特殊清掃「身を焦がして」を更新いたしました。
身を焦がして
夏の風物詩といえば、花火、蚊取り線香、蝉の声、冷やし中華、そして土用の丑の日である。
土用の丑の日になると、スーパーの店頭には鰻が並び、店先では景気よく鰻が焼かれる。あの煙がいけない。
遠くからでも分かる。
「お、鰻だ」
と思った瞬間には、もう負けている。
別に鰻を食べようと思って買い物に来たわけではない。むしろ今日は節約しよう、夕飯は家にあるもので済ませよう、と固い決意を胸にスーパーへ向かったはずなのに、焼けた鰻の香りを嗅いだ途端、その決意がウナギの脂のように柔らかくなってしまう。
「見るだけならタダだ」
などと自分に言い聞かせながら近づき、値札を見て、
「……見るだけで帰ろう」
と、今度は現実に引き戻される。
焼肉屋や焼鳥屋の前を通ったときも同じである。
あの香ばしい煙には、人間の理性を少しずつ破壊する成分でも含まれているのではないかと思う。
腹が減っているときなど、焼肉屋の前を通っただけで、普段なら気にも留めない肉の焼ける匂いが、妙に魅力的に感じられる。
「肉って、どうしてこんなにいい匂いがするんだろう」
と考える。
野菜だって焼けば美味い。
焼きナス、焼きトウモロコシ、焼きピーマン、焼き椎茸。
それぞれ立派に美味い。
なのに、焼肉屋から漂ってくる匂いには、野菜にはない妙な破壊力がある。
人間という動物は、どうやら「焼けた肉の匂い」に弱いようである。
そんなことを考えていた頃、焼身自殺で亡くなった人の遺体を扱う仕事があった。
自殺そのものは珍しくない。
しかし、焼身自殺となると話は違う。
「何とかなるものなら、何とかしてほしい」
そう依頼され、とりあえず現場へ向かった。
警察による検視が終わり、遺体は納体袋に収められていた。
この納体袋というものは、普通の状態の遺体が入っていることは少ない。
言ってみれば、変死体用の寝袋である。
もちろん、寝心地を試してみたいとは絶対に思わない。
納体袋がそこに置かれているだけで、
「これは普通じゃないぞ」
という空気が漂う。
だから、納体袋を開けるときには、毎回それなりの覚悟がいる。
今回は焼身自殺。
依頼者から「何とかしてほしい」と言われている以上、少なくとも「何とかできる程度」なのだろうと勝手に想像し、心の準備をしていた。
ところが、開けてみて驚いた。
「こりゃ、何とかするって言っても……」
言葉を失うほどの損傷だった。
特に顔や頭部の損傷が激しい。
人間の顔というものは、目、鼻、口、耳など、実にいろいろな部品でできているように見えるが、強い火にさらされると、その「顔らしさ」はあっけなく失われてしまう。
残ったものを見れば、確かにそこに人間がいたことは分かる。
しかし、「人間の顔」として認識することは難しい。
そして、その場には独特の焦げ臭さが漂っていた。
腐敗した遺体の臭いと、焼けたものの臭い。
それが混じると、普段、街角で嗅ぐ「肉を焼く匂い」と似ている部分がある。
人間の身体も、突き詰めて考えれば肉である。
そう気づかされる瞬間だった。
ただし、ここで誤解されると困るので、はっきり書いておく。
「人間も肉なんだなあ。なるほど、食欲が湧いてきた」
なんてことは、もちろんない。
そんな豪快な食欲の持ち主なら、そもそもこの仕事は続けられない。
焼肉屋の前で「カルビ食べたいなあ」と思うのと、目の前の現実を見て食欲がなくなるのとは、同じ「肉」という言葉でも、まったく別の話である。
そこで考えた。
依頼者が本当に望んでいることは何なのだろう。
「何とかしてほしい」
という言葉は便利な言葉である。
何をどうしてほしいのか、具体的には分からない。
遺体をきれいにしてほしいのか。
顔だけでも見られるようにしてほしいのか。
棺に納められる状態にしてほしいのか。
あるいは、ただ「家族のところへ帰してあげたい」という気持ちなのか。
本当のところは、遺族に聞かなければ分からない。
ところが、この現場には遺族が立ち会っていなかった。
損傷が激しすぎて、誰も遺体を見ることができなかったようだ。
無理もないと思った。
愛する人の死を受け入れるだけでも大変なのに、その姿が生前の面影をほとんど残していなかったら、なおさらである。
こちらとしても、勝手に「こうしてあげるのが一番いいだろう」と決めるわけにはいかない。
結局、考えて、考えて、考えた末に、できることは限られていた。
遺体に大きく手を加えることはできない。
傷んだものを元に戻すこともできない。
まして、時間を巻き戻して「焼身自殺などやめておけ」と本人に説教することもできない。
最後には、できるだけ目立たないように、遺体をそっと棺に納めた。
「何とかしてほしい」という依頼に対して、十分に応えられたのかどうか。
今でも分からない。
ただ、あのとき自分にできたのは、亡くなった人を少しでも人らしく送り出すことだけだった。
焼身自殺という死に方は、考えてみればかなり壮絶である。
そこに至るまでに、本人がどれほど追い詰められていたのか。
何を見て、何を考え、どんな気持ちで火をつけたのか。
もちろん、本人に聞くことはできない。
そして、生きている側から見れば、
「そこまでしなくても……」
と思う。
周囲を巻き込む危険もある。
火事になれば、本人だけではなく、まったく関係のない人の命や生活まで奪ってしまう可能性がある。
だから、その行為を肯定することはできない。
ただ、自殺した人に向かって「自分勝手だ」と言うだけで終わらせるのも、どうも違う気がする。
自殺を考えるほど追い詰められた人は、たぶん「周囲の人の気持ちを考えなさい」と言われても、考えられないところまで行ってしまっている。
