特殊清掃「ビジネスマンと主婦」を更新いたしました。
ビジネスマンと主婦
― いつもの朝が、最後の朝になることもある ―
人は、人生の最後の日を知らない。
「明日も当然やって来る」
多くの人は、そう思って眠りにつく。
翌朝、目を覚まし、顔を洗い、歯を磨き、いつものようにコーヒーを飲む。
いつもの時間に家を出る。
いつもの電車に乗る。
いつもの仕事をする。
その「いつも通り」が、実はどれほど奇跡的なものなのか。
普段の生活をしていると、そんなことを考える機会はほとんどない。
人間というものは不思議なもので、健康診断で「要注意」と書かれていても、「まあ、大丈夫だろう」と思う。
スマホのバッテリーが残り5%になれば必死で充電するくせに、自分自身の残量については、なかなか確認しようとしない。
人生というバッテリーには、充電器がない。
しかし、人はそれを忘れて毎日を過ごしている。
今回は、そんな「いつもの日常」が突然終わってしまった二人の話である。
中年のビジネスマンが急死した。
勤務先の会社で突然倒れ、救急車で病院へ搬送されたものの、そのまま帰らぬ人となった。
私が自宅へ伺った時には、故人はすでに布団の上に横たわっていた。
検死を受けたためだろう。
身体には、少しサイズの合わない浴衣が着せられていた。
奥様は、突然の出来事をまだ理解できていないようだった。
昨日まで普通に話していた夫が、もう話さない。
昨日まで「行ってきます」と出掛けた人が、もう帰ってこない。
頭では理解しようとしても、心が追いつかない。
そんな状態だったのだと思う。
奥様から、
「主人らしく、スーツを着せてあげたいんです」
と言われた。
聞けば、ご主人は仕事一筋の人だったらしい。
もちろん、人生には仕事以外にも大切なものはある。
家族、趣味、友人、健康。
しかし、その人にとって仕事とは単なる生活費を稼ぐ手段ではなかったのだろう。
毎朝ネクタイを締め、会社へ向かう。
誰かに評価されるため。
家族を守るため。
自分自身の誇りのため。
人それぞれ理由は違う。
外から見れば、会社組織の中の一人に過ぎないかもしれない。
大きな会社という機械の中で、一つの歯車。
少し冷たい表現をすれば、交換可能な部品と言われることもある。
しかし、歯車一つ一つには人生がある。
住宅ローンの心配をしながら働く人。
子供の学費を気にする人。
疲れていても家族の前では笑顔を作る人。
会社では「社員番号」で呼ばれることがあっても、家庭では誰かにとって唯一無二の存在である。
上司の理不尽な言葉を飲み込み、
苦手な同僚にも笑顔で接し、
時には納得できない取引先にも頭を下げる。
満員電車に揺られ、
昼食代を節約し、
少ない小遣いで週末を楽しみにする。
金曜日の夜、居酒屋で安い酒を飲みながら、
「まったく、うちの会社は……」
と愚痴を言う。
でも、月曜日になればまた出勤する。
文句を言いながら働く。
それもまた、家族を守るための愛情表現なのかもしれない。
亡くなった方にスーツを着せる作業は簡単ではない。
生前なら数分で終わる着替えも、死後は身体の硬直や状態によって思うようにはいかない。
それでも時間をかけながら、何とかスーツを着せる。
シャツを整える。
ジャケットを着せる。
最後にネクタイを締める。
生前、毎朝鏡の前で整えていた姿に少しでも近づける。
すると奥様が静かに言った。
「お父さんらしくなった……」
その言葉には、悲しみだけではなく、少しだけ安心したような響きがあった。
「ああ、この人が帰ってきた」
そんな気持ちだったのかもしれない。
私は、故人が使っていた電気剃刀でヒゲを剃った。
すると奥様が、
「昨日の朝は、いつも通り自分でヒゲを剃って、いつも通り会社に行ったんですよ」
と言った。
その言葉が妙に心に残った。
昨日の朝。
その時、ご本人はまさか、それが人生最後の朝になるとは思っていなかった。
いつも通り起きて、
いつも通り準備して、
いつも通り家を出た。
人生の最後の日というものは、映画のような特別な一日ではない。
意外なほど普通の日なのだ。
特別な音楽が流れるわけでもない。
空が突然紫色になるわけでもない。
神様が、
「はい、ここからが最後ですよ」
