特殊清掃「ブラックホール」を更新いたしました。
ブラックホール
便所の話である。
そこは「お手洗い」とか「トイレ」なんていう、どこか上品で現代的な呼び方が似合う場所ではなかった。
見た瞬間に「ああ、便所だ」と納得してしまう、いかにも「便所!」という雰囲気の現場だった。
発見が早かったためか、汚染は比較的軽いものだった。悪臭も、腐乱臭なのか便所臭なのか、鼻が途中から判断を放棄する程度。私にとっては、臭いそのものよりも、別の意味で強烈なインパクトがあった。
便所の形態である。
水洗式ではない。
いわゆる「ボットン便所」。
しかも、私が子供の頃などに見たことのあるボットン便所より、はるかにハイグレード……と言っていいのかどうか分からないが、とにかく古風で本格的なものだった。
ほとんどの人は「ん? どんな便所だ?」となるだろうから、ここで少し詳しく説明しておこう。
地面に深さ1.5~2メートル、直径1.5~2メートルほどの穴を掘る。
その上に床板を敷き、屋根と囲いを付ける。
床板に直径20~30センチほどの穴を開ける。
そこへ和式便器を取り付ける。
以上。
……本当に以上である。
あまりにもシンプルなので、これ以上説明しようがない。
現代のトイレなら、便器があり、水を流すレバーがあり、タンクがあり、手洗いがあり、場合によっては温水洗浄便座があり、脱臭機能まで付いている。
それに対して、こちらは、
「穴を掘る」
「床を置く」
「便器を付ける」
で終了。
究極の簡素化である。
そして、その大きな口を開けた和式便器を恐る恐る覗き込んでみた。
下は真っ暗。
本当に真っ暗だった。
穴が深いのか、光が届かないのか、あるいは私の目が見ようとすることを拒否したのか、とにかく何も見えない。
そこにあるのは、漆黒の闇。
まさにブラックホール。
「これ、落ちたらどうなるんだろう……」
そんなことを考えた瞬間、便所臭よりも恐怖の方が勝った。
私は小心者なのである。
そして何より、便器の下に広がる闇を見てしまった後では、薄く古びた床板に乗る気には到底なれなかった。
床板には悪いが、その風貌からして強度を信用することができない。
長年の使用によって色あせ、ところどころ傷んでいる。
「大丈夫ですよ。私、まだ現役です」
と言ってくれれば少しは安心できるのだが、もちろん床板は何も言わない。
ただ黙ってそこにある。
信用性の乏しい床板に自分の全体重を預ける。
しかも、その下には真っ暗な穴。
これはもう、一種のロシアンルーレットではないか。
もし、
「バキッ!」
といったらアウトーッ!
便器に用を足すどころか、自分が便所の用を足される側になってしまう。
そんな馬鹿なことを考えながら、
「故人は、いつもこの床板に乗って用を足していたのか……」
と感心してしまった。
今さらながら、昔の人は強い。
いや、故人が特別に強かったのかもしれない。
現代人の私なら、便器に座る前に床板の耐荷重試験をしたくなる。
しかし、そんなことに感心してばかりもいられない。
これを何とかするのが私の仕事だからだ。
トイレや風呂場で亡くなる人は決して珍しくない。水回りの始末には、それなりに慣れているつもりだった。
けれど、ここまでシンプルな便所は初めてだった。
「汚い」というより、
「怖い」
のである。
この感覚は、実際に覗いてみないと分からないかもしれない。
普通の便所なら、多少汚れていても「掃除すれば何とかなる」と思える。
ところが、この便所は違う。
掃除する以前に、
「床、大丈夫?」
という問題がある。
そこで私は判断した。
掃除するより、解体した方が早い。
依頼者に相談すると、もう誰も使わない便所ということもあり、解体することで話がまとまった。
そうと決まれば話は早い。
私は恐る恐る床板の隙間にバールを差し込んだ。
そして、床板を持ち上げてみる。
すると――
「あれ?」
思っていたより、あっさり動いた。
さらに一枚。
また一枚。
「えッ? こんな簡単なもんだったの?」
床板は一枚一枚がしっかり固定されていたわけではなく、細い梁の上にポンと載せられているだけだった。
もちろん、当時としてはそれで十分だったのだろう。
何十年、あるいはそれ以上にわたって、人々はその床板の上で普通に用を足していた。
床板を外す私からすると、
「そんなことで大丈夫だったの?」
