特殊清掃「そこのけ、そこのけ、死体が通る」を更新いたしました。
そこのけ、そこのけ、死体が通る
「死体とドライブしてきました」
こんなことを言うと、大抵の人は一瞬、頭の中に妙な光景を浮かべるらしい。
助手席にシートベルトをした死体を乗せ、コンビニに寄ったり、夜景を見に行ったり、気ままなドライブを楽しんでいる男。
……いやいや、さすがにそれは怖すぎる。
そんなことをしたら、私の仕事が「遺体搬送業」ではなく「怪奇現象を起こす人」になってしまう(笑)。
もちろん、そんなことをしているわけではない。
「死体とドライブ」というのは、私が遺体搬送の仕事を少し冗談めかして表現しただけである。
ただ、考えてみれば、一般の人が想像できないのも当然だと思う。
普段の生活で、人は死体を見る機会などほとんどない。
ましてや、亡くなった人を車に乗せて運ぶ機会など、一生に一度も経験しない人の方が圧倒的に多い。
だから、知らない世界を想像するとき、人は自分の経験の範囲でしか考えられない。
その結果、
「え?普通の車に乗せるの?」
という疑問が出てくる。
いやいや、そこはちゃんと専門の車両がある。
遺体搬送車というものが存在する。
ただし、一般の人がよく目にする霊柩車とは少し違う。
霊柩車は葬儀の場で火葬場などへ向かうための車。
一方、遺体搬送車は、亡くなった場所から次の場所へ移動するための車である。
病院から自宅へ。
病院から安置施設へ。
自宅から葬儀場へ。
亡くなった人が最後に移動する場所は、人によって本当に様々だ。
車両はワンボックスタイプが多い。
外見だけを見ると普通の商用車に近い。
後部にはストレッチャーを積めるようになっている。
簡単に言えば、救急車から余計な装備を全部取り除いたようなものだと思えば分かりやすい。
ただし、救急車とは大きく違う。
救急車は「命を助けるため」の車。
遺体搬送車は「人生を終えた人を最後の場所へ送り届けるため」の車。
同じように人を乗せる車でも、目的は正反対である。
そんな車を運転していると、ときどき不思議な気持ちになる。
街中を走っている時、周囲の車はまさか自分の隣を走っている車の中に亡くなった人がいるとは思わない。
信号待ちで横に並ぶ車。
買い物帰りの家族。
仕事へ向かうサラリーマン。
皆、それぞれの日常を生きている。
その横で、私は静かに人生を終えた人を運んでいる。
同じ道路を走っているのに、こちらだけ時間の流れが違うような感覚になることがある。
生きている人たちは明日の予定を考えている。
でも、後ろに乗っている人には、もう明日の予定はない。
その対比が、この仕事をしていると嫌でも目に入ってくる。
だからといって、毎回しんみりしているわけではない。
そんな精神状態では仕事にならない。
遺体を扱う仕事だからといって、常に悲しい顔をしている必要はない。
むしろ、落ち込んでいたら安全に運べない。
大切なのは、亡くなった人を「荷物」として扱わないこと。
そして、感情に飲み込まれすぎないこと。
このバランスが意外と難しい。
病院から搬送依頼が入る時間は決まっていない。
昼間もある。
夕方もある。
そして、一番眠気との戦いになる深夜もある。
病院という場所は、当然ながら命が生まれる場所であると同時に、命が終わる場所でもある。
ただ、病院側にも現実的な事情がある。
亡くなった患者さんをいつまでも病室に置いておくことはできない。
他の患者さんへの配慮もある。
そして、病床を確保するという運営上の事情もある。
病院はホテルではない。
空いたベッドには、次に治療を必要とする人が入る。
だから、亡くなった後は速やかに搬送する必要がある。
その結果、夜中の電話が鳴る。
「搬送お願いします」
この一言で、眠気との戦いが始まる。
夜中の道路は昼間とは別世界だ。
車は少ない。
街は静か。
信号だけが妙に明るい。
そんな中で、後部には一人の人生を終えた人がいる。
これが私にとっての「死体とドライブ」である。
もちろん、怖いと思う人もいるだろう。