と教えてくれるわけでもない。
だからこそ、人は後悔する。
「あの日、もっと話しておけばよかった」
「あの時、ありがとうと言えばよかった」
「くだらないことで怒らなければよかった」
でも、人間は未来を知らないから生きていける。
毎朝「今日が最後かもしれない」と考えていたら、たぶん電車にも乗れない。
朝から遺書を書いて、家族全員に感謝を伝え、会社には「本日は人生最終日の可能性がありますので休みます」と連絡する人が続出するかもしれない。
会社の人事部も大混乱である。
「死亡予定休暇は何日前まで申請が必要ですか?」
そんな制度があったら、世の中は少し面白くなるかもしれない。
もちろん、そんな制度はない。
だからこそ、人は普通の日常を送る。
その普通の日常こそが、実は一番大切なのだと思う。
もう一人、忘れられない方がいる。
中年の主婦だった。
その日は、いつもと変わらない朝だった。
夫を会社へ送り出す。
子供たちを学校へ送り出す。
「行ってらっしゃい」
「気をつけてね」
そんな、ごく普通の会話。
どこの家庭にもある朝の風景。
しかし、その後、彼女が家族と会話することはなかった。
夫が帰宅した時、妻はトイレで倒れていた。
発見された時には、すでに手遅れだった。
おそらく、家族が出掛けた後の時間。
何か家のことをしていたのだろう。
掃除だったのかもしれない。
洗濯だったのかもしれない。
あるいは、ただトイレに入っただけなのかもしれない。
人の最後というものは、意外なほど日常の中にある。
映画なら、最後の瞬間には主人公らしい演出がある。
愛する人への言葉。
過去の回想。
美しい音楽。
しかし、現実の人生には、そういう演出家はいない。
時には、トイレの中で突然終わる。
本人も、家族も、準備する時間など与えられない。
ご主人から、
「身体を横に伸ばして休ませてやりたい」
と言われた。
その言葉が印象に残った。
夫にとっては、妻は「亡くなった人」になる前に、長年連れ添った大切な人だった。
いつも家にいて、
食事を作り、
洗濯をして、
家族の予定を覚えていて、
誰よりも家のことを知っている存在。
家庭というものは不思議である。
会社なら部署があり、役職があり、仕事の成果が数字になる。
営業成績。
売上。
利益。
評価。
しかし、家庭の仕事には、そういう分かりやすい表彰制度がない。
「今年度、最優秀家事担当賞」
「育児継続30年功労賞」
そんな賞状が壁に貼られることもない。
もしそんな制度があったら、多くの主婦や主夫は大量受賞するだろう。
ただし、副賞は「家族からのありがとう5回券」くらいかもしれない。
しかも、その券は期限切れになる可能性が高い。
人間というのは、身近な人ほど感謝を忘れる生き物だから困ったものである。
専業主婦にも、外で働くビジネスマンとは違う大変さがある。
近所付き合い。
学校行事。
子供同士の人間関係。
親同士の付き合い。
家族が気持ちよく暮らせるように、見えないところで調整する。
家族が気づかない問題を先回りして処理する。
冷蔵庫の中身を見て、
「そろそろ牛乳がなくなるな」
と考える。
子供の表情を見て、
「今日は学校で何かあったな」
と感じる。
夫の帰宅時間を考えて食事を準備する。
本人からすれば当たり前のことなのかもしれない。
しかし、当たり前を毎日続けることほど難しいものはない。
仕事でも同じだ。
一日だけ頑張るなら、多くの人はできる。
問題は、それを毎日続けること。
誰にも褒められなくても。
誰にも気づかれなくても。
それを続ける力こそ、本当の意味での責任感なのだと思う。
故人の身体は、時間をかけながら少しずつ硬直を解いていった。
無理に動かすのではなく、身体の状態を見ながら慎重に整えていく。
そして布団へ安置した。
ご主人は静かに言った。
「布団に寝かせてやれてよかった……」
その一言には、夫として最後にしてあげられることを探していた気持ちが込められていた。
さらに、
「昨日の朝は、いつもと変わらず玄関で見送ってくれたのに……それが最後の姿だったのか」
と言った。
人は、最後の瞬間よりも、その直前の日常を思い出す。
最後に何を言ったかより、
最後にどんな顔をしていたか。
最後にどんな声だったか。