と思ってしまうが、考えてみれば、その「そんなことで」が長い年月にわたって機能していたわけである。
現代の私たちは、何でも「安全・安心・高性能」を求める。
便座が温かい。
水が温かい。
お尻まで洗ってくれる。
臭いも消してくれる。
夜には便器の周囲を照らしてくれる。
それはそれで素晴らしい。
しかし、昔の便所には、
「穴がある。用を足す。終わり」
という潔さがあった。
そして、床板も意外と仕事をしていた。
おかげで解体作業そのものは、思ったより楽だった。
便器も外し、床板も外していく。
そして、ついに床板がなくなった。
今まで便器という蓋に隠されていたものが、目の前に姿を現した。
巨大な穴。
そして、その底にたまったもの。
私は思わず、
「これが肥溜めというヤツか!」
と心の中で叫んだ。
ずっと以前から言葉としては知っていた「肥溜め」。
それを、生まれて初めて実物として見た瞬間だった。
正直、ちょっとした衝撃だった。
もちろん、見た目は決して美しいものではない。
むしろ、一般的な「美しい」の対極に位置する存在だろう。
しかし、妙な感覚もあった。
「人間って、すごいな」
そんなことを思ったのである。
食べる。
消化する。
排泄する。
それが積み重なって、こうなる。
人間が生きてきた証拠が、そこに物理的な形で残っている。
そう考えると、単なる「汚物のたまり場」ではなく、人間の生活そのものが凝縮された場所のようにも見えてくる。
もちろん、こんなことを便所の穴を前にして真顔で考えている人間は、かなり変だと思う。
自分でも、
「何を感銘受けとんねん」
と思う。
しかし、そこに「生きるエネルギー」のようなものを感じたのも事実だ。
人は食べて、生きて、働いて、眠って、また食べる。
そして最後には、こういうものを残していく。
考えてみれば、実に生命力あふれる営みではないか。
……とはいえ、その生命力を真正面から観察していると、鼻の方が先に限界を迎える。
中ではウジが気持ちよさそうに泳ぎ、ハエが気持ちよさそうに飛び回っていた。
彼らにとっては、まさに楽園なのだろう。
「またお前らか」
と思う。
彼らはいつも、私が行く先々に先回りしている。
死臭がするところにはハエ。
汚染があればウジ。
こちらが到着する頃には、すでに現場入りしている。
私より勤勉である。
もしかすると、彼らの方が現場経験は豊富かもしれない。
そして、肥溜めの臭い。
これがまた独特だった。
鼻にツンとくる刺激臭。
「アンモニアの影響か?」
「糞尿が熟成されると、こんな臭いになるのか!」
などと、また妙なところで感心してしまう。
仕事をしているだけなのに、なぜか社会科見学のような気分になってくる。
ちょっと余談
下水道が完備されていない地域では、行政などによる糞尿の回収が行われている。
たまに、その回収車を見かけることがある。
車両後部の積載物欄を見ると、
「糞尿」
と書いてある。
実にストレートである。
「汚物」とか「廃棄物」など、いくらでもぼかした表現はありそうなのに、堂々と「糞尿」。
私は、あの潔さが嫌いではない。
そして、当然ながら、それに従事する人もいる。
私が子供の頃には、その仕事をしている人について、こんな風説があった。
「身体にウンコの臭いが染みついていて、風呂に入ったくらいでは臭いが取れない」
子供というのは、どうしてこういう話が好きなのだろう。
ウンコの話をしているだけで笑える。
そして、いつの間にか尾ひれが付いて、とんでもない都市伝説になっていく。
実際にその仕事に従事している人と接した経験がないので、断言はできない。
しかし、たぶんガセだと思う。
なぜなら、濃い腐乱臭をまとった私自身、ユニフォームを着替えて風呂に入れば、ちゃんと臭いは落ちるからだ。
人間の身体は、そこまで頑固に臭いを保存する仕様にはなっていないらしい。
だから、子供たちよ。
もし今でも、
「糞尿回収の仕事をすると、一生ウンコ臭いんだって!」
なんて言っている子がいたら、きちんと否定してあげてほしい。
それは、たぶん単なる風説だ。
そして何より、そんな仕事をしている人に対して失礼である。
臭い仕事だからといって、その人自身まで「臭い人間」になるわけではない。
むしろ、誰かがやらなければならない仕事を、誰かが引き受けている。
そう考えると、私たちは普段、あまりにも多くの「誰かのおかげ」を意識せずに生活しているのかもしれない。