でも、私の場合、怖さよりも緊張感の方が大きい。
一番怖いのは幽霊ではない。
睡魔である。
夜中に眠い状態で運転して事故でも起こしたら洒落にならない。
自分も危ない。
そして、後ろにいる人にとっては、一度終わった人生でまた大事故に巻き込まれることになる。
「さすがに二度目は勘弁してくださいよ」
などと心の中で言いたくなる(笑)。
だから、眠気が来たら必死で戦う。
窓を開ける。
音楽を変える。
休憩する。
幽霊より眠気。
これは、この仕事をして分かった意外な真実である。
遺体搬送の仕事をしていると、普通の人が経験しないような場面に数多く遭遇する。
その中でも印象に残っているのが、古いマンションや団地への搬送である。
最近の建物なら、エレベーターも広く設計されていることが多い。
しかし、昔ながらの集合住宅ではそうはいかない。
「これ、本当に人を運ぶことを想定して作ったのか?」
と思うほど狭いエレベーターが存在する。
ストレッチャーを入れようとしても、どう考えても幅が足りない。
斜めにしても無理。
角度を変えても無理。
気合いで押しても無理。
……もちろん、気合いでは物理法則には勝てない(笑)。
そうなると、別の方法を考えるしかない。
担架を使えない場合、亡くなった方を抱えて移動することになる。
文章にすると簡単だが、実際にやると簡単ではない。
人間の体というものは、生きている時と亡くなった後では全く違う。
力を入れてくれることもない。
こちらにつかまってくれることもない。
当然だが、完全にこちらが支えなければならない。
しかも、亡くなった直後の方は身体が硬くなっている場合もある。
その状態で階段や狭い通路を移動する。
一歩間違えば大変なことになる。
だから、仕事中の頭の中にあるのは恐怖ではない。
「絶対に落とさない」
これだけである。
怖がっている暇などない。
むしろ、必死である。
ところが、その姿を外から見ると、とんでもなく奇妙な光景になる。
浴衣姿。
青白い顔。
力なく身体を預けている人。
それを抱えてエレベーターに乗っている男。
客観的に見れば、かなり怪しい。
夜中だったら、通報されても文句は言えないレベルである(笑)。
ただ、本人は怪しいことをしているつもりは一切ない。
「落としたらどうしよう」
「頭をぶつけないようにしなければ」
「遺族のところまで無事に届けなければ」
そんなことばかり考えている。
しかし、周囲の住民から見れば事情は分からない。
エレベーターのボタンを押す。
扉が開く。
そこに、亡くなった方を抱えた男が立っている。
この瞬間の人間の反応というのは、本当に様々である。
一瞬固まる人。
声にならない声を出す人。
明らかに目が泳ぐ人。
中には、状況を理解するまで数秒かかる人もいる。
人間は予想外のものを見ると、すぐには判断できないらしい。
一番面白い反応をする人もいる。
最初は普通に乗ってくる。
「何階ですか?」
という顔で。
しかし、数秒後に気付く。
「あれ?」
「……もしかして」
その瞬間、顔色が変わる。
そして、急に別の階のボタンを押し始める。
いやいや、あなたの目的地そこじゃなかったですよね(笑)。
しかも、動いているエレベーターから逃げることはできない。
でも、人間というのは本能的に逃げたくなるらしい。
次の階に着くまでの数十秒。
その人にとっては、人生で一番長いエレベーターの時間だったかもしれない。
扉が開いた瞬間、ものすごい勢いで出ていく。
その後ろ姿を見ると、申し訳ないと思いながらも、少し笑ってしまう。
もちろん、笑ってはいけない場面なのは分かっている。
でも、人間の反応というものは時に正直で、面白い。
ただ、こういう出来事を遺族が知ることはほとんどない。
多くの場合、遺族は先に自宅や安置場所で待っている。
私が途中の階で遭遇した小さな騒動など知らない。
そして、私が亡くなった方を抱えながら到着すると、別の反応が返ってくる。
「この人、大丈夫なのか?」