最後にどんな仕草をしていたか。
そこに残された人は何度も戻る。
哲学者パスカルの言葉として知られる、
「メメント・モリ」
という言葉がある。
「死を思え」
「死を忘れるな」
という意味だ。
死について考えることは、生き方を考えることでもある。
自分の人生には限りがある。
時間は無限ではない。
そう理解することで、今という時間を大切にできる。
これは確かに、その通りだと思う。
しかし、一方で少し難しい問題もある。
死を意識しすぎると、人によっては苦しくなる。
「人生は一度きりだから、毎日を充実させなければ」
そう思えば思うほど、逆に焦ってしまう。
休日に何もしなかっただけで、
「貴重な人生を無駄にした」
と思ってしまう。
朝起きて、
「今日は何か意味のあることをしなければ」
と考える。
しかし、人生とは本来、そんなに毎日イベントが発生するものではない。
大半の日は普通の日である。
ご飯を食べる。
仕事をする。
家族と話す。
テレビを見る。
眠る。
その繰り返し。
でも、その普通の日々が人生そのものなのだ。
私自身、死を身近に感じる仕事をしていると、当然ながら自分の死について考えることがある。
考えたくないことまで考えてしまう。
知らなくてもよかった現実を知ることもある。
人の死に向き合う仕事は、ある意味で人生の裏側を見る仕事でもある。
しかし、ずっと考え続けると、人間は迷路に入り込む。
「人生とは何か」
「死後とは何か」
「生きる意味とは何か」
考えれば考えるほど、答えのない場所へ進んでいく。
哲学者なら、それを一生の研究テーマにできるかもしれない。
しかし、普通の人間には洗濯物もある。
夕飯の準備もある。
明日の仕事もある。
人生の深遠な問題を考えていたら、現実のゴミ出しの日を忘れる。
これはこれで、かなり問題である。
だから時には、
「まあ、今日はここまで考えるのをやめよう」
と思うことも必要なのだと思う。
それもまた、「今を大切に生きる」ということなのかもしれない。
ビジネスマン。
主婦。
一見すると、まったく違う立場に見える。
一人は会社へ向かう。
一人は家庭を守る。
しかし、共通しているものがある。
誰かのために毎日を積み重ねていたこと。
完璧な人生などない。
仕事で失敗することもある。
家族に優しくできない日もある。
疲れて帰って、つい余計な一言を言ってしまうこともある。
でも、それでも人は次の日を迎える。
「明日はちゃんとしよう」
そう思いながら生きていく。
その明日が必ず来る保証などないのに。
だからと言って、毎日を特別な日にする必要はない。
家族に毎日手紙を書く必要もない。
毎朝、
「今日が最後かもしれないから愛しているよ!」
と言って出勤したら、家族から少し心配されるかもしれない。
「大丈夫?何か変なもの食べた?」
と言われる可能性もある。
大切なのは、大げさなことではなく、小さなことなのだと思う。
ありがとうと言う。
話を聞く。
一緒に食事をする。
くだらないことで笑う。
そういう小さな積み重ねが、後から見ると人生そのものになる。
今日は七夕だった。
短冊に願いを書くなら、何を書くべきだろう。
商売繁盛。
健康第一。
家内安全。
どれも大切だ。
しかし、死と向き合う仕事をしていると、少し欲張りな願いを書くのは気が引ける。
「今年も無事に、普通の日常が続きますように」
それくらいで十分なのかもしれない。
東京の夜空は、例年通り曇りか雨らしい。
今年も天の川を見るのは難しそうだ。
まあ、都会の空で星を見るのは昔から難しい。
ビルの明かりもある。
街灯もある。
人間の欲望も明るすぎる。
そんな空では、織姫と彦星も少し迷うかもしれない。
「あれ?今年の待ち合わせ場所、どこだっけ?」
なんて言いながら。
……いや、違う。
三途の川ではない。
天の川だった。
最後に余計な心配をするところだった。
死を考えることは大切だ。
でも、死について考えすぎて、今日を生きることを忘れてはいけない。
笑える時には笑う。
大切な人がいるなら、大切にする。
いつもの朝が来たなら、それを少しだけありがたいと思う。
明日があると思えること。
それ自体が、実は人生からの大きな贈り物なのかもしれない。