……と、ここまで書くと、なんだか急に私が善人みたいになってしまった。
いかん。
私はそんなに立派な人間ではない。
現場で臭いものを嗅げば「臭い」と思うし、怖いものを見れば「怖い」と思う。
この便所だって、感動する前に「早く帰りたい」と思っていた。
だから、変に美談にするつもりはない。
ただ、実際にそういう現場に立つと、普段は考えもしないことを考えてしまうのである。
そして、もう一つ思った。
私を含めて、現代の男どもは、少々軟弱になっているのではないか。
もちろん、これは完全に私の個人的な感想である。
最近は水洗・洋式便所が当たり前。
便座は快適。
冬でも冷たくない。
温水まで出る。
用を足した後は、ボタン一つでお尻まで洗ってくれる。
便利である。
素晴らしい。
私だって大好きだ。
できれば一生、温水洗浄便座のお世話になりたい。
しかし、昔の男たちは違った。
穴の上に置かれた床板。
その下には漆黒の闇。
そこへ和式便器でまたがる。
しかも、床板は細い梁に乗っているだけ。
それでも毎日、何事もなかったかのように用を足していた。
そう考えると、かなりの胆力である。
「今日は床板、大丈夫かな?」
なんて心配していたのかもしれない。
それとも、そんなことは気にも留めなかったのか。
現代人の私には想像もつかない。
歳のせいもあるのかもしれないが、最近の若者は外見からは性別すら分かりにくくなってきたような気がする。
そして、男が小便をするときでさえ、便器に座る人が増えているらしい。
私は別に、それが悪いと言いたいわけではない。
掃除する側からすれば、むしろ座っていただいた方がありがたい。
飛び散らない。
汚れない。
奥さんにも怒られない。
家庭円満。
非常に合理的だ。
「男なら立って小便しろ!」
なんて言っている場合ではない。
しかし、あの便所を見た直後だったので、
「昔の男は、いろいろ鍛えられていたんだな」
と思ってしまった。
和式便所にまたがり、心もとない床板に身体を預け、真っ暗な穴を見下ろしながら用を足す。
それを毎日やっていたのだ。
もしかしたら故人は、今の私たちを見て、
「お前ら、弱くなったなぁ」
と笑っているかもしれない。
……いや、完全な想像である。
故人がそんなことを思っている証拠はどこにもない。
そもそも、あの世から便所事情を観察しているかどうかも分からない。
ただ、もし本当に見ていたら、温水洗浄便座を見て驚くかもしれない。
「便所で尻まで洗えるのか!」
と。
逆に私が昔の人なら、
「便所に電気がある!」
と驚く。
便利さというものは、少しずつ進歩していく。
その一方で、人間そのものが強くなったかというと、どうなのだろう。
昔の人は不便な環境の中で、それを当たり前として生きていた。
今の私たちは、便利な環境を当たり前として生きている。
どちらが幸せなのかは分からない。
ただ一つ言えるのは、私はあのブラックホール便所で用を足す勇気はない。
そこだけは、はっきりしている。
そして、もう一つ。
あの便所を解体したことで、私は「肥溜め」という言葉を、単なる昔話ではなく、実体験として理解することができた。
人が生きていた。
食べていた。
排泄していた。
その痕跡が、穴の底に積み重なっていた。
汚い。
臭い。
怖い。
でも、それだけではない。
そこには、昔の人たちが生きていた時間が、妙な形で残っていた。
そう考えると、あのブラックホールも、単なる恐怖の穴ではなかったのかもしれない。
……とはいえ、もう一度見に行きたいかと言われたら、丁重にお断りする。
感銘は一度で十分だ。
しっかし、便所の話だけでここまで語れるとは。
我ながら、かなりウ○コ臭い……。
もとい、ウサン臭いヤツかもしれない。
でも、まあいい。
人間、生きていれば食べる。
食べれば出す。
出したものを誰かが片付ける。
そして、その誰かがまた別の誰かに支えられている。
そうやって、世の中は回っている。
考えてみれば、人間の営みなんて、案外そういうものなのだろう。
最後に残るのは、立派な言葉でも美しい建物でもなく、時には一杯の便所と、そこに残された痕跡だったりする。
だから私は、あのブラックホールを思い出すたびに、少しだけ昔の人に敬意を払う。
そして同時に、
「現代に生まれてよかった……」
とも思う。
特に、温水洗浄便座の前では、心からそう思うのである。