そんな顔をされることがある。
まあ、当然だと思う。
普通の感覚なら、亡くなった方を抱えて明るい顔をしている人間など、そうそう見ない。
でも、私からすると理由がある。
笑っているわけではない。
ふざけているわけでもない。
無事に届けられた安心感。
遺族の前にきちんと到着できた安堵感。
それが自然に表情へ出ているだけである。
そして意外なことに、その表情が遺族の緊張を少し和らげることもある。
もちろん、悲しみが消えるわけではない。
大切な人を亡くした悲しみは、そんな簡単なものではない。
ただ、葬儀や死というものは、どうしても空気が重くなりやすい。
そこに少しだけ人間らしい温度が入る。
それだけで場の雰囲気が変わることがある。
以前、遺族の方から、
「思っていたより普通の人なんですね」
と言われたことがある。
褒め言葉なのか微妙なところだが(笑)、たぶんその方の中では、死体を扱う人間というものに、もっと無表情で冷たいイメージがあったのだと思う。
でも、私たちも普通の人間である。
腹も減る。
眠くもなる。
失敗して落ち込むこともある。
ただ、仕事として亡くなった方と向き合っているだけだ。
死体を扱う仕事だから、人間らしさを失う必要はない。
むしろ、人間らしさがなければ続けられない仕事なのかもしれない。
遺体を運ぶという作業だけを見ると、単純に「移動させる仕事」に見えるかもしれない。
しかし、実際には、その人が最後に触れられる相手になることもある。
最後に名前を呼ばれることもある。
最後に「お願いします」と託されることもある。
だから、雑に扱うことだけは絶対にできない。
ただし、だからといって毎回神妙な顔をしている必要もない。
人間は、悲しい場面でも時には笑う。
緊張していても冗談を言う。
それが普通の感情である。
死を扱う仕事だからこそ、生きている人間の感情の複雑さを強く感じるのである。
遺体搬送の仕事をしていると、病院という場所の人間模様もよく見える。
病院には、生と死が同時に存在している。
新しい命が誕生する場所があれば、その反対側では人生を終える人もいる。
そこには医師、看護師、患者、家族、それぞれの立場の人間がいて、それぞれ違う感情を抱えている。
そんな中で、私たちは「亡くなった後」の部分を担当する。
ある意味、病院から外へ出る最後の担当者である。
だからこそ、病院スタッフとのやり取りにも、その人の仕事への向き合い方が出る。
もちろん、多くの看護師さんは本当に丁寧である。
亡くなった患者さんに対しても、最後まで一人の人間として接している。
搬送の際も協力してくれる。
身体を移動させる時も声をかける。
「ありがとうございました」
そんな言葉を自然に言える人もいる。
そういう姿を見ると、こちらも気持ちよく仕事ができる。
しかし、どんな世界にも色々な人がいる。
中には、亡くなった方への距離感が極端に出てしまう人もいる。
あからさまに嫌そうな顔をする。
できるだけ触りたくないという雰囲気を出す。
もちろん、人間だから怖い、苦手、という感情があること自体は理解できる。
誰でも最初から死に慣れているわけではない。
ただ、その態度が遺族の目に入ったらどう感じるだろうか。
そこだけは考えてほしいと思う。
亡くなった人は、ついさっきまで誰かの大切な家族だった。
父親だったかもしれない。
母親だったかもしれない。
夫だったかもしれない。
妻だったかもしれない。
その人が最後に周囲から雑に扱われる姿は、残された家族には見せたくない。
だから、こちらも仕事として淡々とやりながらも、最低限の敬意だけは忘れないようにしている。
ただ、現場では理想だけでは済まないこともある。
重たい人もいる。
大きな体格の人もいる。
狭い住宅もある。
階段しかない建物もある。
夏は暑い。
冬は寒い。
腰は痛くなる。
汗もかく。
世間が想像する「死に向き合う仕事」というものは、もっと精神的なものを想像するかもしれない。
しかし、実際にはかなり肉体労働でもある。
死体を運ぶ。