未来が見えない。
明日が見えない。
自分の周りにいる人の存在すら、見えなくなる。
そんな状態の人に、元気な人間が安全な場所から、
「もっと周りのことを考えろ」
と言ったところで、あまり意味がない。
正論というものは、時として非常に便利である。
自分が安全な場所にいることを確認してから、他人に向かって振り回せる。
だから私は、正論を言う前に、自分自身にも少し疑いを持っていたいと思う。
人間なんて、明日のことが分からない。
今は平気でも、何かひとつ歯車が狂えば、自分だってどうなるか分からない。
そう考えると、他人の人生を簡単に裁くことなど、とてもできない。
話は変わる。
いや、変わっていないのかもしれない。
夏になると、私は肉が食べたくなる。
暑い。
体力を使う。
汗をかく。
そうなると、焼肉、焼鳥、鰻の蒲焼。
「スタミナをつけなければ」
という大義名分が、実に簡単に成立する。
しかも、「夏バテ防止」という言葉まで付いてくる。
便利な言葉である。
焼肉を食べたいだけなのに、
「これは健康のためです」
と言い訳ができる。
ビールを飲みたいときにも、何かそれらしい理由が欲しくなる。
「暑いから水分補給」
などと言ってみる。
しかし、身体が本当に欲しがっている水分なら、水でいい。
それでも冷えた飲み物を選びたくなるのだから、人間の欲望というものは、なかなか正直である。
高い人格を持った謙遜な人は言う。
「この世にまずい食べ物なんかない」
立派な言葉である。
食べられることへの感謝が感じられる。
しかし、私のような愚人には、なかなかそこまで達観できない。
「美味いものは美味い。まずいものはまずい」
舌に忠実である。
品性よりも味覚を優先する。
感謝する前に、
「これ、うまいな」
と言ってしまう。
そして、もう一口食べる。
そんな調子で今日まで生きてきた。
考えてみれば、人間は他の命をいただかなければ生きていけない。
魚も、肉も、野菜も、米も、果物も、それぞれが生きていたものだ。
人間に食べられるために生まれてきた命もある。
人間に食べられることで、その命を終えるものもある。
「いただきます」
という言葉は、ずいぶん重い言葉なのかもしれない。
とはいえ、毎食毎食、人生について深く考えながら食事をしていたら、胃袋より先に頭が疲れてしまう。
だから私は、せめて忘れないようにしたいと思う。
何を食べるかも大事だが、どう食べるかのほうが大事なのではないか、と。
高級な料理を食べたから偉いわけでもない。
粗食だから立派なわけでもない。
コンビニのおにぎりを食べても、家族と笑っていれば、それはそれで美味い。
豪華な料理を食べても、腹を立てながら食べれば、せっかくの料理も気の毒である。
食べ物には、それを作った人がいる。
育てた人がいる。
運んだ人がいる。
そして、その前には命がある。
そこまで全部を考えながら食べることはできなくても、
「今日も食べられてありがたいな」
くらいは思っていたい。
何でも当たり前になると、人間は感謝を忘れる。
食べられることも、眠れることも、歩けることも、誰かと話せることも、明日が来ることも。
失って初めて、そのありがたさに気づく。
できれば、失う前に少し気づきたいものだ。
……などと、もっともらしいことを書きながら、今日も焼肉屋の前を通る。
煙が漂ってくる。
香ばしい。
実に香ばしい。
「今日は粗食でいこう」
と朝から決めていたはずなのに、鼻が勝手に反応する。
カルビ。
ハラミ。
焼鳥。
鰻。
頭の中で肉が踊り始める。
「命に感謝しなければ」
と思う。
その直後、
「でも、今日は焼肉食べたいな」
と思う。
人間とは、実に身勝手な生き物である。
だからこそ、食べるときくらいは、
「いただきます」
と言おう。
美味かったら、
「美味かった。ありがとう」
と言おう。
そして、腹いっぱいになったら、
「ごちそうさま」
と言おう。
それ以上の立派なことは、私にはなかなかできそうにない。
平凡な毎日でも、粗食しか口に入らない日でも、当たり前のように食事ができることは、決して当たり前ではない。
生きているから食べられる。
食べられるから、また明日を迎えられる。
その程度の単純なことを、ときどき思い出しておきたい。
「心にも栄養を与えなければ」
などと考えながら、街角を歩く。
すると、また焼肉屋から煙が流れてくる。
鼻腔を刺激する、あの香り。
理性と本能の戦いである。
「今日は我慢しよう」
と思った次の瞬間、
「いや、頑張って働いたんだから、これくらいはいいだろう」
と、もう一人の自分がささやく。
まったく、人間というものは自分に都合のいい理屈を作るのが上手い。
結局、財布と相談しながら店の前を通り過ぎる。
振り返る。
また煙を見る。
そして思う。
命をいただくということは、もしかすると、こういう誘惑との戦いも含まれているのかもしれない。
……いや、たぶん違う。
単に腹が減っているだけだ。
それでも今日も、生きている。
食べられる。
笑える。
そして、明日もまた腹が減る。
それでいいのだと思う。
生きるということは、きれいごとだけではない。
他の命をいただき、時には自分自身も傷つきながら、それでも腹を空かせて明日へ向かうことなのだろう。
だから私は今日も、街角の香ばしい煙に心を奪われながら、少しだけ感謝して、少しだけ反省して、そして大いに食欲をそそられている。
身を焦がしているのは、焼かれた肉だけではない。
どうやら私自身も、鰻の蒲焼の煙に、すっかり身を焦がしているらしい。





