやっていると、
「さて、次はどこを片付けよう」
くらいになってくる。
どんなにグロテスクな現場でも、淡々と作業できるようになる。
それはプロとして必要なことなのだろう。
感情に飲み込まれてしまえば、仕事にならない。
だから慣れる。
慣れてしまう。
そして、ある日ふと気づく。
「俺、昔だったら絶対に無理だったものを、今は普通にやってるな」
と。
そう考えると、我ながら感心する。
同時に、自分の将来がちょっと怖くもなる。
これ以上経験を積んだら、いったいどこまで平気になってしまうのだろう。
そのうち、テレビでホラー映画を見ながら夕飯を食べて、
「この程度なら現場のほうがすごいな」
などと言い出したら終わりである。
いや、もう始まっているのかもしれない(笑)。
ただ、一つだけ、こういう仕事をしていて毎年思うことがある。
夏になると、必ず水の事故のニュースを目にする。
海、川、湖、ダム、プール。
暑い季節になれば、水辺に出掛ける人が増える。
水は気持ちいい。
暑さを忘れさせてくれる。
海に入れば爽快だし、川遊びも楽しい。
ダム湖や湖の景色だって美しい。
だからこそ、水を甘く見てはいけない。
「自分は泳げるから大丈夫」
「少しくらいなら平気」
「みんな行っているから大丈夫」
そういう「大丈夫」が、取り返しのつかない結果につながることがある。
事故は、起きてからでは遅い。
そして、事故の後には、誰かがその現場を片付ける。
その「誰か」の一人が、私たちのような仕事をする人間だったりする。
だから水辺に行く人には、できれば私たちの仕事を増やしてほしくない。
これは仕事が嫌だから言っているわけではない。
むしろ仕事そのものは仕事としてやる。
ただ、できることなら、
「今日は何もありませんでした」
と言って帰りたい。
それが一番いい。
避暑、納涼、水遊び。
夏を楽しむ理由はいくらでもある。
でも、出掛けた先で本当に冷たくなって帰ってきてはいけない。
水を怖がることは、格好悪いことじゃない。
臆病なくらいでちょうどいい。
浮き輪を使う。
ライフジャケットを着ける。
飲酒して水に入らない。
天候や水の状態を確認する。
子どもから目を離さない。
危ないと思ったら、遊びを切り上げる。
どれも、格好いい話ではないかもしれない。
でも、生きて帰ってくること以上に格好いいことなんて、そうそうない。
「また来年も来よう」
そう言って帰れる夏にしてほしい。
皮製品なら、使い込むほど味が出る。
焼き鳥の皮なら、焼けば脂が落ちて香ばしくなる。
果物の皮なら、剥けば甘い実が出てくる。
人間の皮だけは、剥がれてしまったあとに笑い話にはできない。
だから今年の夏も、海や川へ出掛ける皆さんには、くれぐれも気をつけてもらいたい。
皮の流れの先に、私たちの出番が来ないことを願っている。
……とはいえ、私のパソコンはきっと来年も、
「いく」→「逝く」
「いたい」→「遺体」
と変換してくれるのだろう。
そこだけは、もう少し普通の人生を送っている人間らしい辞書になってほしいものだ(笑)。