この言葉だけ聞くと怖いかもしれない。
でも、現場で一番意識していることは恐怖ではない。
重さである。
角度である。
足元である。
そして、落とさないことである。
亡くなった方を背負うこともある。
抱えることもある。
何度も経験してきた。
不思議なもので、小柄になった高齢者の方を背負う時には、嫌悪感よりも別の感情が出てくることがある。
「長い人生、お疲れ様でした」
自然とそんな言葉が頭に浮かぶ。
もちろん、声には出さない。
聞こえるはずもない。
でも、心の中ではそう思う。
若い人の場合は違う。
「まだやりたいことがあっただろうな」
「家族はどんな思いなんだろう」
そんなことを考えることもある。
ただ、仕事としては感情を引きずりすぎてはいけない。
毎回すべてを背負っていたら、自分が続かなくなる。
だから、一定の距離を保つ。
冷たいようだが、それも必要なことだと思う。
感情移入しすぎてもいけない。
何も感じなくなってもいけない。
この間でバランスを取る。
それが、この仕事を続けるために必要な感覚なのだと思う。
以前、「死体をハグする」という表現を書いたことがある。
もちろん、恋人を抱きしめるような意味ではない(笑)。
移動させるために身体を抱えるという意味である。
しかし、言葉だけ聞くとかなりインパクトがある。
その表現を聞いた人からすれば、
「死体をハグした男」
という強烈な肩書きになる。
世の中には、普通では経験しない出来事を経験してしまう人がいる。
以前、その出来事に巻き込まれた不動産会社の担当者がいた。
彼は大変な経験をした。
当時はかなり精神的にも苦労したようだ。
しかし、人間というのは面白い。
時間が経つと、その経験すら自分の人生のネタに変えていく。
今では飲み会などでその話をすると、たちまち場の中心になるらしい。
最初は悲惨な出来事だった。
でも、年月が経つことで、人に笑いや驚きを与える話になる。
人生とは不思議なものである。
もちろん、すべての悲劇を笑い話にできるわけではない。
取り返しのつかない悲しみもある。
でも、人間には苦しい経験を抱えながら、それでも前へ進む力がある。
そこに少しの笑いが加わることもある。
それは不謹慎ではなく、生きている人間の強さなのかもしれない。
遺体搬送の仕事をしていると、死というものを特別なものとして考えなくなる。
いや、正確には、特別だからこそ日常の中にあるものとして見るようになる。
誰でも最後は死ぬ。
これは当たり前のことだ。
しかし、多くの人は普段、その当たり前を考えない。
考えないからこそ、毎日を普通に生きられる。
それも大切なことだと思う。
私たちの仕事は、亡くなった方を運ぶことだ。
でも、本当に向き合っている相手は「死体」だけではない。
その後ろにいる家族。
その人を大切に思っていた人たち。
残された人たちの気持ちにも向き合っている。
だから、必要以上に悲劇の主人公になるつもりはない。
「命の尊さを教える仕事です」
などと格好いいことを言うつもりもない。
現場では、汗もかく。
腰も痛くなる。
眠い時は眠い。
時には変な状況に遭遇して笑ってしまうこともある。
それでも、最後にその人をきちんと送り届ける。
それが仕事である。
老若男女、身体の状態、亡くなった場所。
こちらが選ぶことはできない。
ただ、願わくば、最後に運ぶ相手は穏やかな顔をした人であってほしいと思う。
長い人生を終えた老人。
家族に見守られながら旅立った人。
そんな人を背負う時には、
「お疲れ様でした」
と自然に思える。
そして、いつか自分自身も、死というものを必要以上に恐れず、人の最後に向き合える人間でありたい。
死体を扱う仕事だから特別な人間になるわけではない。
ただ、人が避けて通りたい場所を少しだけ担当しているだけだ。
そこのけ、そこのけ、死体が通る。
でも、その後ろには必ず、その人を愛した誰かがいる。
だから今日も、慎重に、そして時には笑いながら、最後のドライブへ向かう。





